9話 自我、交錯

1950年 3月4日

陽本ようほん帝国 帝都 近衛軍練兵場




 両者の距離は、およそ二十メートル。生身であれば間違いなく『遠い』と感じるだろう間合いだが、強化人間にとっては二三歩の距離だ。


 西条は得物を抜くそぶりもないが、その双眸そうぼうは真言の身体のいかなる変化も見逃さぬように見開かれていた。


 対する真言は、以前とは隔絶した運動能力を獲得した自分の肉体に強い違和感を感じつつも、それを扱いこなそうと精神を集中させている。そのさなか、はるかに性能の向上した眼で西条を観察するが、いかなる予備動作も力みも見られない。


 ──隙がない。陳腐な表現だが、それがそのまま事実だった。


 西条とは生化研の地下で一度戦ったのだと聞かされたが、自身にその記憶は全く残っていない。あの日の記憶は、消えゆく意識のなかで奇妙な感覚を覚えた、その瞬間までで途絶えているのだ。


 だから、真言にとってはこれがあの時以来初めての戦闘ということになる。新しい感覚、新しい肉体。およそ万全とは程遠い条件下だが、だからこそ滾るものもあった。


 ──右足で強く地を踏みしめろ。そう脳から命令が発せられた瞬間、どこからともなくもう一種類の命令が神経系を通っていくのがわかった。


 その命令の正体がなんであるかは、すぐに理解できた。

 仮に真言が意図した通りに身体が動いていれば、おそらく二歩目を踏み出す前に前方へ勢いよく倒れ込んでいただろう。まだ新しい肉体の性能を正しく把握できていなかったために起こった過ちだった。


 だが、真言自身の思考に続いて迸ったもう一つの命令は迅速に左足を操作し、その過ちを帳消しにした。補助してくれたのだ。


 自分の中にいる存在がなんであれ、少なくとも一蓮托生であることは間違いがない。そして、そのことをお互いが共通して認識しているという確信も生じた。


 曇天どんてんの下にある練兵場に、鈍い衝突音が響く。かたや五百キロ、かたや三百キロの人型が、時速数十キロでぶつかりあった音だ。


 もちろん、重量で劣る西条が押し勝つ道理はない。後方へと吹っ飛ばされた西条は鮮やかな動きで身をひねり真言から距離をとると、腰の短刀を抜いた。


「着鎧」


 短くつぶやき、下腹部を刃で貫く。わずかな血が滴り、すぐに止まる。そして、それよりもずっと急速に、赤黒い液体が傷口からあふれ出し、まるで意思のある軟体生物のように西条の全身を這いまわる。


「……やろうか」


 西条がそう言い終えたとき、すでにその顔は赤黒い鎧の下に隠れていた。目の位置に形成された触角がと震えてしなる。


 一直線に距離を詰めていく真言の耳に、銃弾がそばを掠めたような音が届いた。


 ──なんだ? 

 

 西条の動きは追えている。

 『着鎧』してすぐに接近する真言をかわし、真横へと跳んでいったのだ。美しい流線型をした鎧殻の表面で、空気の流れが整流されているのがわかるほど滑らかな挙動だった。空気抵抗は最大限軽減されているに違いない。


「──っ…か」


 異常に気づく。

 頸部の違和感だ。鈍痛。くわえて温かさを感じる。

 視界の端に短刀の柄が見えた。位置から言って、間違いなく自分の喉に刺さっている。どこかの時点で投擲されていたのだ。

 

「はじめは意外と気づかないものだ」


 西条は自らの角運動量を巧みに調節してぴったり真言の背後をとると、そう言った。鎧殻に覆われた手が、喉元の短刀をしかと握っている。


「だがね、やはり結局は慣れだよ」


 喉元を正面から貫いた刃が、頸椎の周りをくるりと半回転させられた。

 丁寧に手入れされた短刀の切れ味は、真言の皮膚と肉とを切り裂くに十分だった。




 

 模擬戦の一部始終を眺めていた観客たちは、首から勢いよく出血してうつ伏せに倒れ込んだ真言を見て、多種多様な反応を見せていた。

 

「さすがの試製九式ですね。未熟とはいえ自然宿主相手にきっちり致命傷とは」


 小早川は戦闘の様子を凝視しながら、手元を見ることなく何かを書き綴っている。


 その背後に控える近衛兵たちは口々に「さすが隊長」「あれくらいなら俺もできる」などと軽口を叩き合う。現場慣れ、冷静沈着というだけでは表しきれないその様子に、秀信が突っ込んだ。


「あれは大丈夫なのか? いや、常人と比較してはいけないのはわかるが、いささか……」


 不安そうな顔で真言の安否を問う秀信を、小早川は完全に無視していた。


 これほど雑に扱われることがないのだろう、秀信は不愉快というより不可解そうな表情を浮かべている。


「問題ありません。あの程度の負傷なら我々強化人間でもしばらくすれば立てるようになります」


 代わりに答えたのは、西条の副官である平野将曹しょうそうだった。


「動体視力、反応速度、膂力りょりょく。いずれも我々より優れているのは確かです。ですが、まだ肉体に脳が追いついていない……そうだな、小早川」


「いやぁしょうがないですよ。まだ六日目なんですから。平野さんだって手術のあと最低一か月は訓練したでしょう?」


 小早川は、同僚である平野に対しては普段と変わらぬ様子で答えた。それを見た秀信は何か言いたげではあったが、すぐに質問の相手を平野へと切り替えた。


「しかし、西条将監しょうげんもすさまじい動きだったな。あれが最新世代の強化手術なんだろう?」


「はい。西条隊長は近衛軍への配備が決まっている十機戦──十式機動戦闘強化人間の試作型、試製九式です。名前の通り、機動性に特化した強化人間となります」


「西条軍務大臣の令嬢が出奔したあげくに近衛軍に入隊したという話を聞いたときは驚いたものだが……」


 しみじみとした秀信の言葉に、平野はわずかに笑みをこぼして言った。


「ええ。自分も驚きました。ようやく戦地から帰ってきて早々に近衛軍に引き抜かれたと思ったら、上官がまだ二十そこそこの小娘と言われたときは唖然としました」


 平野はそう言って西条を見やった。流血して倒れ込んだ真言から一定の距離をとったまま、警戒を解く様子はない。


「まあ、その小娘が危険な強化手術に志願して、生きて帰ってきたときにはもっと唖然としましたが」

 

「試製九式は手術の成功率が低調で志願者が二桁死んでましたからねぇ。戦時中にはもうお蔵入りするんじゃないかってくらいとことんうまくいってなかったんですが、西条将監が志願してきたときはびっくりしました。まあそれで大成功するあたりがこの分野の面白いところなんですけど」


 普段通りの早口で笑いながら言う小早川に、平野の鋭い視線が向けられる。国家に身命を捧げた死者に対する礼を欠いた発言を咎めるように叱責が飛んだ。


「言葉を慎め、小早川。それに先ほどからの態度はなんだ。副将軍閣下に対して敬意を欠きすぎるぞ」


「……」


「小早川!」


「あれ、見て下さい」


 瞬きひとつしない小早川の視線を追った先にいたのは、真言だった。


 すでに頸部からの出血は止まっているが、生体鎧殻が展開される予兆はない。だが、かすかに全身が震えているのが遠目でも見える。


 不審に思ったらしい西条が、それまで取っていた間合いをゆっくりと詰めていく。声をかけているようだが、返答はない。西条はさらに距離を詰めている。


 そして、およそ二メートルの位置にまで達しようという瞬間──


「隊長!」


 平野がとっさに叫んだ。西条がはっとして後方へ飛びずさろうとするが、時すでに遅かった。


 頸部の傷口からすさまじい速さで何かが飛び出る。それは鈍く輝き、凝固した血と同じ色をした、百足のように細長い何かだった。擬蟲だ。


 西条の下腹部に向けて鋭い牙を突いた擬蟲だったが、どうやら射程ぎりぎりの位置だったらしく、外側の鎧殻がわずかに損傷するだけに終わった。

 

 擬蟲は奇襲が失敗したと悟るや否や、宿主──真言の全身に鎧殻を展開した。それは西条の『着鎧』をはるかに上回る速度で全身に広がっていく。


 平野が拳銃を抜くと同時に命じた。


「──総員、着鎧!」


 あの日は地下深く、今日は曇天の下。

 まったく同じように、四発の銃声が轟いた。


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