第02話:ギルドホールの囁きと震える手

 ――冒険者のとりで 現在――女神たちが堕ち、砕け散ってから約1820年後


 冒険者のとりで、ギルドホール。その空気は、煤とカビ臭い羊皮紙ようひし、汗のえた臭い、そして薄めたエールの酸っぱい臭気で重く淀んでいた。


(この聖蝕せいしょくめ……また始まったか)


 彼はさりげなく左手を握りしめる。聖蝕せいしょく――天が砕けたあの日から約1820年以上も流れ続ける、女神の穢れ。その馴染み深い痛みが、骨の中で冷たい炎となって燃え上がっていた。


 他の者たちより進行が早いのは、少年時代に父の欠片狩りを手伝った代償だった。高い報酬には、それだけのリスクがつきものだ。


(最後の蝕止しょくどめも、もう残りわずかだ。金がいる。どんな仕事でもいい、今すぐに)


 蝕止しょくどめは魔族の血から作られる代物だ。あれを飲み続ける限り穢れは抑え込めるが、ひとたび断てば死ぬ。そして、この命綱はあまりに高価すぎた。


(女神が堕ちたとか、天が砕けたとか、そんな話もあるらしいが、本当かどうか誰も知らねえ。確かなのは、この痛みと、魔族の血から作る薬だけが効くってことだ。)


 彼は壁一面を埋め尽くす巨大な掲示板へと向かった。そこは忘れられた願いと、ついえた野望の吹き溜まりだ。端から端まで、傷んで汚れた羊皮紙ようひしの張り紙で埋め尽くされている。護衛依頼、変異した獣の賞金首、危険な仕事への必死の申し出。


 冒険者たちが、擦り切れた革と錆びた鎖帷子くさりかたびらをまとって集まっている。彼らは小声で情報を交換し、用心深い目でお互いを値踏ねぶみしていた。


 何人かの顔には、彼自身のそれと同じ、微かな震えと青白い疲労の色が浮かんでいた。冒険者稼業につきものの病だ。欠片に近づき、穢れた獣を狩るたびに、その身に蓄積されていく毒だった。


 アーレンに仲間意識はない。彼はただ、仕事を狩りに来た。


 その視線は、切羽詰せっぱつまったように掲示物を隅から隅まで追う。わずかな報酬は飛ばし、この蝕む痛みをしばし遠ざけるだけの銀貨を約束する依頼を探した。


「……やっと戻ったか、アーレン。どっかで骨でも埋めたかと思ったぜ」


 ざわめきの中から、乾いた馴染み深い声が届いた。


 ライラだ。


 彼の近くで掲示板にもたれ、腕を組んでいる。日に焼けた藁のような金髪が背中まで流れ、実用一辺倒の革鎧を着ていても、そのしなやかな身体つきは隠せない。


 浮かべた半笑いから、彼女自身がそれをよくわかっているのがうかがえた。首からは、擦り切れた革紐に通された滑らかな川石が下がっている。


 アーレンはすぐには彼女を見なかった。希望よりも、もはや習慣で掲示板に集中していた。


「金になる仕事はあったか?」


 彼はかすれた、荒い声で尋ねた。


「それとも、いつものネズミ退治かカブ畑の見張りか?」


「さあね……」


 彼女は長いため息をつき、掲示板から身を起こした。


深層域しんそういきでの精髄集め? 死にに行くようなもんだ。害獣駆除? 鼻垂はなたれ小僧にでもくれてやれ……ああ見ろよ、あたしのお気に入りだ。パン一枚のはした金がねで、腐りかけの荷車を隣のクソ町まで護衛しろ、だとさ」


 彼女は言葉を切り、横目で彼を見た。


「また《塵渓ちりたに》の二の舞はごめんだろ?」


 その言葉は、こぼれた油に落ちた火花のように、アーレンの中で危うい感情を燃え上がらせた。


塵渓ちりたに


 その名だけで、腹の底に冷たい石が転がる。


 ――約15年前。

 煙。

 忘れられない悲鳴。

 己の判断ミス。

 13歳の彼女ライラの両親の……死。


 罪悪感が、馴染み深いマントのように重くのしかかっていた。掲示板の縁に置いた左手が、一層ひどく震え始める――


 その時、ライラが驚くほど強く彼の震える手首を掴んだ。素早く。だが、ぶれない力で。


 その感触が、荒波の中で打ち込まれたくさびのように、彼の意識を繋ぎ止めた。


 アーレンは驚いて彼女を見る。ライラは視線を受け止め、いつもの半笑いが一瞬だけ読み取れない感情に和らいだ。だが、それはすぐに消えた。


「ろくな仕事も見つからねえうちに、あたしの前でくたばる気か。その震え、ちっともマシになってないじゃないか」


 彼女は答えを待たずに続けた。


「でもさ、あんたがいない間に、面白い話を聞いた」


 声をわずかに落とす。


「東の峠の話。巡回隊も避けてるってさ」


「巡回隊が?」


「ああ。奴らが言うには、空気が硝子ガラスのようにもろく、肌を何かがうような気がする、とね。静かすぎて、まるで世界が息を潜めて聞き耳を立ててるみたいだって」


 アーレンは、はっと顔を上げた。


(巡回隊が避ける場所……ヤバい。ヤバいってことは……金になるかもしれねえ!)


 危険な希望と深い絶望とが、火花のように彼の中でせめぎ合った。


「静かすぎる?」


 彼は繰り返し、手の震えも忘れていた。


「他には?」


「たぶん、ただの神経過敏と悪いエールのせいよ」


 ライラは肩をすくめ、その動きで川石が揺れた。


「でも……気になった。ここの掲示板を眺めてるよりはマシだろ」


(東の峠か……)


 アーレンは思考を巡らせる。


(……他の奴らにも話してみるか。この話に乗る価値があるか、確かめないとな)


 彼はライラに短くうなずいた。


「『すずへこみ亭』だな。ボーリンと他の連中が何か聞いてないか確かめよう」

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