女神が堕ちた世界で、仲間を皆殺しにした魔族と共に生き残っていく

usagi182

生存の代償 第一篇

第1章:運命の喉を下る泥道

第01話:引き裂かれた天蓋

 ――魔術師ギルドの塔 約1820年前――


(できた……!)


 魔術師長ローンは、静まり返った儀式の間で内心、歓喜の声を上げた。目の前には、ありえない光景が広がっていた。


 人間の深紅しんくと魔族の暗赤色あんせきしょく創世そうせい以来、決して交わることのなかった二つの精髄せいずいが、不気味な渦を巻いて混じり合っていく。やがてその濁った赤は一点に収束しゅうそくし、完璧な水晶の球体を形作った。


 儀式の間は静寂に包まれ、張り詰めた空気が肌を刺す。


「やったぞ!」


 ローンの声が、歓喜に震えた。


「いける!術式じゅつしき均衡きんこうを保っている!」


 侍祭じさいたちが、その偉業いぎょう呆然ぼうぜんと見つめている。ローンは確信に満ちた笑みを浮かべた。


 この道の大家たいかたちですら、愚行ぐこうであり不可能な夢だと断じた奇跡。創世以来の、歪んだ均衡をくつがえす、禁断の偉業。


 それが今、現実のものとなったのだ。


(そうだ……人は魔族の血を捧げることで力を得、魔族もまた、人の血を捧げて力を得る。)


(あまりに公平すぎる、呪われた天秤てんびんだ。)


(だが、この融合した血があれば!我ら自身の血もまた女神への供物くもつとなり、二つの源から力を引き出すことができる!もはや魔族に怯える時代は終わる。我ら人類が、一方的に力を得る時代が始まるのだ!)


 ローンは両腕を上げた。勝利の確信に満ちた、揺るぎない声が儀式の間に響き渡る。


「今だ!供物を天へ!」


 侍祭たちが一斉に詠唱えいしょうを再開すると、何もないはずの空間に、青白い光の魔法陣が幾重いくえにも浮かび上がった。光で描かれたルーン文字が、その環の中で生き物のように明滅めいめつする。


 血の球体は静かに浮かび上がり、魔法陣の中核へと吸い寄せられた。


 次の瞬間、魔法陣の中心から光の奔流ほんりゅうが放たれた。万物ばんぶつが震えるような轟音と共に、光の柱は天井に設けられた聖なる天窓を寸分違すんぶんたがわず通り抜け、天へと昇っていく。


 いつも通りの光景だ。供物は、正しく捧げられた。


 ローンは歓喜に叫んだ。侍祭たちもまた、涙を流しながら互いを見つめ合っている。我々は勝ったのだ!創世以来のことわりを覆し、人類は新たな力を手にした!


 だが、遥か上空で――音がひとつ。万物を砕くような、鋭く澄み切った亀裂きれつの音が響いた。


 光の柱が、消えた。


 儀式の間は、完全な静寂に包まれた。侍祭たちの歓喜の顔が、困惑に凍りつく。


「なっ……何が……?」


 ローンの震える声に応えたのは、空中に浮かぶ魔法陣だった。天との繋がりを示していた青い光が、一際強く、くるおしく明滅を始める。光のルーンが乱れ飛び、その形を保てずにいる。


「制御不能だ!力が――!」


 侍祭の一人が叫んだが、その声は魔法陣が放つ甲高い共鳴音きょうめいおんに掻き消された。耐え難いほどの輝きに達したかと思うと、次の瞬間――


 パリン。


 まるでガラスが砕けるように、すべての光の紋様もんようが一度に砕け散り、夜空のちりとなって消え失せた。天との繋がりが、完全に断絶だんぜつしたのだ。


(まさか……天が……?)


(俺は……一体、何を……!?)


 天そのものに、ガラスに稲妻が走るように、髪の毛ほどの亀裂が広がり始めた。


(勝ったはずが……俺は何を、何を壊してしまったんだ……)


 天は、砕け散った。


 壊れた構造から解き放たれた幾千もの青い破片が、幽玄ゆうげんな炎を尾に引いて降り注ぐ。それは神聖なガラスの彗星のようだった。落下という生易しいものではない。天そのものが、無数の槍となって突き刺さるように、静かに、そして抗いようもなく降ってくる。


 一つ一つの破片が、肌を通り越して魂まで凍てつかせる冷気を放つ。空気は稲妻の後のような匂いと焦げた臭い、そして甘く歪んだ異臭で満たされていく。


(俺が……俺が壊した……)


 ローンの膝が、がくりと崩れた。


(神々の力に手を伸ばしたばかりに……!)


(この手で、天を……砕いた……!)


 最初の破片が、遠くの山々に突き刺さるのが見えた。蒼い光が、山々を凍らせながら、花のように荘厳そうごんに咲き誇った。


 数秒後、彼はすさまじい衝撃に襲われた。ローンはなす術すべもなく吹き飛ばされる。息が奪われ、骨がきしむ。


 その瞬間、時が引き延ばされた。青い輝きの中に、彼は見た――神の顔を。かつては星々の光を宿していたであろう瞳、かたりえぬ哀しみに歪んだ唇。


 ぼやけていく視界が青い輝きに呑まれる寸前、彼の脳裏に浮かんだのは――


 妻の微笑み。


 娘の笑い声。


 その温もりはあまりにはかなく、次の瞬間には無慈悲むじひな冷気がすべてを奪い去った。


(みんな……ごめん……)


 そして、絶対的な寒さだけが残った。


 かくして、は堕ちた。人がその傲慢ごうまんさの果てに手にした力と共に。その砕けた神体しんたいから漏れ出す光は、やがて世界をむしばむ聖なるけがれとなった。

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