20話 久闊を叙す

1950年 3月5日

陽本ようほん帝国 帝都 近衛軍練兵場




 真言はつとめて冷静さを保とうとし、それは結局成功しなかった。


 緊張で乾いた口から出たのは、まさしく震え声というほかない声だった。


「……師匠。なぜ、ここに?」


と野暮用があっての。おのれがここにおると聞いておったから寄った」


 久方ぶりに顔を合わせた師の──坂之上沙羅双樹の口調は、真言の知るものと何一つ変わっていない。


「その『野暮用』というのは、軍務省で叛乱軍の将校を始末してくること、ですか」


「よう知っとるの。あれか、あの密偵の女から聞いたか」


 坂之上卿はそう言うと、はじめてこの場にいる他の人間に注意を向けた。


 西条を含めた五人の強化人間は固まっている。小早川は平野の背後に隠れながら手元で何かを書き綴り、その近くにいる楠木は目を見開いたまま立ち尽くしている。他の近衛兵たちも、全員が金縛りにあったかのように動けないままだった。


「……なぜ、そのようなことを?」


「ん? ああ、秋吉に頼まれたのでな。弓なんぞ近頃はよう使わぬが、昔取った杵柄きねづかというやつよ。己はあまり弓術に向いておらなんだから、見せてやったこともなかったか」


「いえ、京の通し矢で一度だけ……」


「ああ……あれは己がまだ三つの頃の話であろう。見せたとは言えん……まあ、それはよい。どうよ、蟲の様子は」


 真言の脳内には、さまざまな思索がめぐっては消えを繰り返していた。

 何を聞くべきか、どう答えるべきか。だが結局、口から出るのはそのままの、最も重要な思いだけだった。


「──天姫さまは、いずこにおわすのですか」


 その瞬間、真言以外の全員がと震えた。

 

 それは本能的な恐怖であり、断崖の底を覗き見たときに感じるものと同種の感情だった。 『いま、虎の尾を踏んだ』という確信にも似ている。


 坂之上卿の表情こそ変わりがなかったが、その裏に何か強烈な感情が生じたのを、強化人間たちは感じていた。先ほどまでの穏やかな植物然とした落ち着きはどこかへと消え去り、激しい竜巻と相対しているかのような戦慄が彼らを襲っていた。


 自分のものではない恐怖さえ感じられるようだった。

 触角が震え、なんとかこの状況を切り抜けられる道筋を探している。目の前にいる女の形をとった怪物から逃れる方法を、彼らの中にいる知恵と魂なき擬蟲たちは必死で導こうとしているのだ。


「……やはり、駄目か」


 坂之上卿はそう小さくつぶやいた。ひどく落胆している様子だった。


「答えてください、師匠」


「断る」


「なぜ師匠は秋吉などにつき、あまつさえ秀清公を害したのです」


 真言がそう問いかけると、周囲を包んでいた威圧感はまるでなかったかのように霧散した。真言以外の誰もが思わず安堵の息をつく。


「まあ、事情があってな。取引をした」


「取引……?」


「おう。それで豊臣からは離れることにした。この間、太閤殿下の墓前にそのこと謝して参ったところよ」


 坂之上卿は、どこか気まずそうにして言った。


「儂のことはよい。今日は己の様子を見に来た」


「なぜ、俺に寄生した擬蟲のことをご存じなのです」

 

「え? あー……それはの……なぜであろうな」


 それを聞かれるとは思ってもいなかった、という風に坂之上卿は狼狽した。

 そして、あきらめたようにかぶりを振ると、ごまかしとも呼べぬような強引ぶりで話を変えた。


「どこかで耳に入ったのよ……しかしまあ、もう鎧をまとえるのか。儂のと違ってずいぶん行儀がいいの」


「すでに二度、俺の自我を乗っ取っております」


「……ほう。しかしそれでも儂のよりは落ち着きがあるわ。儂なんぞ憑かれてから丸一年くらいはろくに記憶がなかったからの──ほれ」


 突然、という音が響いたと思うと、坂之上卿の着物の隙間から赤黒い影があらわれた。擬蟲だ。


 やはり眼と口がなく、外見上は真言のものとほとんど変わりがない。ひとつ異なるのは、宿主である坂之上卿との間に、明確な意思の疎通がとれていることだった。坂之上卿が手のひらをかざすと、擬蟲はそこに自らの頭を横たえた。


「今となってはこうしてそれなりに付き合えるが、昔はひどかったものよ。こやつに乗っ取られて何百人殺したか覚えておらぬくらいにはな」


「それが……師匠の擬蟲ですか」


「──己、そんなことまで忘れたのか?」


 信じられないという顔をして、坂之上卿は言った。

 だが、その言葉の意味するところを真言は理解できなかった。


「どういう意味です」


「……いや、よい。埒が明かぬ」


 ひどく悲痛な面持ちで、坂之上卿は真言を見た。

 

 自分が何かを忘れている。

 その自覚は確かにあった。擬蟲に寄生されてからは、特にその傾向が高まったようだ。だが、肝心の何を忘れてしまっているのかだけが、まったく思い出せない。


 当惑する真言を見て、坂之上卿はますます沈痛な表情になった。


 なんであれ今は情報を得なければならない。

 真言はそう考えて、話題を切り替えた。


「……どのようにして、それを手懐けたのかお聞きしても?」


 その瞬間、坂之上卿の表情が少しだけ明るくなったことに誰もが気付いた。

 最も近くにいるたった一人だけが、彼だけに見えている何か強い輝きに目を眩まされて、そのことに気づいていない。


戦場いくさばに出て斬られまくり、刺されまくり、何十回と死にかけたら、いつの間にか懐いたぞ。勝手に出てくることもなくなった」


「やはり、それしかないのですか」


「おう、何であれば今から──いや、さすがに無理か。まあ、とりあえず蟲については順調そうであるから良しとしよう。儂はそろそろ行く」


 おもむろに話を切り上げて去ろうとした坂之上卿を、真言が引き留める。


「お待ちください!」


「どうした、大声上げおって」


 そう言って振り返った坂之上卿は、笑みを浮かべていた。邪心のない、心の底からの笑顔に見える。だが、それは続いて発せられた真言の言葉を受けてと消えた。


「秋吉の目的は、何なのです。なんのためにこのようなことを」


「知らぬ」


 坂之上卿は深く嘆息し、やる気のない声で切り捨てるように言った。

 さすがの真言もその反応を受けて押し黙る。


 不機嫌を隠さぬまま、坂之上卿は背を向けた。


「──知らぬ、では困るのです。坂之上卿」


 西条だった。

 近衛兵たちは信じがたいものを見るような目で、強化人間たちは無茶を咎めるような雰囲気でその様子を見守っている。


 坂之上卿は無言のまま振り向いて、西条を見やった。


「誰ぞ」


「近衛軍将監、西条茜です。禁闕きんけつ守護たる近衛として、秋吉亮二の目的とその居場所はなんとしても──」


 瞬間、坂之上卿の姿が消えた。

 むろん、本当に消えたわけではない。人間の眼では絶対に捉えられない動き方をしたのだ。人間という生物の設計が想定している現象をはるかに上回る速度で、その脳が予想も推定もできない身のこなし方で。


 人間の制約にとらわれていない者たちが、坂之上卿がおよそこの世のものとは信じがたい挙動で背後に回ったことを認識した時には、すでに西条の身体は吹っ飛ばされていた。


 十数メートルの距離をあけて停車していた近衛軍の車両にすさまじい速度で激突した西条は、苦悶の声を上げて地に伏している。


「西条!」


 真言が叫んだ。


「……遅い」


 坂之上卿は、腰に佩いた太刀に左手を添えながら、無感情にそう言い放った。


「止せ。むやみに近衛を手にかけたくはない」


 攻撃の予備動作に入っていた平野をはじめとする強化人間たちを右手で制止する。

 誰もそれ以上動くことはできなかった。たとえこのまま攻撃しても当たることはないし、それが自分のとった最期の行動になると理解してしまっていたからだ。


「真言や。はやめておけよ」


 倒れた西条へと冷たい目線を向けながら、坂之上卿はたしなめるように言った。まるで母親か祖母が、悪いことをした子か孫に説教をするかのような口調だ。


「己にはもう少しおとなしそうな女の方が合っておるわ。ああいう志が強いだけで思慮も力も足らぬのはやめておけ」


 その言いざまには、西条に対する敵意と侮蔑が同じだけ混じっていた。その裏にあるもうひとつの感情は、かろうじて表に出ないように内心へ留められていた。


 とっさに真言が反駁はんばくする。


「師匠。西条はそのような人物ではありません」


 そのとき再び強烈な威圧感が発せられたのを、真言を除く皆が感じた。

 さきほどよりもずっと強い。今度は殺意さえ含まれている。歴戦の軍人である平野さえ怯えすくむほどの凄惨な意志だ。


「…………己は、本当に女の趣味だけは度し難いの。そこだけは信言しんげんに似なんだか」


「師匠?」


 太刀の鞘を握っている左手に力が込められる。それが何を意味するか、真言は良く知っていた。回避行動。間に合わない。


 鞘が大きく後方へと下げられ、右手で太刀が抜かれる。坂之上卿の愛刀であり、通常の刀剣の倍近い厚さと幅を持った刀身には、地を這う百足のごとき刃紋が閃いている。


 鋼でできた刀では生体鎧殻に有効な損傷を与えることはできない──そんなことは、常識の範疇にあるものにしか適応されない事実だ。


 初撃の斬り上げは、真言の身体を覆っていた鎧殻の最も硬い表層部分に塑性変形を起こした。強度の下がったその部位に対して、間髪入れずに突きが命中する。


 音速を超えた太刀の刃は鎧殻を貫いて真言の脇腹まで達し、ついには反対側の鎧殻をも貫通した。その衝撃は周辺の内臓を大きく傷つけ、致命的な損傷を与えた。




 ──ふと、真言の中で、自分のものではない感情が沸き上がった。

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