第03話:泥濘に喘ぐ街と蝕む病

 二人がギルドホールを後にすると、東の峠の噂が、二人の間に漂っていた。もろく、危うい可能性として。外は、冒険者の砦ならではの陰鬱いんうつな絶望に満ちている。


 寒さ。そして、泥。


 道と呼べるものは、もはや泥沼に消えていた。タールのように濃く、粘つく茶色の泥が広がっている。油膜の浮いた水たまりは、流れ出た汚水で虹色に光り、荷車が刻んだ深いわだちは、悪臭を放つ水の溝と化していた。


 アーレンのブーツが水しぶきを上げ、冷たい泥が肌にまとわりついて熱を奪っていく。


(へっ、この砦も俺も、お似合いだな。どっちもゆっくり腐っていくだけだ)


 彼は、酔っぱらいが寄りかかるように歪んだ建物を見渡した。ひび割れた石には水の染みが古い涙のように筋を作り、壁が崩れた隅では、黒カビが巣食っている。


(この震え……ひどくなっている)


 アーレンは手袋の中で、左手が意思に反して握りしめられるのを感じた。骨の奥深くでうずく痛みは、絶え間ない警告だ。


蝕止しょくどめなしじゃ、もって一週間か……親父みたいになる。あんな風に叫んで、もがき苦しんで……!)


 十六歳の記憶。

 父の剣は、自分の手にはあまりに重く。

 母は、傍らで泣いていた。

 力を失い、光を映さなくなった父の目。

 ただ、あの必死の、無言の懇願こんがんだけが……。


(いや。あんな風にはならない)


 アーレンは、その記憶を無理やり断ち切った。


(だが、蝕止めがなければ、もって数週間……。完治に必要な銀貨十枚なんて、荷車護衛で稼げる額じゃない)


 彼はゆっくりと息を吸い込む。空気は金属の味がして、喉の奥を稲妻の後のような匂いが刺した。上着の下で、ほぼ空になった蝕止めの袋に触れる。その軽さが、恐ろしいほどの重圧じゅうあつとなってのしかかっていた。


 かつて賑やかだった市場の方向で、唯一、活気が感じられるのは、一軒の鍛冶屋のだけだった。熱い金属と石炭の匂いが、立ち込める腐敗臭ふはいしゅうの中でひときわ鋭く鼻をつく。


(少なくとも一人、まだ諦めていない頑固者がんこものがいるらしい)


 アーレンは苦々しく思った。


 町の人々もまた、この腐敗に溶け込んでいるようだった。泥と悲しみの色をした服をまとい、目を合わせようともしない。亡霊ぼうれいのように、泥の中を動いていく。


 幽霊だ、全員が。忘れたいものの重みを、その背に引きずりながら。


(女神め……俺と同じじゃないか。この泥沼では、俺たちは皆ただの幽霊だ)


「あんた、ずいぶん足取りが重いじゃないか」


 ライラの静かな声に、彼は思考を遮られた。いつものあざけりはなく、抑揚よくようのない響きだけがある。


「その震え、軽口も叩けないほどひどいのかい?」


 アーレンはただ唸り、彼女の目を見なかった。


「今はただ、まともな稼ぎが要る。すぐにでもな」


 彼は降り始めた霧雨きりさめの中、かろうじて見える『すずへこみ亭』の曲がった看板を指さした。


「他の連中が俺たちよりマシか、それとも同じ穴のむじなか……確かめに行こうぜ」

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