13話 彼我、邂逅

1950年 3月5日

陽本ようほん帝国 帝都 近衛軍兵舎




 薄明はくめい


 大杉真言は、近衛軍兵舎の地下にある一室で佇んでいた。

 座位は結跏趺坐けっかふざ、手は法界定印ほっかいじょういん。座禅に臨むさいの基本的な姿勢だ。幼いころから師匠の真似をして行っていた習慣のようなもので、考え事をするときはいつも座禅を組むのが癖になっている。


 擬蟲に寄生されてからというもの、真言は眠ることができなくなっていた。はじめは一過性のものであるかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。


 小早川いわく、睡眠能力の喪失は強化人間では起こらない、自然宿主しゅくしゅに特有の事象であるという。言われてみれば天姫さまもそうであったし、師匠が眠りについているところも見たことがなかった。


『──詳しい原理はわかってないんですよねぇ。擬蟲自身は睡眠をとらないので、宿主が寝てしまわないように自主的に疲労物質の除去とかを肩代わりしているのではないか、っていう仮説はありますけど、いかんせん脳科学の分野なので小官は門外漢でして……』


 とは小早川の言である。


 昨日の一件──擬蟲による暴走のあと、西条隊は増援の強化人間部隊と合流し、真言の身柄を預けた。どうやら小早川は近衛軍では相当顔が利くらしく、当然のように真言に同行し、その後の多種多様な検査を主導した。


 その後、小早川は西条隊の治療の様子を見に行くと言って足早に去っていき、真言はひとり残された。もちろん監視はついているが。


 部屋はコンクリートの壁がむきだしの、おそらく倉庫か何かを転用したと思しきもので、およそ快適さとは対極に位置する場所だったが、事情を考えれば文句など言えるはずもない。


 


「……天姫さま」


 真言は、これまでの人生に経験がないほどの無力感にさいなまれていた。

 守ると誓った主君を叛徒の手に陥れることを許し、警護隊の部下たちを救うこともできず、恥知らずにも生き延びて、得た力を制御することもできていない。


 それは苦痛であり、恥だった。

 武士にとって最大の恐怖は、恥や恥辱をすすげないことだ。死後にも消えない汚名を背負うことだ。


 だが、恥を恐れて行動しないこともまた己の武士道に反する。真言はどうにかして、天姫を救うために必要な力を我がものにしようと試みていた。


 ──しかしこれまでのところ、瞑想を通じて内にある擬蟲の意志を見つけようという試みは、ことごとく失敗に終わっていた。


 禅によって己の内にある仏性ぶっしょうを見出すというのは、古くからある発想である。自身に棲みついた擬蟲に、強化人間のそれとは異なり知性が残っているのであれば、交信の可能性は皆無ではないはずだ。


 そう考えて瞑想にふけってみたはいいものの、まるで手がかりがつかめない。


 釈尊しゃくそんは六年の苦行の果てに施しを受けて成道じょうどうしたというし、達磨だるま大師は九年の座禅の末に悟りを果たしたという。ことを成すにあたって拙速は禁物だが、今回に限っては急がなければならない事情があるのだ。




 ──天姫さま。


 真言はそう内心で何百度目かに呟いた。


 五年前の開戦直前、十九歳だった真言は将軍秀清公と、その腹心であった父の計らいで豊臣天姫と引き合わされた。


 当時、彼女は九歳。そんな子供が、生まれてから一度たりとも自由を知らず、地獄の責め苦にも劣らない苦しみを負わされ続けてきたということを知らされた真言は憤った。


 士道にも人道にももとる行いだと、若さと感情のままに将軍の御前で言い切った。だが予想に反して秀清公は怒ることもなく、父は自分を叱責することもなかった。


 ──真言は、その日出会った豊臣天姫という少女を、同じ人間だとは思えなかった。


 地下深くにある実験室の特殊ガラス越しに真言を見据える双眸には、それぞれ四つの人のものならざる小眼球が連なっていた。向けられた八個の視線が、あたかも自分のすべてを見透かされているかのような恐怖心を煽った。


 簡素で無機質な病衣をまといながらも、仙女のごとき神秘を伴う少女──天姫にはおよそ感情らしき感情がなかった。ただそこにあるだけで、ほとんど死人のような印象を受けるほどだった。


 病床で息絶える直前の祖父の様子が自然と思い返された。臨死、今際の際。人間がその時にしか得られないはずのものを、天姫は常に持っているようだった。


 天姫は、当然恨みを持ってよいはずの誰に対しても──自分の身体を科学のために弄ぶ研究者や、それを国家のためと見過ごす実の父や、真実を知ってなお助けようともしない見知らぬ青年にも──その憎しみや怒りを向けることはなかった。それどころか、慈愛を向けてさえいた。


 これまでに受けたあらゆる責め苦を許し、これから受けるあらゆる苦痛を受け入れること。それは諦念とはまた異なる。諦めるということは、何かへの執着を捨て去ることだ。

 だが、天姫の心には最初から一切の我執がしゅうはなく、ただ無我だけがあった。


 それはまさしく悟りに至ったものの視点であり、仏陀ぶっだと呼んで差支えのない在り方だ。


 真言は畏怖した。

 己の矮小さを本当の意味ではじめて自覚し、この世に仏法ぶっぽうの実在することを知ったのだ。


 そして、このあまりにも尊い存在に仕えたいと強く思った。それはほとんど衝動的な欲求であり、許されるはずのないことでもあった。だがほかならぬ主君であった秀清公は、何を思ってかそれを許したのだった。




「──なんだ?」

 

 瞑想は突然に中断された。


 背筋にするどい痛みが走ったのだ。まるで背骨全体がはぎとられているかのような強烈な痛みだった。それと同時に、何か強烈な衝動のようなものが、自己とは異なる精神から発せられているのが感じられる。


「がっ……!?」


 激痛に悶えながら硬い床に倒れ込む。五百キロの体重がかなりの物音を立てたが、それは分厚い壁と扉に阻まれて外には届かなかっただろう。苦悶の声もまた誰にも届かない。


 やがて、長い長い時間の後、ようやく痛みが治まった。息を整えながら床に手を突き、四つん這いの体勢からなんとか立ち上がろうとしたそのときだった。


「……あ?」


 目の前にはがあった。

 赤黒い殻に覆われた皿状の頭部。側頭部からは一対の牙のごとく鋭いあぎとが生えている。そして二本の細長い触角が後頭部に向けて伸びているその容貌は、百足に酷似していた。


 百足と異なるのは、その頭部が人間の頭より一回り半ていどしか小さくないということと、眼と口がないという部分のみだった。


 真言は、その百足に似た怪物の身体が自分の背中からあらわれていることに気づくと、声にならない声をあげた。


 ──擬蟲だ。

 真言の精神の冷静な部分はそう結論付けていた。擬蟲の雄性。

 生化研で何度か目にしたことがある、その姿と相違なかった。


 擬蟲はなにやらカチカチと音を立て、真言の顔から拳一つ分の距離を保ったままじっとしていた。何かの意図があるとも思えるし、知性などまったく感じられないようにも見える。


 ひとつ確かだったのは、擬蟲はいま、何か強い感情に駆られているということだった。


「……なんだ、何が……」


 擬蟲は、しばらくそのまま動かずにいたと思うと、おもむろに震えた。


 すると視界が暗転した。

 同時に身体の自由が奪われ、五感のいずれもほとんど感じられないほどに薄まった。


 ──いったいなんだというんだ。あまりのことに真言は内心で毒づいた。

 

 どこからか光が差す。

 それはやがて色と形を成すようになり、最終的には輪郭のあいまいな現実の光景を形作った。紙芝居のように、場面が次々と飛んでいく。すぐにそれが、真言自身の記憶から抽出したものであることに気づけた。


 時系列はめちゃくちゃだったが、一貫した題材に沿った場面が選ばれているようだった。いずれも生化研、そして天姫に関する記憶から選ばれたものだ。


 天姫と出会った日の記憶から、生化研で意識を失った瞬間までの何千という場面が連続して見える。ひとつの場面がふたつになったり、複数の場面がひとつにまとめられたりしていき、だんだんと時系列が整理されていく。


 次第に見せられる場面は数を減らしていった。残ったのは、最後に天姫と顔を合わせた日の記憶と、生化研で叛乱軍と交戦している記憶のふたつだけとなった。


 そのふたつが、代わる代わる真言の視界に映し出される。しつこいほどに。


 ──これにどういう意味がある?


 真言は、擬蟲の意図を計りかねていた。

 これは明らかに、擬蟲からの積極的な接触だ。これまでにないほど直接的で、性急な手段をとってきている。


 意志を伝えたがっているのか。それとも、何か確かめたいことがあるのか。どちらかに絞るには判断材料が少なすぎる。真言は、なんとかして意志の疎通を確立させようとこころみた。


 特定の言葉を脳内で繰り返したり、記憶を想起したりといった方法をためしたが、なんの反応も得られなかった。擬蟲はひたすら、二種類の記憶をくりかえし見せつけてきている。


 しばらくなんの収穫もない『対話』が続いて、真言は理解した。

 どうやら、今の擬蟲は冷静さを──というか、それに類するものを──欠いている。焦っていると言い換えてもいい。これほどまで進展がないのであれば、手段を変えるということも考えるべきだが、その様子もない。


 擬蟲はなにかに執着していて、それはよほど重要なことのようだ。


 そこまで思い至った時、とつぜん意識が遠のいた。


 久しぶりの眠気だった。

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