第四話:引き下がりの美学
あの昼休みの一件から、二日が過ぎた。
金曜日の空は、分厚い灰色の雲に覆われ、まるで世界から色彩を奪い去ってしまったかのようだった。
梅雨入りが間近に迫っていることを告げる、重く湿った空気が、校舎の隅々にまで澱んでいる。
教室の窓を全開にしても、流れ込んでくるのはぬるい風ばかり。
黒板の上でゆっくりと回る送風機の、規則正しい羽音が、授業の退屈さをさらに助長していた。
垣原瞬は、その生温かい風を感じながら、意識をぼんやりとさせていた。
この二日間、彼は意識的に前原美影を避けていた。
昼休みは、美影がやって来る前に大輝を捕まえて、さっさと中庭の隅にある自販機コーナーへと避難する。
放課後も、チャイムが鳴ると同時に、逃げるように教室を飛び出した。
美影が、どういう表情で自分の空席を見ていたか、瞬は知らない。
知りたくもなかった。
今の彼にとって、彼女の存在は、穏やかな海に浮かぶ正体不明の浮遊物だ。
遠くから見れば美しく、興味をそそられる。
だが、迂闊に近づけば、その下にどんな危険な潮流が渦巻いているかわからない。
瞬は、自分の内側で何かが決定的に変わってしまったのを感じていた。
以前の「恋」は、常に自分が優位に立つゲームだった。
相手の感情を読み、行動を予測し、望む反応を引き出す。
そのプロセスに、絶対的な自信と喜びを見出していた。
だが、美影は違う。
彼女の行動は、瞬の予測を常に、そしてことごとく裏切り続ける。
まるで、一人だけ違うルールの、違う次元のゲームをプレイしているかのようだ。
主導権は、完全に彼女が握っている。
その事実が、瞬のプライドを、内側からやすりで削るように、じりじりと傷つけていた。
「おい、瞬。お前、いい加減にしろよ」
古典の授業中、大輝が呆れ果てた声で囁いた。
古文の教科書に描かれた貴族のイラストに、器用にも髭を書き加えながら。
「何がだよ」
「何が、じゃねえよ。前原さんのこと、避けまくってんだろ。ガキか、お前は」
「……うるせえ」
「あんなにいい子、いねえぞ。お前が今まで付き合ってきた、面倒くせえ女たちとはワケが違う」
「……だから、わかんねえんだよ」
瞬は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
「あいつが、何を考えてんのか、全く」
放課後。
雨が、ぱらぱらと窓を叩き始めた。
アスファルトが濡れる匂いが、開いた窓から微かに漂ってくる。
教室に残っている生徒は、もうまばらだ。
部活動へ向かう生徒たちの、廊下を駆けていく慌ただしい足音が、やけに遠くに聞こえる。
蛍光灯が、まだ明るさの残る教室を、白々しく照らし始めていた。
瞬が、重い身体を引きずるように鞄に荷物を詰めていると、不意に、背後から声がかかった。
「瞬くん」
その声に、心臓が大きく跳ねた。
振り返ると、そこに美影が立っていた。
彼女は、ファッション雑誌を片手に、少しだけ頬を上気させている。
「これ見て!駅の向こう側に、新しく猫カフェができたんだって。すっごく可愛い子がいるらしいの!」
彼女は、雑誌の一ページを、子どものようにはしゃぎながら瞬に見せた。
そこには、様々な種類の猫たちが、くつろいだり、じゃれ合ったりしている写真が、楽しげにレイアウトされている。
「ねえ、今度の週末、一緒に行かない?」
その言葉は、あまりにも純粋で、何の計算もない、まっすぐな誘いだった。
だからこそ、瞬の心は、逆方向にねじ曲がった。
(――チャンスだ)
これが、最後のテストだ。
週末の、デートの誘い。
これを拒絶されれば、どんな人間だって傷つくはずだ。
これでもまだ、あの涼しい笑顔を浮かべていられるものか。
俺は、お前の本性を、この手で暴き出してやる。
瞬は、ゆっくりと顔を上げた。できるだけ、無関心を装って。
「ああ、今週末か。悪い、無理だわ」
その言葉に、美影の笑顔が、ほんの一瞬だけ、凍りついたのを瞬は見逃さなかった。
その微かな変化に、彼は心の内でほくそ笑む。
そうだ、もっと傷つけ。
もっと動揺しろ。
瞬は、追い打ちをかけるように、最も残酷な嘘を口にした。
「実は、綾香の誕生日パーティーがあるんだよな」
綾香。
この間、中庭で親しげに話していた、あの女の子。
その名前を出せば、どんな意味を持つか、美影にだってわかるはずだ。
瞬は、美影の反応を待った。
彼女の笑顔が、消える。
瞳が、悲しみや、疑念や、あるいは怒りの色に染まる。
そして、「綾香って、あの子のこと?」
「私とのデートより、その子の誕生日が大事なの?」
と、震える声で問い詰めてくる。
俺は、その瞬間を、今か今かと待ち構えていた。
だが。
美影の表情は、瞬の期待を、またしても鮮やかに裏切った。
ほんの一瞬だけ翳った彼女の瞳は、次の瞬間には、再び、いつもの穏やかな光を取り戻していた。
そして、彼女は、完璧な笑顔を作って言ったのだ。
「そっか!綾香ちゃんの誕生日!それはお祝いしなきゃね!楽しそう!」
瞬は、耳を疑った。
「私のことは気にしないで!猫カフェは、また今度行けるから。綾香ちゃんに、おめでとうって伝えておいてね!」
彼女は、悪戯っぽく片目をつぶって見せた。
「素敵なプレゼント、ちゃんと用意しなきゃだめだよ?」
その言葉が、とどめだった。
怒りも、悲しみも、嫉妬もない。
それどころか、俺の嘘を、心から応援するかのような言葉。
それは、もはや優しさではない。
完全な、無関心だ。
彼女にとって、俺とのデートも、俺が他の女の誕生日会に行くことも、すべてが等価値なのだ。
俺という存在は、彼女の完璧な世界を彩る、数ある装飾品の一つに過ぎない。
「じゃあ、また月曜にね!」
美影は、ひらりと手を振ると、雨が降りしきる窓の外を見ながら、楽しげに鼻歌まじりで教室を出ていった。
コツ、コツ、という彼女のローファーの音が、静まり返った廊下に虚しく響き、やがて聞こえなくなった。
瞬は、その場に立ち尽くしていた。
全身の力が、抜けていく。
手にした鞄が、ずしりと重い。
蛍光灯の光が反射して、テカテカと光る廊下の床。その光が、滲んで見える。
外の雨は、いつの間にか、ザーザーと音を立てる本降りになっていた。
その、雨音を聞いているうちに。
不意に、瞬の脳裏に、別の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
――あれは、半年前。冬の始まりだった。
冷たい雨が、容赦なく窓ガラスを叩いていた。
ファミレスの、固い椅子に座る俺と、里奈。
テーブルの上には、ほとんど手をつけていないドリンクバーのグラスが、水滴を浮かべて二つ並んでいる。
その日、俺は、里奈がずっと前から楽しみにしていたイルミネーションの約束を、直前でキャンセルした。理由は、「大輝たちと、急にゲームをすることになったから」。
今思えば、あまりにも身勝手で、誠意のない理由だった。
「なんで…?なんでなの、瞬くん…?」
里奈は、泣いていた。
その大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、テーブルの上に小さな染みを作っていく。
「いつもそうだよ!友達との約束ばっかり優先して!私のことなんて、どうでもいいんでしょ!」
「……そんなことねえよ」
「嘘!好きだったら、そんなことできるはずない!もう、私のこと、好きじゃなくなったんでしょ!」
その、必死の形相。
俺にすがりつき、愛情を確かめようとする、その痛々しいほどの熱量。
あの時の俺は、その感情の重さに、ただ辟易していた。
面倒くさい。
そうとしか、思えなかったのだ。
――はっ、と瞬は我に返った。
そうだ。
あの時の里奈の言葉。
行動。
それは、まさしく、今の俺が、美影に対して求めているものそのものではないか。
そして、あの時の俺の、冷たく、無関心で、相手の感情を理解しようともしない態度。
それは、今の美影の態度と、驚くほどよく似ている。
立場が、完全に逆転している。
俺は、自分が一番軽蔑していたはずの、面倒くさい女(里奈)になっている。
そして、美影は、かつての冷酷な俺(瞬)になっている。
だが、その認識は、瞬の心を少しも楽にはしなかった。
むしろ、より深い絶望へと突き落とす。
なぜなら、結論は、あまりにも明白だったからだ。
(里奈は、俺のことが、本当に好きだったんだ。好きすぎて、ああするしかなかったんだ)
(そして、美影は……俺のことなんて、これっぽっちも、好きじゃないんだ)
好きだから、嫉妬する。
好きだから、束縛する。
好きだから、涙を流す。
それが、瞬の知る、唯一の「愛」の形だった。
その形に、美影の行動は、何一つ当てはまらない。
冷たい怒りが、心の底から湧き上がってきた。
からかわれていた。
弄ばれていた。
俺の一生懸命なアプローチを、あの笑顔の裏で、ずっと嘲笑っていたに違いない。
許せない。
瞬は、鞄を乱暴に掴むと、教室を飛び出した。
降りしきる雨の中、傘もささずに。
冷たい雨粒が、容赦なく彼の身体を打ちつける。
制服が、髪が、みるみるうちに水を吸って重くなっていく。
だが、そんなことは、どうでもよかった。
身体の冷たさとは裏腹に、頭の中は、怒りと屈辱で沸騰しそうだった。
はっきりとさせなければならない。
こんな、生殺しのような関係は、もう終わりだ。
月曜日、あいつを捕まえて、すべてを問い詰めてやる。
そして、もし、俺の思った通りの答えが返ってきたら――。
その時は、俺の方から、このくだらないゲームを終わらせてやる。
雨に打たれながら、瞬は固く誓った。
その表情は、恋に悩む少年のそれではなく、裏切られた獣のように、暗く、固く、凍りついていた。
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