#04
僕たちは毎月、収入の一部を例の保護猫施設へ寄付するようになった。
三万円から五万円ほど──決して大金ではない。
それでも“誰かのために動く”という手応えが、この特異な生活にひとつの輪郭を与えてくれた。
時折、葵のスマホに施設スタッフからメッセージが届く。
あのスコティッシュフォールドにも新しい飼い主が見つかったらしい。
「よかったね」と声をかけると、葵はふわりと笑って頷いた。
「うん、ほんとによかった」
その笑顔は誇らしさを帯び、誰かが救われるたびに自分も助け出されるかのように瞳がきらめく。
数行の報告や小さな命──葵はそれらを宝石みたいに、ひとつひとつ抱きしめるように受け止めていた。
ある日、僕はそれとなく聞いてみた。
「……ねぇ、葵」
「ん?」
「葵ってさ……人が喜んでるときすごく嬉しそうだけどさ。もっと身近な人を喜ばせたいって思ったりしないの?」
鉛筆を動かしていた葵の手が止まり、短い間が落ちた。
「これでいいんだよ」
顔を上げた瞳に曇りはない。
「たぶん、天国のお姉ちゃんも喜んでくれてると思う」
「……お姉ちゃん?」
「うん。ちゃんと話してなかったね」
葵は深く息を整え、淡々と語り始めた。
「お姉ちゃんは私の六つ上でね。両親がいない私にとっては親みたいな存在だった。高校生の頃からバイト掛け持ちして、学費も生活費も面倒見てくれてたの」
静かな口調の底に、揺るぎない愛情が滲む。
「大変だったはずなのに、いつも笑ってて。困ってる人を見ると真っ先に手を差し伸べる人だったんだ。
だから私、ずっとお姉ちゃんに憧れてたの。お姉ちゃんみたいに“誰かの幸せを自分のことみたいに喜べる人”になりたいって」
葵はまぶたを伏せ、わずかに唇を震わせた。
「でも二年前……一緒に歩いてたとき、信号無視のトラックが突っ込んできてね。咄嗟に私を庇ったお姉ちゃんが、私の代わりに──亡くなっちゃったんだ」
言葉が途切れ、部屋の空気が薄く揺れる。
僕はただ、静かに待った。
「……私の命は、お姉ちゃんが残してくれたものなの。
だから私はお姉ちゃんみたいに──直接じゃなくても誰かの役に立てるなら、それで十分」
葵は少し照れたように笑ったが、その視線は遠い灯りを見つめていた。
「……そうなんだ」
胸の奥に小さな波が立ち、言葉が続かなかった。
「……葵がいいなら、それでいいよ。ごめんね、なんか変なこと聞いて」
「ううん。蓮也って、すぐ謝るよね」
肩の力を抜くように微笑むその表情は、失われた温もりと、これから与える温もりの両方を抱きしめているようだった。
──そんな暮らしが、半年をゆうに越えた。
街路樹の桜は、枝先の蕾がうっすら桃色を含み始めている。
空気こそまだ冷たいが、日差しには微かな柔らかさが混ざり、抜けていく風にもほのかな春の匂いがあった。
横断歩道の向こうでは三人連れの家族が歩いていた。
母親に手を引かれた子ども、少し離れて並ぶ父親。
子どもが胸に抱える小さなブーケ──卒業式帰りなのだろう。
笑い声が風に乗って届き、頰をくすぐる。
──いいな、と思った。
我が子に友達ができ、勉強に苦戦し、運動会で全力疾走し、部活で悔し涙をこぼし──
少しずつ大人になっていく横顔に「おめでとう」を掛ける。
誇らしさとわずかな寂しさが胸に同居する、そんな瞬間をいつか迎えられたら。
信号が青に変わっても僕は足を止めたまま、遠くなった未来を眺めていた。
このままずっと“見えないまま”で生きていくのだろうか。
葵との穏やかな日々、やりがいのある仕事──それでも胸のどこかに、ぽつりと空白が残る感覚がある。
誰かの成長を見守ったり願いを託したりしない人生。
静かに満ち足りているようで、何かが欠けているようなざわめき。
商店街の角で買い物袋を抱えた年配夫婦とすれ違う。
旦那さんは白菜とみかんの袋を持ち、奥さんの歩幅に合わせてそっと背を支えていた。
「あのふたり、ちょっとうちの両親に似てるな……」
実家の景色がふと浮かび上がる。
「もう、何年帰ってない?」
「元気かな……一度、顔を見に行ってもいいかもしれない」
翌日。いつものように葵の部屋。
葵はローテーブルに身を屈め、色鉛筆でそっと紙を撫でている。
芯の細い線がさらさら走る音だけが部屋を満たし、ひそやかな午後を刻んでいた。
僕は壁際に背を預け、スマホで編集作業を進める。
ひと区切りついたところで画面から顔を上げ、何気なく声を掛けた。
「来週、ちょっと千葉に帰ろうと思ってるんだよね。両親の顔だけでも見に行こうかなって」
葵は色鉛筆をくるくる回しながら、「……ふーん」とだけ。
視線は紙から離れない。
普段なら「いいじゃん」とか「おみやげよろしく」とか、少し茶化したように返すはずなのに、今日はなぜか目を合わせてこない。
「……いい?」
「なんで私に許可取るの?」
葵の声は、思いのほか冷たかった。
「いや、仕事の予定とかあるじゃん」
「そんなに長いあいだ帰るの?」
「いや、一日だけど……」
ありふれた会話のはずなのに、責められているような空気が漂う。
理由が掴めず、言葉が宙で揺れる。
沈黙のあと、葵が小さな声で呟いた。
「行きたきゃ行けばいいじゃん……」
言いかけて飲み込んだような、その言葉だけがテーブルの上に残った。
葵の反応が気にならなかったと言えば嘘になる。
それでも数日後、僕は千葉行きの電車に揺られていた。
たまたま機嫌が悪かっただけかもしれない。
あるいは、もっと深い理由があったのかもしれない。
けれど、分からないまま踏み込むのが怖くて、僕はあの場で話を切り上げた。
車窓の外で都市の輪郭がほどけ、低い建物と広い空へ少しずつ塗り替わっていく。
久しぶりの地元は、特別な変化がないはずなのに胸を満たす懐かしさがあった。
誰にも見えない僕は、駅から歩いて実家の近くへ向かう。
商店街や小さな公園が記憶の上にそっと重なり、景色が二重写しになる。
実家の前に立つと、洗濯物が風に揺れていた。
花柄のタオル、干しっぱなしのスニーカー、色あせた洗濯バサミ。
見慣れたはずなのに、誰かのアルバムを覗き見るような距離感が胸に生じる。
鍵をそっと差し込み、カチャリと控えめに開く。
木の床や古びたカーテンに染みつく陽の匂い、台所から漂う出汁の香り──
変わらないようで少しだけ変わった家の匂いが、確かに「帰ってきた」ことを告げた。
靴を脱ぎ、音を押し殺して廊下を進む。
リビングからテレビの音。会話はないが、両親の気配が家じゅうを満たしている。
そっと覗くと、父がソファに腕を組んでニュースを眺めていた。
執念の育毛ケアのおかげか頭頂部は健在で、若い頃の筋トレの名残が胸板に残る。
その上に乗った柔らかな贅肉が、どこかプロレスラーのような風格を添えていた。
キッチンでは母が夕飯の支度をしている。
伏せた横顔に細かな皺が増えていて、中学生の頃僕が着ていたワインレッドのトレーナーを身につけていた。
思わず、くすりと笑みが漏れる。いつの間にか母の背丈の方が小さく見えていた。
──元気そうだ。
それだけで胸の奥がふっと緩む。
僕は音のない幽霊のように、その穏やかな光景をただ見守っていた。
父と母を見届けたあと、廊下の奥──かつて“僕の部屋”だった扉へ向かった。
ノブを静かに回すと、懐かしい空間はすっかり物置に姿を変えていた。
潰れた段ボール、出番を失った掃除機、冬用の布団……
「とりあえず置いておこう」が積み重なり、今ではこの部屋の主のように鎮座している。
空気人間になったから僕の居場所が消えた──ずっとそう思っていた。
けれど普通の人間だったとしても、何年も帰らなければ同じ光景が広がっていたかもしれない。
視線を巡らせると、クローゼットの隅に色褪せたランドセルがあった。
金具は錆び、皮はくったりと柔らかくなっている。
けれど、それは間違いなく小学生だった僕の相棒だ。
──どうして、これだけ残ってるんだ?
両親の記憶から僕は消えているはずだ。
なのに、このランドセルは捨てられずに、ここにある。
記憶がなくても、誰かを思う手触りだけは残るのだろうか。
伸ばしかけた指先を、そっと引っ込めた。
翌日。東京に戻った僕は葵の部屋の前で立ち止まる。
指先がインターホンに触れる寸前、小さくため息が漏れた。
謝るほどのことはない。けれど、あの沈黙の棘が胸に刺さったままだ。
意を決してボタンを押す。
鍵の外れる音。
扉の向こうで、髪を一つにまとめた葵が僕を見上げた。
「……おかえり」
笑顔でも、とげとげしさでもない。静かな温度だけを帯びた言葉。
「ただいま」
靴を脱いで上がるが、以前と同じ空気に戻り切れない感触が残る。
ローテーブルにはスケッチブックと色鉛筆。
葵は手を動かさずクッションに腰を沈め、窓の外へぼんやり視線を投げていた。
「……帰省、どうだった?」
目を合わせないまま投げられた問いに、胸が微かにざわつく。
「うん。元気そうだったよ、父さんも母さんも」
壁際に腰を下ろすと、葵はまぶたを伏せたまま耳を傾けている。
「物置みたいになった僕の部屋に、ランドセルがあってさ。
両親はもう僕を覚えてないはずなのに──なぜかそれだけは残ってた」
葵は色鉛筆を指先で弄びながら黙っている。
「……それ見たとき、ちょっとだけ思ったんだ。
“元に戻りたいかも”って。……普通の生活に」
その瞬間、葵がゆっくりと顔を上げた。
「私……戻る方法、知ってるよ?」
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