ファントム、協力する2
その日の夕方からは雨だった。バケツを引っくり返したような、という陳腐な表現では生ぬるいほどの豪雨。アスファルトを叩きつける雨粒は白い飛沫となって跳ね、重厚な木の扉と遮音性の高い壁に守られたセグレトの店内にも、その猛威は絶え間なく響いていた。
閉店時間の夜7時。マスターが磨き上げたグラスを棚に戻し、灰島がモップで床の最後の仕上げに取り掛かっていた、まさにその時だった。カラン、と軽やかなドアベルの音と共に、ずぶ濡れの影が飛び込んできた。
「うわぁ、凄い雨だよ」
びしょ濡れのネズミ、という言葉がそのまま当てはまる姿の玲奈だった。お気に入りのワンピースも、念入りにセットしたであろう髪も、雨水でぐっしょりと体に張り付いている。滴る雫が、灰島が磨き上げたばかりの床に小さな水たまりを作っていく。
「びしょぬれじゃないか。どうしてタクシーに乗らないの」
呆れたように、しかしその声色には紛れもない気遣いが滲んでいた。マスターはカウンターの奥から、ふかふかの大きなバスタオルを数枚持ってきて玲奈に手渡す。
「えー、勿体ないじゃん。こんな雨の日のタクシーなんて、どうせ捕まらないし。それに、灰島さんいるし、一緒に帰ればいいかなって」
「俺がいても、ただ同じように濡れるだけだと思いますが?」
「一人で濡れるよりましじゃないですか。で、告白されました?」
雨は口実だ。この土砂降りの中をわざわざやって来たのは、灰島をいじり倒すため。それが玲奈の真の目的であることを、その場にいる全員が理解していた。
「されません。あと、清掃は終わりましたから──」
灰島が言い終わる前に、彼と玲奈の意識が、店のドアに向けられた。
店の静寂と、外の荒れ狂う雨音の合間を縫って、何かがドアを叩く音がした。
ドアを開けた瞬間、湿った風と雨が店内に吹き込んでくる。そこに立っていたのは、見覚えのある若者だった。
今朝、ランニングの途中で見た、怒鳴られていた外国人労働者の一人。
使い古され、油と汗で汚れた作業服のまま、彼はなにかを掴もうとするかのように虚空に手を伸ばしていた。その手には、何も持っていない。
雨に濡れた顔は青白く、焦点の定まらない瞳が、店内の光を弱々しく捉えた。そして、かろうじて聞き取れるほどの声で、日本語ともつかない音を紡いだ。
「タスケテ……」
それが、彼の限界だった。糸が切れた人形のように、若者は前のめりに崩れ落ちる。
「大丈夫!?」
一番早く反応したのは玲奈だった。床に倒れた彼に駆け寄るが、その肩を揺さぶっても、意識はすでに闇に沈んでいるようだった。
その惨状に、灰島は冷静にマスターを見た。マスターがコクリと頷くのを確認すると、灰島は若者を抱き上げた。見た目よりもずっと軽く、その体には生命の重みが欠けていた。
店の一番奥にある、客用の革張りのソファーにそっと横たえる。濡れた作業服を脱がせるのをマスターが手伝い、玲奈が持ってきたタオルで体を拭いていく。そこで初めて、彼の体の異常さが露わになった。
成人男性とは思えないほど、その体は線が細い。落ち窪んだ目、こけた頬、カルシウム不足なのか、あるいは劣悪な環境のせいか、指の爪は黒ずみ、ボロボロに欠けている。
栄養失調。その一言で片付けるには、あまりにも深刻な状態だった。
「ひどすぎる……!」
マスターが用意した温かいスープを少しずつ口に含ませ、介抱を続けるうちに、青年は意識を取り戻した。
タオ、と名乗った彼の口から語られた現実は、玲奈の想像を絶するものだった。
パスポートは入国と同時に「会社が預かる」という名目で取り上げられた。給料のほとんどは「管理費」「寮費」「食費」といった曖昧な名目で天引きされ、手元には雀の涙ほどの金しか残らない。
休みはなかった。一日14時間、時にはそれ以上の過酷な労働が延々と続く。病気や怪我をしても、病院に行くことは許されない。
「代わりはいくらでもいる」と脅され、ただ痛みに耐えるだけ。
食事は、一日に二度、僅かな米と塩辛いスープのみ。十数人が一部屋に押し込められた寮は、プライバシーなど存在せず、まるで家畜小屋のようだった。それは、紛れもなく現代に蘇った奴隷制度そのものだった。
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