19話 蠢動する影
1950年 3月5日
大
午後二時ちょうど。
宮内省国家情報局の特務部隊が、軍務省庁舎に突入した。
近衛軍と連携して行われた情報封鎖と検問により、帝都警備のため出動していた帝国軍部隊は軍務省に向かう国家情報局の車列に気づくこともなかったのである。
庁舎を包囲したうえで突入を敢行した完全武装の特務部隊の前には、軍務省の警備も抵抗することができず、銃を置くほかなかった。それでも数度の発砲が起こったが、言ってしまえばそれだけであった。
このとき西条
すでに庁舎の地下で拘束されていることがわかっていた叛乱軍将校は、突入後まもなく発見され、特務部隊によって確保された。事態は計画通りに推移していた。きわめて順調に。
『──目標の確保に成功。叛乱軍将校七名。これより軍務省を離脱します』
との報告が現場の隊員から上がった数分後、特務部隊に囲まれた叛乱軍将校が軍務省庁舎の前に姿をあらわした。中には自決を試みた者もいたが、成功するはずもなく、気絶させられてぐったりとしている。
庁舎前に停車している特殊車両と、軍務省正面玄関との距離は数十メートル。
特務部隊は指示通り迅速な撤収を試みて、車両へと向かった。
──先頭にいた隊員の一人が、何か風切り音のようなものを耳にして振り返る。
隊員の視界に入ったのは、矢であった。
まだ命中して間もない、震えている矢。
それは大弓のものだとしても非常に長く、番えるのにも苦労しそうなほどのしろものだった。
それに首を貫かれている叛乱軍将校もすぐに目に入る。
そして間髪入れぬ二射目。
全く同じ風切り音が鳴り、もう一人の将校が悲鳴も上げずに崩れ落ちた。
恐るべき精度の狙撃である。
この時すでに複数の隊員が、伏せるように将校たちに命じたうえで狙撃手の策敵を行っていたが、下手人の姿は一向に見えない。
続く三射目。地に伏せて頭を抱えていた将校の首を貫く。
それが最後の狙撃だった。やがて攻撃がおさまったことに気づくと、特務部隊の隊員たちは生き残った将校たちを連れて急ぎ車両へ乗り込む。
周囲を警戒していた隊員のひとりは、ふと発射方向のはるか奥にある建物に視線を送った。四階建ての建物の屋上で、ひとつの人型が佇んでいるのが見える。隊員はおよそ生身の人間に可能なかぎりの遠見をして、情報を得ようとした。
彼が見たその人型は、確かに弓のようなものを持っていた。ただし、身長の倍ほどもあろうかという大きさの。
そして、何か細長いものがその人型から伸びていることにも気が付いた。赤黒い、蛇のように曲がりくねった何かだ。腕を見間違えたのでは断じてない。
ふっと、その人型は消えた。すさまじい速度で視界の外へと去っていった。
午後二時二十分。
国家情報局の車列はあわただしく軍務省を後にした。
同時刻。近衛軍練兵場。
大きな爆発音が、広大な練兵場の一角にとどろいた。
平野将曹によって放たれた
発射時の発砲炎は使用者本人にまで到達し、強烈な反動を受けて五百キロある平野の身体が数十センチ後退するほどであり、なるほど生身の兵士では扱えないというのも納得できる様子だった。
「今のような至近発射であれば、ほぼ確実に鎧殻を貫通できます。当時ローマの主力だったバルテウス級強化人間に対する有効な攻撃手段として、主にインド方面軍および南方方面軍で用いられました」
小早川の言葉に西条が頷く。
「最も普及した対強化人間装備の一つだな。小早川も言っていたが、汎用装備である九九式対強徹甲弾と違い、もとから強化人間による運用しか想定されない分威力が高い。構造も単純で耐久性もあるから、兵器としてはきわめて優秀だ」
「欠点と言えば装弾数が五発しかないことですが、そこは集団戦でなんとかするのが主流だったようです。あくまで強化人間は強力な歩兵と見なすのが皇軍全体の方針でしたから」
平野は巨大な薬莢を排出し、安全装置を入れてこちらへと向かってきた。
火薬のにおいがこちらまで漂ってくる。平野は銃口を上に向けたままこう言った。
「──もうひとつ。有効射程が短い。まともな損傷を与えたいなら十メートル以内、貫通させたいなら三メートル以内で使わなければならん」
「ああ……仕様上はもう少し遠くてもいいんですけどね。戦争が長引くにつれて敵の
強化人間の鎧殻も強度が高くなっていったので、そういう問題が出てきてしまったんです」
「妙な言い方だな。強化人間の性能が上がったということか?」
そう真言が問いかける。
「いえ、鎧殻を破壊された強化人間が次に鎧殻を展開すると、強度が上がるんです。それもただ全体の厚みを増すのではなくて、破壊の原因に対して適切な構造の変化が起こるんですよ。これは擬蟲による適応行為と考えられています」
「それは、俺にも起こるのか?」
「原理的には、もちろん。大杉さんの場合は擬蟲に知性が残ってますから、より柔軟な──それこそ戦闘中に受けた外力に合わせて鎧殻が変化してもおかしくありません」
真言は、擬蟲というものがいかに常識はずれな生物であるかを何度目かに実感した。思えば坂之上沙羅双樹と豊臣天姫という、二人の自然宿主と深いかかわりを持っておきながら、自分は擬蟲についてあまりに無知であった。
軍事機密であるとはいえ、もう少し知識を蓄えておけばよかったのだ。後悔先に立たずとはまさしくその通りで、この状況になってはじめて過去の自分への文句が出てきてしまう。
「ということで大杉さん、これ一回喰らってみましょうか」
「ん、ああ──なに?」
笑顔で言った小早川に、反射的に返答してしまった。それを聞いた小早川はさらに笑顔になる。
「ものは試しです。それに叛乱軍の強化人間もこの装備をそなえている可能性があるんですから、一回は受けてみないと対処もできないでしょう?」
「それは、そうだが」
「では、平野さーん。一発どこかいい感じのところに撃ってあげてください」
ひとり盛り上がる小早川に、平野が厳しい声で言った。
「万が一、大杉が暴走したらどうする気だ?」
「十式擲弾砲装備の西条
「そのよほどがあったらどうするのか、と聞いているんだ」
平野は淡々として言った。小早川は基本的に自由奔放だが、どうやら平野に対してはあまり強く出られないらしく、返答に窮して鼠の鳴き声のような声を上げている。
見かねた西条が仲裁に入ろうと口を開いたが、それは突然現れた車のエンジン音によってかき消された。危険な速度、危険な制動。運転者がよほど焦っているとしか思えない挙動で、その車はなんとか停車した。
車から降りてきたのは、さきほど兵舎で別れたはずの
「西条隊長、お邪魔して申し訳ありません」
そう言う楠木の声にも、焦燥がにじんでいる。西条が訝しげに言った。
「何があった?」
「──軍務省での作戦が失敗しました」
「なに?」
「正確には──叛乱軍将校の身柄を確保するまでは成功したのですが、その中で、特に重要度の高い情報を握っていると思われていた三名が狙撃を受け殺害されたのです」
「狙撃だと? 三発も撃たせて全員死なせたのか?」
「問題はその狙撃犯です。銃ではなく、長距離から弓を使って三人を瞬く間に殺したとか」
弓による長距離狙撃。
およそ正気の行動ではない。たとえ強化人間であっても、狙撃銃を使った方が圧倒的に確実性が高いだろう。そもそも大弓の射程では、射かける前に気が付かれる。
だが真言にはこの世でたった一人だけ、それをなしうる人物に心当たりがあった。
「師匠か」
「はい。現場の目撃情報から言っても、その可能性が高いかと」
師は──坂之上沙羅双樹は陽本のありとあらゆる武術に精通している。中でも剣術と弓術に関して、彼女に比肩する者は存在しないだろう。
「現在、遠離院大将閣下の指示で近衛軍の強化人間部隊が坂之上卿の捜索に動員されています。このまま逃してしまえば、秋吉につながる情報は──」
「真言や」
──声。誰の声でもない。
真言と、この場にいた五人の強化人間全員が瞬時に動いた。
西条隊の面々は、なかば驚愕、なかば恐怖を覚えながら臨戦態勢に入っている。
──何も感じなかった。
全員がそう思い、そしてその理由を知ることができなかった。
強化人間の感覚をもってして、この距離まで接近を許すことなどありえない。
だが、十メートル離れた羽虫の存在にさえ気づくほどの感知能力が、現に何の役にも立たなかった。これほどの存在感を備えた人物の接近に気付けなかった。
そこにいたのは、一人の女だった。
見た目は若いが、どこか大木然とした落ち着きを感じさせる。
女にしては長身、桜の花弁を思わせる白色の長髪、派手さのない和装。
腰にはその背丈ほどもある大太刀を
容姿の奇抜さと、異様な存在感とは裏腹に、その表情はきわめて温和なものだった。一切の敵意も殺意も感じられない。女は近衛兵たちの反応を気にも留めず、平然と真言へ歩み寄っていく。
「元気そうであるの。さて、もう蟲には慣れたか?」
史書に名を残す救国の戦女神──
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