第六話:嫉妬はする。でも、

垣原瞬の絶叫は、夕暮れ前の、静まり返った教室に吸い込まれ、そして、後に重たい沈黙だけを残した。



まるで、投下された爆弾が、音もなく世界を消し去ってしまったかのような、完全な静寂。窓の外を通り過ぎる車の音も、遠くで練習に励む吹奏楽の音色も、今はもう、彼の耳には届かない。



ただ、頭上にある蛍光灯が、ジー、という無機質で、永遠に続くかのような音を立てているだけだ。



瞬は、肩で荒い息を繰り返していた。



机についた自分の手のひらが、怒りと緊張で白くなっている。



吐き出した言葉の熱が、まだ口の中に燻っているようだった。




言った。



言ってやった。




これで、すべてが終わる




彼は、答えを待つ罪人のように、ただ目の前の前原美影を見つめていた。



時間の感覚が、麻痺していた。



数秒だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。



最初に動いたのは、美影だった。



彼女は、瞬の怒りを全身で受け止めながらも、逃げることも、俯くこともしなかった。



ただ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一度だけ、深く息を吸った。





そして、そっと、自分の左手で、右の目元を拭った。



その、あまりにもささやかな仕草を、瞬は見逃さなかった。



(……泣いて、)



いや、泣いてはいない。



だが、その瞳は、確かに、潤んでいた。



溜まった涙が、彼女の強い意志によって、かろうじて堰き止められている。



その事実は、瞬の怒りに満ちた心に、小さな、しかし確実な波紋を広げた。




彼女は、感情がないわけでは、なかったのだ。




やがて、美影の唇が、わずかに開いた。



彼女の声は、瞬が予想していたどんなものとも違っていた。



それは、怒りでも、悲しみでも、諦めでもない。



少しだけ震えているのに、不思議なほど、凛と澄んだ声だった。




「当たり前じゃん」




その一言が、瞬の鼓膜を静かに揺らした。




「私、瞬のこと、めっちゃ好きだよ。今、すごく、恋してる」



それは、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも不意打ちの肯定だった。



瞬の頭の中で、猛然と燃え盛っていた怒りの炎が、まるで冷水を浴びせられたかのように、一瞬で勢いを失う。



彼の脳が、彼女の言葉の意味を理解することを、拒絶した。



好き?



恋してる?



この状況で?



俺が、これだけの言葉をぶつけた、この状況で?



ありえない。



これは、罠だ。



同情を誘うための、あるいは、この場を切り抜けるための、彼女の新しい「ゲーム」に違いない。




瞬は、ぐらつく思考を必死で立て直し、最後の砦に立てこもるように叫んだ。




「嘘だ!だったら、だったらなんで……なんで、ヤキモチ妬かないんだよ!」



それが、彼の知る、唯一の真実の物差しだったから。



その言葉を聞いた瞬間、美影の表情が変わった。



それまでの、どこか儚げな雰囲気は消え、彼女の瞳に、強い光が宿った。



それは、怒りとは違う。



だが、決して譲れない何かを、守ろうとする者の光だった。




「……妬いてるよ!」




今度は、はっきりと、強い口調だった。




彼女は、机から一歩、後ろに下がり、瞬と真正面から向き合った。



まるで、ここからが本番だとでも言うように。




「妬いてるに、決まってるじゃん。瞬が、綾香さんと楽しそうに笑ってるのを見た時、心臓のところが、ぎゅーって、誰かに強く握られたみたいに痛くなった。あなたが、私との約束より、他の子の誕生日を優先するって言った時、一瞬、目の前が真っ暗になって、『行かないで』って、泣き叫びそうになった。私、ロボットじゃないんだよ。瞬くんが思うより、ずっと、色々感じてる」




その言葉は、激流となって瞬の心を打ちつけた。




痛くなった?



泣きそうになった?



彼女が?



あの、いつも太陽のように笑っていた、前原美影が?




瞬の頭は、もう、完全にキャパシティを超えていた。




美影は、一度言葉を切り、震える息を整える。



そして、続けた。



その声は、もう、ただの感情の吐露ではなかった。



それは、彼女が、たった一人で、何度も何度も考え抜いた末にたどり着いたであろう、一つの「答え」だった。



「……でもね、そこで、私は考えるの。その、ぎゅーってなった心臓の痛みに任せて、私が行動したら、どうなるかなって」




彼女は、まるで自分自身に語りかけるように、静かに言った。




「もし、あの時、私が泣いて、『行かないで』ってあなたを責めてたら?もし、綾香さんのところに乗り込んでいって、『私の彼氏なんだから、話しかけないで』って、叫んでいたら?」




その光景を想像したのだろう。



美影は、少しだけ、悲しそうに目を伏せた。




「きっと、私たちは、喧嘩になる。瞬くんは、罪悪感を感じて、私に気を遣うようになる。私は、一瞬だけ、あなたが私だけのものになったような気がして、安心するかもしれない。でも、その後に、何が残る?」




彼女は、再び、瞬の目をまっすぐに見た。




その瞳は、まるで、すべての答えを知っているかのように、深く、澄み切っていた。




「気まずい空気と、お互いへの不信感と、息苦しいだけの関係。それが残るだけじゃないかな。たった一瞬の、自分の『安心したい』っていうわがままのために、私たちがこれから一緒に過ごす、たくさんの楽しい時間を、全部台無しにしちゃう。天秤にかけたら、どっちが大切かなんて、すぐにわかるでしょ?」




「……」




瞬は、もう、何も言えなかった。




彼女の言葉は、あまりにも論理的で、あまりにも、真実だったからだ。




それは、彼が、過去の恋愛で、里奈に対して、ずっと感じてきた「息苦しさ」の正体そのものだった。




「それにね、もう一つあるんだ」



美影は、少しだけ、照れたように笑った。



「これは、私もまだ、勉強中なんだけどね」




「……」



「本当に、本当に、相手のことが大切で、好きだったら…。その人が、心から楽しそうにしてるのは、本当は、嬉しいことなんじゃないかなって。たとえ、その隣にいるのが、私じゃなかったとしても。その人の一日が、幸せな時間で満たされるなら、それを、一緒に喜んであげられるのが、本当の『愛』っていうものなんじゃないかなって」




愛。




その言葉が、雷のように、瞬の身体を貫いた。




「恋の、『独り占めしたい』っていう、燃えるような気持ちも、すごく素敵だと思う。今、私が瞬くんに感じてるのは、多分、それ。でも、その、もう一歩先にある、相手の幸せを自分の幸せみたいに感じられる気持ち。私は、瞬くんと、そういう関係を、これから、ゆっくり、作っていきたいなって……思ってる」




言い終えた美影は、ふう、と大きな息を吐いた。



まるで、人生で一番難しいテストを終えた後のように、少しだけ、消耗しているように見えた。




教室は、再び、静寂に包まれた。




だが、それは、先ほどの、息が詰まるような沈黙とは、全く違うものだった。




西日が、教室の奥まで深く差し込み、彼女の輪郭を、そして、彼女が語った言葉の数々を、黄金色の光で、神々しく縁取っている。




瞬は、ただ、立ち尽くしていた。




怒りも、疑念も、屈辱も、すべてが、彼女の言葉の奔流に押し流され、跡形もなくなってしまっていた。




後に残ったのは、自分が、今まで、いかに、ちっぽけで、身勝手な世界の中で生きてきたかという、圧倒的な自覚だけだった。




「ごめんね。なんか、偉そうなこと言っちゃった。それに、たくさん、心配かけちゃったね。私、うまく説明するの、下手だから」




美影は、そう言って、困ったように笑った。




その笑顔は、いつもの太陽のような笑顔とは、少しだけ違って見えた。



それは、傷つきながらも、それでも相手を思いやろうとする、人間だけが浮かべられる、尊くて、そして、ひどく、愛おしい笑顔だった。




瞬は、何かを言わなければ、と思った。




「ごめん」という謝罪も、「わかった」という理解も、今のこの巨大な感情の前では、あまりにも陳腐に思えた。




彼の口から、ただ、かさかさの、意味にならない音だけが漏れた。




「……じゃあ、私、先、帰るね」



美影は、彼の様子を察したように、静かに言った。



そして、自分の鞄を拾い上げると、結衣と大輝に、小さく会釈をして、教室の出口へと向かった。




コツ、コツ…。




彼女のローファーの音が、夕暮れの廊下に、静かに響いては、消えていく。




瞬は、その場から、一歩も動けなかった。





頭の中で、彼女の最後の言葉が、何度も何度も、反響していた。




『私もまだ、勉強中だけどね』




ゲームは、終わった。




だが、それは、瞬が望んでいたような、勝ち負けの決まる、陳腐な終わり方ではなかった。




彼の目の前には、今、全く新しい、広大で、そして、途方もなく奥深い世界への扉が、静かに開かれようとしていた。




その扉の向こう側に何があるのか、まだ、彼には知る由もなかった。




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