#05

「私……戻る方法、知ってるよ?」


葵がゆっくりと顔を上げた。

冗談だと片づけるには、部屋を満たす沈黙が重すぎる。

口を半開きにしたまま硬直する僕の耳に、エアコンの風が遠くで唸る。


「え……何、それ。いきなり」


「戻る方法。ちゃんとあるの。……戻りたいんでしょ?」

葵はまっすぐ僕を見据えたまま、落ち着いた声で言った。


窓の外は、厚い雲に覆われた曇り空。

まるで、言葉の先にあるものを覆い隠すかのようだった。


「……うん、まあ」

逃げ場のない空気に、曖昧な相槌しか出てこない。


葵は視線を少し落とし、言葉を探すようにゆっくり口を開いた。


「……私のおじいちゃん、科学者だったの。もう十年くらい前に亡くなっちゃったんだけど──」


「なんていうか……ちょっと変わってる人でね。理解されないことばっかり研究してたみたい。

“量子観測が存在に与える影響”とか、“観測と記憶の関係”とか……うまく説明できないんだけど」


「ちょ、ちょ、ちょっと待って。それ……何の話?」


思わず口を挟むと、葵の眉がわずかに寄る。


「いいから。……聞いて」


その声は迷いの影を帯びつつも、伝えたいという意思が滲んでいた。


「……亡くなったあと、押し入れの奥からノートと、設計図みたいなものが出てきたの。

埃まみれで……たぶん、誰にも見せるつもりなかったんだと思う」


「そこには、こんなふうに書かれてた」


『私はただ、静かに思考したかったんだ。誰にも話しかけられず、誰の目にも触れず、自分だけの研究に没入したかった』


一拍置き、葵は僕の目を覗き込む。


「当時の私はまだ中学生で、何のことかぜんぜん分からなかったんだけど……

大人になってから、なぜかそのノートのことが気になって、もう一度読み返してみたの」


「最初は難しくて、読み進めるのにすごく時間がかかった。

でも、少しずつ分かってきた。……おじいちゃんが何を作ろうとしてたのか」


葵は深く息を吸い、まっすぐこちらを見つめる。


「“観測遮断装置”。

それは、人の存在を──正確に言えば、“存在しているように認識されること”を遮断するための装置だった」


「……なに、それ……」


「人って……誰かに“見られてる”とか“覚えられてる”ことで、はじめて存在を実感するんだって。

その“観測の軸”をパラレルワールドにずらすと、この世界では“認識されない”存在になる……らしいの」


言葉は理解できても、腑に落ちる場所が見つからず、喉が乾く。


「しかも、その人に関する“観測記録”が全部この世界から消えちゃうから、たとえ声が届いても、“誰が話したのか”が伝わらない」


「……つまり、この世界では“最初から存在していなかった”ことになるってこと?」


葵は小さく頷く。


「そう。……誰も私たちを探しに来ないのも……そういうこと」


「……僕が持ってるバッグとか、服とか、全部一緒に見えなくなるのも、そのせい?」


「うん。……ただ、そこは正直、私にもよく分からない」


葵の視線が困ったように伏せられる。


「ノートには、“存在を認識できるものは、徹底的に断たなければならない”って書かれてたんだけど、どうしてそこまで影響が及ぶのかは説明されてなかったの」


僕は自分の手の甲を見下ろした。

確かにあるはずの感覚が遠く、指先が微かに震える。


「……でも、葵には見えるじゃん。僕のこと」


「うん。私たちは観測の軸がずれてる者同士だから、同じ“観測層”にいるの……なんていうか、VRの空間に入ってるみたいなものかも」


いま僕らがいるこの空気のような世界は、誰にも見えない、気づかれない、けれど確かに“存在する”場所だった。


「……でも、どうして僕が」


情けない震えを帯びた声が、思わずこぼれた。


「僕は、確かに……自己主張が得意じゃなかったし、人の顔色をうかがってばかりだった……。

でも……それと、こんな装置になんの関係があるんだよ……」


言葉を吐き出したあとの胸には、冷たい空洞だけが残る。


「ないよ」


「……え?」


「蓮也、あのとき──駅裏の廃ビルに行かなかった?」


鼓動が一拍遅れて跳ね上がる。


──あの場所。あのビルの屋上には、よくひとりでぼんやりしに行っていた。

見上げれば空がどこまでも広がっていて、まるで世界から切り離された場所のようだった。

誰にも会わずにすむ。誰にも見られずにいられる。

ただ風の音だけが耳に届くなかで、胸のざわめきが少しずつ静まっていくような気がした。

気づけば、疲れた日にはいつも無意識に足が向いていた。

名前もない、逃げ場所だった。


「……なんで、それを」


葵は「やっぱり」と囁くように頷いた。


「そこにね、装置があるの。おじいちゃんが、誰にも言わずに研究してた場所」


「まだ試作機だったから不安定で……いろいろ欠陥もあって。

たぶん、蓮也がいたときに、たまたま作動しちゃったんだと思う」


静寂が室内に沈み込み、エアコンの微かな駆動音だけが残る。


「……じゃあ、僕が“空気を読みすぎたから”とか、“自己主張しなかったから”とか──あれ、嘘だったんだ」


「……うん。ごめん」


ネジを巻き終えたオルゴールのように、葵はそっとまぶたを伏せた。


「なんで……なの」


責めるつもりはない。ただ、理由が知りたかった。


「……ごめん」

震える声が、とぎれとぎれに落ちる。


「じゃあ……葵も、その観測なんとか装置で空気になったってこと?」


「うん。私は、おじいちゃんのノートを読んで……つい気になって見に行ったの。そしたら、蓮也と同じように、装置が作動して」


言葉が途切れ、俯いた葵の肩が小さく揺れる。


僕も、何も言えなかった。

何かが引っかかっているのに、うまく問いにできないまま、声だけが先に出た。


「……わかった。じゃあ、どうやって戻るの」


少しだけ、投げやりに聞こえたかもしれない。

けれど、僕には言い方に気を遣えるほどの余裕がなかった。


葵は一度だけまばたきをして、それから、ゆっくりと視線を上げた。


「……誰かに、名前を呼ばれること」


「え?」


間の抜けた声が漏れる。


「ノートに書いてあっただけで、絶対とは言い切れないんだけど……

現実の世界で、ちゃんと“その人だ”って認識されたうえで名前を呼ばれると、観測の軸が引き戻される。そんなふうに書いてあったの」


「……認識されたうえで、ってことは……ただ名前を呼ばれるだけじゃダメなの?」


「うん。相手が蓮也のことを“思い出して”、ちゃんと“そこにいる”って信じてくれて──そのうえで、名前を口にしてくれないと」


言葉が喉に詰まり、胸が軋む。


「……そんなの、不可能じゃん」


肩から力が抜け、背中がわずかに丸くなる。

部屋は時計の針が止まったように静かで、遠い風の音が現実だけを頑なに示していた。

言葉も感情も、しばらく何も出てこなかった。


やがて僕は、諦めの息を押し出すように立ち上がった。


「……今からその装置、ぶっ壊しに行ってくるわ」


「ダメ!」


葵の声が弾け、空気が震える。


「そんなことしたら……観測の軸がぐちゃぐちゃになるかもしれない。

私たち、存在ごと消えるかもしれないのよ」


「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」


やり場のない苛立ちが怒号に変わり、刃のないまま葵へ突き刺さる。

葵の瞳に薄い涙膜が張り、震えた声が漏れた。


「……でも蓮也は、ランドセルが残ってたでしょ?

それって、記憶の“核”がまだ残ってるってことなの。だからきっと……ちゃんと戻れる。思い出してもらえる方法があるはずだよ」


「じゃあ僕が戻ったら、僕が葵の名前を呼ぶ。それで一緒に──」


「無理よ」


遮る声は静かだが、覆せない意志を滲ませていた。


「蓮也が普通の人間に戻ったら……私のことは全部忘れる。名前も、顔も、一緒にいた時間も」


言葉が凍りつき、喉が震える。


「じゃあ一緒に戻ろう。僕がなんとかするから……」


「……私は、戻らない」


「……なんで?」


葵は視線を外し、微かに息を揺らした。


「私は、もう三年もこれだし……このままで平気だから」


「そんなの嘘だろ。葵だって──」


「蓮也は戻ったほうがいいよ」


再び言葉を遮る。けれど声は優しかった。


「ちゃんと帰る場所があるんだから」


葵の口元がわずかにほころぶ。頬を伝う涙が、光を受けてきらりと揺れた。

いつから泣いていたのか──僕は必死になるあまり、それにさえ気づいていなかった。


「……でも、そんなの……」


つなごうとした言葉が喉奥でほどける。


「でも、僕は……葵と一緒に……!」


掠れた声で必死に伸ばした手を、葵は顔をそむけて振り払った。


「もう……放っておいてよ!」


こらえ切れない涙が滲む叫び。

それでも、感情が溢れるのを必死で押し戻そうと震えていた。


「私なんか、ただの“ビジネスパートナー”でしょ……?」


震える声の裏に、寂しさ、悔しさ、愛おしさ──いくつもの感情が混ざる。


「……違う!」


即座に否定したものの、その先が言葉にならない。

葵はなおも顔を背け、僕も声を失った。


気づけば僕はふらりと立ち上がっていた。

部屋の空気に押し出されるように、扉の方へ足が向く。


閉まりかけた扉の向こうで──

鈴の音が、微かに鳴った気がした。




気づけば、僕は公園のベンチに腰を下ろしていた。

足元ではスズメが、誰かの落としたパンくずをついばんでいる。

視線を上げると、幼い子どもが芝生の上を夢中で駆け回り、母親に名前を呼ばれてぱっと振り返った。


──蓮也


たったそれだけの呼びかけが、いまの僕には遠い。

その名前は葵の声でしか再生されず、胸の奥がざわつく。

思えば、僕はずっと葵に救われてきたのかもしれない。


あの瞳。あの声。あの仕草。

それを本当に手放す覚悟があるのか──答えはまだ出ない。


けれど同時に思う。

これ以上、僕が葵に踏み込んでいいわけがない。

彼女には僕の知らない過去があり、容易に触れられない何かを抱えている。

無理にこじ開ければ、大切なものまで壊しそうで……ただ、怖かった。


葵が最後に見せた、あの悲しげな顔。

何も言えず、何もできなかった自分だけが胸に重くのしかかる。


それでも「戻れる」可能性があるなら、その先にまだ何かが待っているなら、

まずは、そこへ進まなければいけない気がした。


どれほど時間が過ぎたのか分からない。

夕方の影が長く伸び、背中を押すように静かに揺れていた。




翌日、僕は再び千葉行きの電車に乗っていた。

窓外の景色がゆっくりと郊外色に溶けていく。


本当に思い出してもらえるだろうか。

両親は僕の存在を受け入れ、名前を呼んでくれるだろうか。

保証はどこにもない。


それでも──もし戻れたら、次は僕が葵を呼び戻す。

あの部屋で泣いていた彼女を、今度こそ僕が救う。


……でも。

葵が言っていたように、僕は彼女のことを忘れてしまうかもしれない。

名前も、顔も、時間も──跡形もなく消えるかもしれない。


膝の上で指先が微かに震えた。


……忘れたくない。

けれど忘れてしまったとしても、僕はその後の人生を何も知らずに平然と生きていくのだろう。

思い出さなければ、後悔も痛みもない。

それなら……まぁ、いいか。


そうやって合理化しようとする自分が、たまらなく嫌だった。

25年間、流れに身を任せ、目の前の状況をただ受け入れながら生きてきた。

本当は何かを掴みたかったのに、掴めなかったときの痛みばかりを恐れて──

自分の気持ちに、ずっと蓋をしてきた。


涙がこみ上げる。

忘れてしまう未来を前に、胸がこれほど締めつけられるとは思わなかった。

誰かを忘れる痛みが、こんなにも鋭いなんて。


葵を知らなかった頃の自分に戻るだけなのに、

それだけのはずなのに──

それが、どうしようもなく……苦しかった。


電車は変わらず淡々とレールを進む。

規則正しい振動が、心のざわめきを際立たせるリズムに変わっていた。




「……ただいま」


自分でも驚くほど小さな声がこぼれた。

誰かに届けるというより、祈りを灯すような響き──返事はない。


靴を脱ぎ、廊下をそっと進む。

二日前と同じはずの香りが、胸の内側に“帰ってきた”という実感をじわりと広げていく。


その足で物置と化したかつての自分の部屋へ。

目当てのランドセルを抱え、静かにリビングの戸を開いた。


父はソファに沈み、ニュースを無表情に眺めている。

母は冷蔵庫を開け、献立を思案しているらしい。

どちらの背中にも、僕の気配は届かない。


部屋の片隅に、埃をかぶったランドセルをそっと置く。

手のひらが湿るほど汗ばんでいるのに気づき、息を詰める。


頼む、思い出してくれ──


時間が止まったような静寂。

テレビの音がこもるのは、意識が遠く張りついているせいだろうか。


ランドセルの傍でじっと息をひそめる。

思い出してもらえるまで、ここから動くわけにはいかない。

まるで、無人島で助けを待っている人のように──

ただ、そこに“いる”ことだけが、すべてだった。


「……あれ?」


母の声が、ぽつりと落ちた。

小さな疑問符が空気を震わせ、心臓が跳ねる。


「ねえ、これ……」


母がランドセルへ近づき、埃を払う。

父もちらりと視線を寄こす。


「……なんだそれ、誰のだ?」


胸の奥で鼓動が高鳴る。

忘れられているのは当然だ。

だが“思い出そうとする声”が、今ここに生まれている。


「……なんか懐かしいね。これ……」


母はランドセルを両手で抱え込み、眉を寄せる。


「誰のだっけ……? あれ? 私が昔、使ってたのかな……」


──違う。

それは、僕のだよ。


「……母さん」


思わず声が漏れた。

届いてくれ、と祈るように。

名前を呼んでくれ、と願うように。


母がびくりと肩を揺らし、ランドセルを落としかけた。


「え? 今……なんか言った?」


母はあたりを見回すが、当然僕の姿は見えない。


「僕だよ……! 蓮也だってば……!」


ヤケになって喉が燃えるほど叫んだ。


「え……ちょっと待って、誰!?」


「おい……今、誰か喋ったよな?」


父は立ち上がり、怯え交じりに部屋を見回す。

母はランドセルを胸に抱え、視線を泳がせる。


「ねえ、ちょっと……これって、幽霊的な……あれじゃないよね?」


「やめろって……マジで洒落にならんぞ……!」


動揺が部屋中に波紋を広げ、壁の時計の秒針まで大きく響く。


──まずい。このままじゃ混乱させるだけだ。

もう、ここにはいられない。


僕はランドセルを“僕の代わり”に残し、黙ってリビングを後にした。


靴を履きながら、微かな希望が崩れる音を胸の奥で感じる。


それでも、まだ終わりじゃない。

もし、誰かが思い出してくれるとしたら。

もし、名前を呼んでくれるとしたら──


玄関を出て歩き出す。

次に向かうべき顔が、自然と脳裏に浮かんでいた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る