第五話:好きの証明
週末の二日間、雨は、まるで世界を洗い流そうとするかのように、執拗に降り続いた。
土曜日の朝、垣原瞬は、窓ガラスを叩きつける雨音で目を覚ました。
外は、昼間だというのに、夕方のように薄暗い。
厚い雲が空を覆い尽くし、街全体が巨大な灰色のドームの中に閉じ込められてしまったかのようだった。
彼は、その二日間、ほとんど部屋から出なかった。
ベッドの上で、ただ、虚空を見つめる。スマートフォンの画面は暗いままだ。
大輝から「生きてるか?」というメッセージが一件入っていたが、返信する気力も湧かなかった。
時間が、ひどくゆっくりと流れた。
雨音だけが、唯一のBGMだった。
最初は激しく窓を叩いていた雨も、やがて、しとしとと地面を濡らす静かな音に変わり、そしてまた、思い出したように激しくなる。
その単調な繰り返しが、瞬の思考を堂々巡りさせた。
金曜日の、あの光景。
『楽しんできてね!』
あの、残酷なまでに明るい笑顔。
そして、脳裏に焼き付いて離れない、半年前の里奈の泣き顔。
二つの光景が、交互に、何度も、瞬の頭の中で再生される。
好きだから、泣く。
好きだから、追いすがる。
それが、瞬が知る唯一の恋愛の法則だった。
その法則に則れば、導き出される答えは、一つしかない。
前原美影は、俺を好きじゃない。
それどころか、俺の必死なアプローチを、俺の苦悩を、その笑顔の裏で、ずっと、ずっと嘲笑っていたのだ。
俺は、ただの、滑稽な道化だった。
その結論に達するたび、身体の奥底から、冷たくて、重い怒りが込み上げてくる。
屈辱。
それは、瞬が人生で最も嫌う感情だった。
日曜日、夕方。
ようやく雨が上がった。
西の空の雲が切れ、そこから、まるで神の啓示のように、斜陽が地上に差し込んだ。
雨に濡れたアスファルトが、その光を浴びて、鏡のように空の色を反射している。
近所の家の庭先に植えられた紫陽花が、たっぷりと水を含んで、生き生きとした青や紫の色を輝かせていた。
世界は、こんなにも美しいのに。
瞬の心は、固く、暗く、閉ざされたままだった。
彼は、決意していた。
月曜日、この不毛なゲームに、終止符を打つ、と。
月曜日の朝。
空気は、雨に洗われて、驚くほど澄み切っていた。
湿った土と、濡れた緑の匂いが混じり合った、独特の清浄な香りが満ちている。
道端の水たまりが、抜けるような青空を映し出し、まるで地面に空の欠片が落ちているかのようだ。
「おい、瞬。お前のその顔、どうしたんだよ」
通学路の途中で合流した大輝が、瞬の顔を覗き込んで眉をひそめた。
「別に、どうもしてねえよ」
「嘘つけ。隈、すげえぞ。週末、ちゃんと寝たのか?」
「……」
「なあ、お前、まさか、馬鹿なこと考えてんじゃねえだろうな」
大輝の、親友としての直感。
それは、いつも鋭い。
だが、瞬は、その心配を振り払うように、前だけを見据えて言った。
「今日、全部、終わらせる」
その声は、自分でも驚くほど、冷たく、乾いていた。
その日一日、瞬は、まるで嵐の前の静けさそのものだった。
彼は、誰ともほとんど口を利かず、ただ、じっとその時を待っていた。
教室の窓から見える、雨上がりの鮮やかな緑も、教師の退屈な授業も、クラスメイトたちの楽しげな笑い声も、今の彼には、すべてが無意味な背景に過ぎなかった。
彼の視線は、常に、ただ一人に向けられていた。
前原美影。
彼女は、いつも通りだった。
それが、瞬の神経を、より一層ささくれ立たせた。
朝、教室で顔を合わせれば、「おはよう、瞬くん!」と、週末に何もなかったかのような、太陽の笑顔を向けてくる。
昼休みには、「瞬くん、こっちで食べなよ」と、当たり前のように自分のグループに誘ってくる。
その、完璧なまでの「日常」。
瞬には、それが、緻密に計算された、悪意に満ちた「演技」にしか見えなかった。
あの笑顔の下に、俺を嘲笑う本性を隠している。
そう思うと、腹の底が、煮え繰り返るようだった。
彼は、彼女からの誘いを、すべて、無言か、あるいは「ああ」という素っ気ない返事だけで拒絶し続けた。
教室の空気は、目に見えて気まずくなっていった。
結衣が、心配そうな、そして少しだけ非難するような目で、こちらを見ているのに気づいたが、構わなかった。
そして、終わりを告げるチャイムが鳴った。
長く、永遠に続くかと思われた一日の、終わり。
瞬の、我慢の、終わり。
生徒たちが、一斉に立ち上がり、それぞれの放課後へと散っていく。
椅子を引く音、鞄のジッパーを閉める音、また明日、と交わされる挨拶。
その喧騒を、瞬は、まるで水の中にいるかのように、くぐもった音で聞いていた。
彼は、待った。
教室に残る生徒が、半分になり、三分の一になり、やがて、まばらになるまで。
美影は、自分の席で、慌てるでもなく、ゆっくりと教科書を鞄に詰めていた。
その落ち着き払った動作の一つ一つが、瞬の怒りの炎に、油を注いでいく。
頃合いだ。
瞬は、静かに立ち上がった。
床を磨き上げたリノリウムが、彼の革靴の裏で、キュ、と小さな悲鳴を上げた。
一歩、また一歩と、彼女の席に近づく。
その足音は、静まり始めた教室に、やけに重く響いた。
「前原」
俺は、彼女を、苗字で呼んだ。
それは、明確な、拒絶のサインだった。
美影は、鞄を肩にかけながら、ゆっくりと振り返った。
その顔には、いつもの笑顔ではなく、不思議そうな表情が浮かんでいる。
「どうしたの、瞬くん?なんだか、改まってるね」
その、どこまでも呑気な言葉に、瞬の中で、最後の理性の糸が、ぶつりと音を立てて切れた。
「やめろよ」
低く、唸るような声が出た。
「え?」
「その仮面、やめろって言ってんだよ。その、ヘラヘラした笑顔の裏で、俺のこと、馬鹿にしてんだろ」
瞬は、美影の机に、ドン、と手をついた。
美影の肩が、びくりと震える。
教室に残っていた数人の生徒が、何事かと、息を呑んでこちらを見ていた。
大輝と結衣が、慌てたように駆け寄ろうとするのを、瞬は、鋭い視線で制した。
これは、俺と、こいつだけの問題だ。
「俺が、どんな気持ちでいたか、お前にわかるかよ」
瞬の声は、抑えているつもりなのに、怒りで震えていた。
「デートの後、一晩中連絡を待ってた俺の気持ちが。わざと他の女と話して、お前の反応を窺ってた、惨めな俺の気持ちが。お前に、デートを断られて、雨ん中、ずぶ濡れで帰った俺の気持ちが!お前に、わかるのかよ!」
次から次へと、言葉が溢れ出す。
それは、この数週間、彼の内側に溜まりに溜まった、黒くて、どろりとした感情の奔流だった。
美影は、何も言わずに、ただ、大きな瞳で瞬を見つめている。
その表情からは、もう、感情が読み取れない。
「全部、お前の手のひらの上だったんだろ!俺が必死になってるのを、ずっと、笑ってたんだろ!」
「違う…」
「何が違うんだよ!」
瞬は、もう一度、机を強く叩いた。
そして、この週末、何度も、何度も、頭の中で繰り返した、最後の問いを、喉が張り裂けんばかりの声で、彼女に叩きつけた。
「いい加減にしろよ!お前、本当に、俺のこと好きなのかよ!」
その絶叫は、夕暮れ前の、静まり返った教室に、吸い込まれていった。
蛍光灯の、ジー、という無機質な音だけが、やけに大きく聞こえる。
瞬は、肩で、荒い息を繰り返した。
言った。
言ってやった。
これで、終わりだ。
彼女の、あの涼しい仮面を、俺は、この手で、完全に破壊した。
さあ、言えよ。
お前の本音を。
俺を、どう思っていたのかを。
瞬は、答えを待つ罪人のように、ただ、目の前の少女を見つめていた。
美影は、まだ、何も言わない。
ただ、その大きな瞳が、ほんの少しだけ、潤んでいるように見えたのは、西日のせいだったのだろうか。
物語は、破局の音を立てて、次の章へと転がり始めた。
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