10話 彼岸と此岸

1950年 3月4日

陽本ようほん帝国 帝都 近衛軍練兵場





 大杉真言は、己のものならざる記憶の中にいた。


『──是故ぜこ空中くうちゅう無色むしき無受想むじゅそう行識ぎょうしき無眼耳鼻むげんにび舌身意ぜつしんに無色声香むしきしょうこう味触法みそくほう……要するに、全てのものには何もないということよ。儂は一度だけ、これを実感したことがあってな。百年も前のことであるが、よう覚えておる』


 師匠が、あのとき言っておられたのは、のことだろうか。


 それとも、あの日──二月二十六日、意識を失う直前に起こったことなのか。


 いや、後者は違う。あのとき確かに自分の心の中に、満足感にも似た何かが生じていた。あれは我執がしゅうだ。欲望と執着があり、それが達せられたからこそ満足があったのだ。


 やはり、これだ。


 見渡す限り何もない、真っ暗闇。

 だが行く先には、数えきれないほど、光に満ち満ちた場所がある。

 無窮。有窮。

 無限。有限。

 無尽。有尽。

 無涯。有涯。

 どこまで行っても果てがなく、しかしどこかには果てがある。


 眼耳鼻舌身意、色声香味触法のいずれもない。

 だが、たどり着けさえすればそれらは在る。


『──そこで浮かんでおるとな、羯諦ぎゃーてい羯諦ぎゃーてい、と。儂自身の声で聞こえてきたのよ。羯諦はぼん語で「行く」だか「行かむ」だかいう意味であるが、ひたすらそれが繰り返される。不思議と気味悪くは思わなんだが、妙だとは思うた』


 やはり自分は今、師匠と同じ体験をしているのだろう。自分の声が、どこからともなく聞こえてくる。


 羯諦。羯諦。

 羯諦。羯諦。


 行こう、行こうと言っても、どこへ行くというのか。


『──般若心経であれば、行く先は彼岸すなわち悟りよな。しかしの、その声はどこに行こうとしておるのかがわからん。そう思うて行く手を見るとな、いつの間にか暗闇が晴れて、明るい点が見える。それがなにかは、ついぞ知れなかった』


 意識がだんだんとはっきりしてくる。此岸しがんに引き戻されているのだろうか。


 最後に見えたものは、果てしない暗闇の中に輝く、たったひとつの青い点だった。




 ふと、目が覚めた。




 意識だけがあった。間借りされていた精神の主導権が、久しぶりに返ってきたような感覚だ。


 しだいに五感が強く感じられるようになっていく。全身に痛みが感じられる。血の匂いと、冷たい空気の感触、そしてぼやけた光が見えてくる。最後に、声が聞こえた。

 

「──! ──ってくだ──! ──ん!」


 最近、よく聞くようになった声だ。


「──ちょっともういい加減起きてくださいよ大杉さん!」


 小早川の大声は、初めて聞いたな。そんな感想が最初に出てきた。


「起きている」


 かろうじて声を出すことができた。全身に強い疲労感と倦怠感がある。


 開けた目がようやくものを捉えられるようになると、真言は自分が立ち尽くしたまま、強化人間に取り囲まれていることに気が付いた。


 あたりには鎧殻と思しき赤黒い残骸が散乱している。

 量からみて、周囲の強化人間のものではない。そこで初めて自分の全身を覆う赤黒い鎧殻が目に入った。頭部の鎧殻はほぼすべて剝がされているようだ。


 すると、強化人間たちに阻まれながら、顔を真っ赤にしてなんとかこちらに手を伸ばしている小早川が見えた。よほど暴れたのだろうか、いつも身に着けている眼鏡にヒビが入っている。


「ほーら皆さん聞きましたか!? 言ったじゃないですか一過性の暴走だって! 絶対に鎮静剤打ったりしないでくださいね鎧殻の化学的性質変わっちゃうので! 採血と鎧殻の試料採取するんでそこどいてください平野さん!」


 大声を出し慣れていないのか上ずった声でそう訴える小早川だったが、抗議もむなしく平野副長と思しき強化人間に掴まれてどこかへ引きずられていった。


「……焦りすぎたようだ」


 後ろから西条の声がした。振り返ろうとしたが、首がうまく動かない。悪戦苦闘していたら、彼女の方から正面にやってきてくれた。


 視界に映った西条の姿を見て、真言は絶句した。

 

 全身の鎧殻が著しく損傷していて、特に左手の指が三本ない。頭部を覆っている鎧殻の右半分は完全に失われて顔が露出しているし、頬のあたりにはひどい裂傷がうかがえる。傷口の中では、今もなお急速な組織の再生が続いているのが覗き見れた。


 さらに耳を澄ませば、失われた指の根元から断続的にと硬い音が聞こえる。おそらく骨の再生に伴う音だろう。


「……俺がやったのか」


「ああ。貴官というか、貴官の擬蟲がな」


「同じことだ……すまない」


「記憶にないことは謝れないのではなかったか?」


 そう言われた真言は四日前の病室での会話を思い出すと、苦笑としか形容できない表情を浮かべた。西条には真言を責める気配もなく、ひたすら冷静かつ無感情に事を進めている。その態度が余計に無力感をあおった。


「まあ少なくとも今回、人死には出なかった。それだけで良しとしよう」


「そうか……」


「それと、副将軍は無事だ。兵舎の方に避難していただいた」


 そう言うと西条は自身の鎧殻の隙間から注射器を入れて、鎮静剤を打った。

 しばらくすると鎧殻の色がより黒っぽく変化し始め、やがて自然と体表から脱落していった。


「俺はどうなる?」


 真言は、自責の念をにじませて言った。だが、それに対する返答はまったく拍子抜けするものだった。


「どうもなるまい。そもそもこの事態は想定されていた。だから私の部下が揃えられていたんだ。だが……」


 西条は部下の強化人間たちを見やった。全員が西条ほどではないが、相当な傷を負っている。


「次は監視の戦力を増やすよう、遠離院卿に上申せねばなるまい。貴官が──擬蟲が突然、凍り付いたように攻撃をやめなければ、死人が出ていたかもしれなかったんだ」


 すると、強化人間の一人がと真言の前へ出てきた。鎧殻があるため表情は見えないが、どう受け取っても好意的な雰囲気ではない。


「生化研じゃおまえに腕を食いちぎられて、今日は殺されかけた。いいか、次暴走したら捕獲なんぞ考えずに最初っから殺しにかかってやるぞ。そうすりゃ鈴木と坂本の仇もとれるからな」


 鎧殻越しのくぐもった声だが、それに含まれる怒気は強烈だった。そして聞きなれない二つの人名が、生化研で殉職した二人の近衛兵のものであることは嫌でも察しがついた。


「よせ、遠野!」


「次があったらの話だ」


 もう一人から遠野と呼ばれた強化人間は、それだけ言って下がっていった。西条は咎めるような声を上げかけたが、かぶりを振って真言に向き直った。


「とにかく──」


「多分次はもうないですよ」


 平野に連れられて行ったはずの小早川がどこからともなくあらわれて西条の言葉を遮った。その場にいる全員の注目が集まる。一斉に視線を浴びた小早川は変な声を上げて西条の後ろに隠れると、続けた。


「今だから言える話ですけど、強化技術が未熟だったときは大杉さんみたいに暴走しちゃうことがほとんどだったんです。零戦より前世代の強化手術は特に。それでまあ色々と試行錯誤してですね、寄生させる前に擬蟲の脳を処理することで解決したんですが」


「……処理? 脳を? どういうことだ」


 西条が訝しげに背後の小早川を見る。


「本来、擬蟲はけっこう……いや相当頭が良いんです。それこそ、生まれて間もないのに周りにいる研究者たちの上下関係を把握したりとか。擬蟲自体は社会性をほとんど持たないのに、他の生物の社会的行動は理解するんです。不思議ですよね」


小早川ばやちゃん、いつもの早口はいいんだが、それがこいつの暴走とどう関係があるんだ?」


 要領を得ない言い回しをする小早川に、遠野が突っかかるようにして言った。


「もうちょっと聞いてくださいってば。あんまり頭が良すぎても使えないんですよ。無理矢理寄生させるとさっきみたいに暴走するか、酷いときは宿主もろとも死んでしまうので。皆さんの強化手術に使われている擬蟲は、事前に不要な脳機能を大幅に削って、必要な部分だけ残したやつを使ってるんです。そうすれば性能は落ちますけど、人間が主導権を握ることができます」


 それを聞いた誰もが、唖然として黙り込んでいた。

 知能を奪い、強制的に人間に寄生させて兵器として運用する。およそ生命に対する冒涜の極みといってよい所業だ。


 だが、周囲の反応とは対極に、当の小早川の口調は普段の軽薄な早口からまったく変わりがない。


「大杉さんの場合は、その『処理』がされる前の擬蟲に寄生されているので、頭がいいままなわけです。しかもこの場合、きわめて珍しいことに、擬蟲が自ら宿主として大杉さんを選んでいます。生化研で武術の型みたいな動きをしたって話もありましたけど、それは間違いなく大杉さんの記憶から読み取った知識でしょう」


 記憶の読み取り。それはおそらく一方通行ではないという確信が真言にはあった。

 さきほどの精神体験。あれは間違いなく擬蟲によってもたらされたものだ。あれが自らの内にいる擬蟲からの接触なのか、それとも意図せぬ記憶と思考の交わりだったのかはわからないが、意味は確かにあるはずだ。


「今回の場合は、寄生してしばらく安定した環境に置かれていたのに、突然大杉さんが重傷を負ってしまったことにびっくりして宿主を守る行動に出たはいいものの、皆さんの目的が殺害ではなく無力化であることに気が付いて戦闘行動をやめた、ってところだと思われます」


 そこで小早川はようやくひと息をついた。隙を突くかのように遠野が割って入る。しかしその口調にさきほどまでの威勢のよさは見られなかった。


「……それで、次がないってのはどういうことなんだ」


「擬蟲はここでこうして皆さんと大杉さんが会話していることを見ています。個人を認識しているかまではわかりませんが、今の状況は安全だと判断しているはずです。なので、少なくとも訓練でこういう暴走はもうしないと考えられます……皆さんが大杉さんを本気で殺しにかからない限り、っていう但し書きはつきますけどね」


 しばらくの間、場を沈黙が支配する。

 何人かは真言に複雑そうな視線を送ってきた。真言には、擬蟲が自分の眼や耳を介して外界の情報を得ているということへの実感がない。だが、そうだと言われればそうなのだろうというあいまいな思いもある。


「なあ、小早川。お前はどこまで知っているんだ?」


 全員の内心にあった疑問を代弁した西条の発言に、小早川は気まずそうな顔をした。


 真言がこの四日間で見聞きした限りでは、これまで小早川はかなり口の固い女だったようだ。


 天姫にかかわる事情はもちろん、擬蟲研究の情報などをわずかでも仄めかしたことさえなかったらしい。軍人としては当然のことだが、普段の彼女をよく知っているものからすれば、それは意外な側面と感じられるようだった。


 先の叛乱以降、遠離院卿の指示のもとで、近衛軍の強化人間部隊における擬蟲機密の取扱基準は大幅に引き下げられた。今の彼女の饒舌は、それもあってのことなのだろうと思われた。


「どこまで……まあ色々知ってますよ。でも皆さんに言えることは全部言ってます! 言えないことは……だいたいは言ったら次の日には殺されちゃう内容なので言えません。小官、まだ死ぬ気はないので」


 そう言った小早川は笑顔だった。


 良くも悪くも、行動が子供じみた女だ。


 自分の興味があることには饒舌になるが、不用意に他人の視線を集めることを嫌う。秘密を守ることは得意だが、喋って良いとわかれば必要以上にぺらぺらと触れ回る。わかりやすいといえばわかりやすい。


 だが、真言にはひとつ計りかねていることがあった。


「……小早川。お前はなんのために擬蟲を知ろうとしている」


 そう問われた小早川はヒビの入った眼鏡越しの両目をぱちぱちと開閉して、質問の意味がとれない、とでも言いたげな顔をした。そして、不思議そうな顔をしたままこう答えた。


「……? 帝国の御為おためですよ。自分のやりたいことが国家の利益に繋がるのであれば、それ以上のことはないでしょう?」







※(以下、注釈)


・「是故空中〜」……般若波羅蜜多心経(般若心経)の一節


・「羯諦」……同じく、般若心経の一節


・「梵語」……サンスクリット語。「仏陀」「波羅蜜多」など多くの仏教語はその音写

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