#03

蝉の合唱が頭上から滝のように降り注ぎ、街じゅうをかき乱している。

朝だというのにアスファルトは銀色に照り返し、体温と大差ない熱風がビルの狭間を抜けていく。


今日も、誰に見えるわけでもないのに安物のサングラスをかけ、念入りに日焼け止めを塗った。

八月のルーティンは、もうすっかり身体に染み込んでいる。


インターホンを押すと、くぐもった声が応えた。


「……はーい」


カチャリ。鍵の外れる音。

扉の隙間からロンTの袖をまくった葵が現れる。

寝起きの髪を片手でまとめ、眩しそうに目を細めている。


「おはよ。……今日、暑すぎない?」


「おはよう。もう34度だってさ」


「えぐ、朝でそれ? 溶けるわ……。早く入って」


あくび混じりの声に返事をしながら、僕は靴を脱いで部屋に上がる。冷房の効いた空気がふわっと身体を包んだ。


「……麦茶ある?」


尋ねるそばから足はキッチンへ。

葵はクッションに倒れ込み、「冷蔵庫」とだけ呟く。


ガラスピッチャーから注いだ麦茶を一気に流し込むと、干上がった身体に涼しさが染みわたる。


「……生き返る……」


クッションに顔を埋めたまま、葵がくすりと笑った。


「あ、そういえば昨日の夜さ、6件も依頼来てたよ」

顔半分を覗かせ、思い出したように告げる。


「アイコンと、あとペットの似顔絵ってリクエストもあった。最近そっちの割合多いかも」


「すごいじゃん。波きてるね」


僕がそう言うと、葵は得意げに頷いた。


SNSのフォロワーは、僕が運用を手伝い始めてから倍以上に伸びた。

ショート動画を毎日投稿しては試行錯誤し、アルゴリズムの癖もだいぶ読める。

前職で培った断片的なスキルたちが効いたのか、もともと持っていた適性なのか。

どちらにせよ今の僕は、人生で初めて「仕事」というものにやりがいを感じている。


収入も想像以上に安定してきた。

僕は貯金を切り崩さずに、もともと住んでいたアパートの家賃を払い続けているし、

葵も、なんとか一人暮らしを続けられるだけの稼ぎを保っている。


──気づけば、“空気人間の生活”に難なく馴染んでいた。


葵がクッションから体を起こし、スケッチブックをめくる。


「そうだ、見てこれ。昨日のやつ途中まで描いてたんだけど……」


ページには、スコティッシュフォールドの猫。

依頼主の希望どおり少しデフォルメされたタッチで、ふくふくとした毛並みが色鉛筆でやわらかく描かれていた。


「うまっ。これ飼い主泣くでしょ」


「泣かせてこそ、ですから。……あ、蓮也も描いてみてよ、猫」


「え、僕が?」


「そ。気分転換。なんか描いてよ」


冗談かと思いきや、すでに白紙のページが開かれている。

しぶしぶ鉛筆をとり、記憶の奥の〈猫らしきもの〉を描き始めたが──

目は大きすぎ、耳は小さすぎ。どう見てもフグの親戚みたいな仕上がりになった。


「はい、できた」


「……なにこれ。宇宙から来た生き物……?」


「猫です」


「あ、フグか」


「猫」


「……あはは、写真撮っとこ。あとでストーリーにあげよ」


「やめろって……もう……」


笑い転げている葵を見て、つられるように僕の口元にも笑みが浮かんだ。




夕方になると、僕はいつものように葵の部屋を後にし、駅前のスーパーに寄った。

レジには並ばず、必要な食材をトートバッグにぽんぽん放り込む。

はじめこそ罪悪感に苛まれたけれど、今ではそれすらも生活の一部として受け入れていた。


アパートに帰り、惣菜をレンジで温めて食べる。

テーブルの上にはゲームのコントローラー。

誰にも邪魔されない夜。誰にも気を遣わなくていい日常。


もともと一人の時間が大好きな僕にとって、誰にも見えないこの生活は実に快適だった。


好きな時間に起きて、好きなタイミングで仕事して、飽きるまでゲームをする。

人に合わせる必要なんて、どこにもない。


──これが“幸せ”ってやつなのかもしれない。


葵とは、週に何度か顔を合わせるだけのちょうどいい距離感だった。

会えば他愛のない話をして、仕事の相談をして、たまに僕の描いたヘンテコな似顔絵で笑ってくれる。

一緒に暮らしてるわけじゃないし、恋人ってわけでもない。

それでも、その笑顔を見ると、なんとなく安心する自分がいた。




冷房の風が一定のリズムでカーテンを揺らし、薄紫の布がすうっと脈を打つ。

親指で画面をスクロールする速さも、舌の上でほどけるアイスの甘さも、数日前と寸分変わらない。

夏は少しずつ、同じ日を上書きしながら進んでいく。


「……この人、輪郭むずいな……」


テーブル越しにいる葵が、わずかに唇を尖らせて唸った。

モデルは、ある女性から依頼された、亡くなった父親の似顔絵。

一枚の古い写真をもとに、ほんの少しだけ笑顔を足すよう頼まれていた。


「なんか、元気な雰囲気出してって書いてたね」


「うん。でもやりすぎると本人ぽくなくなるし。バランスがね……」


僕はその様子を横目に見ながら、スマホで動画編集を進める。

葵の手元を撮った映像を少し早送りにして、間延びした部分をカットし、音楽を差し込む。

鉛筆の走る音をあえて残すと、ぐっと温かみが増す。


撮影しているカメラには手も鉛筆も映らない。

空気人間の特性を逆手に取れば、紙の上に線だけが浮かぶ不思議なタイムラプスが出来上がる。


「ねえ、蓮也。この輪郭ちょっと細すぎるかな?」


差し出されたスケッチブックを覗き込み、首をかしげる。

「んー……変ではないけど、もうちょっと顎に丸みがあると自然かも」


「だよねぇ……描き直そ」


葵が鉛筆を持ち直して下を向く。

今度は僕がスマホを傾け、さきほどの猫動画の編集結果を見せた。


「こないだの猫の動画、こんな感じになったけど……どう?」


画面を覗いた葵の顔がパッとほころぶ。

「え、めっちゃいいじゃん〜。実際はこんなにスラスラ描いてないけどね」


「SNSなんてそんなもんでしょ。……あ、ここで“にゃー”って効果音入れてもよくない?」


「え、“にゃー”はさすがにダサくない?」


「冗談だって」


葵はにやりと笑って、嘘を見破るようにこちらを覗き込む。


「……あ、そうだ」

目線を外し、思い出したように葵が言った。


「この前のスコティッシュフォールドの似顔絵、依頼主さんからDM来てた」


「へえ、なんて?」


「“すごくそっくりで感動しました”って。それと……“お近くに来られることがあれば、ぜひ猫たちに会いに来てください”だって」


「猫たち?」


「うん。その人、吉祥寺の保護猫施設でボランティアしてるんだって。写真も何枚か送ってくれてて……ほら」


スマホを操作し、画面をこちらへ向ける。

そこには、日当たりのいい部屋で丸くなっている猫たちの写真が並んでいた。

年季の入った棚や手書きのポップが、どこかあたたかい雰囲気を醸している。


「“見学はいつでも大歓迎です”って書いてあるけど……どうしよっか」


葵の声には、期待とためらいが混ざっていた。

画面の猫を見つめながら、僕はゆっくり頷く。


「……うん。また今度、行かせてもらおっか」




吉祥寺駅のコンコースは、平日の昼下がりでもそこそこの賑わいだ。

ベビーカーを押す母親、外回り中らしき営業マン、大学生風のグループ──

その人波の隙間を縫うように、僕と葵は自動改札を抜けた。


南口をくぐると、真夏の日差しが一気に視界を白くする。

それでも街の空気はどこかのんびりしていて、バス停近くのベンチでは年配の夫婦が仲良くソフトクリームを分け合っていた。


井の頭通りを東へ。

地図アプリでは目的の保護猫施設まで徒歩十分足らずと出ている。


「……あ、ここ曲がるっぽい」


葵がクリーニング店の角で立ち止まった。

錆びた看板に貼られた猫のステッカーが、細い脇道を示している。


道を進むと、木造アパートのような古い建物が現れた。

手書きの表札には、かすれた墨で「ねこのいえ」。

ガラス戸越しに差し込む柔らかな光の中、棚の上で丸くなる猫の影がゆらいでいる。


ちょうど扉が開き、親子連れが笑顔で出てきた。

女の子が「ばいばい」と小さく手を振り、スタッフらしき女性が優しく会釈して見送る。

その流れに合わせるように、僕と葵はそっと中へ足を踏み入れた。


わずかに消毒液を含んだ清潔な匂い。

靴を脱いで上がると、年季を帯びた床板が小さく軋む。


天井は低く、裸電球の光が頼りなく揺れる。

壁沿いにはキャットタワーや手作りの棚が並び、色とりどりの毛布や猫ベッドが点在していた。

奥の窓際──陽だまりの中で、日向ぼっこ中の猫たちが背を丸めている。


ざっと数えるだけで10匹ほど。

高所で目を細める白猫、棚の隙間で黙々と食事する三毛、ベンチ下で悠々と寝そべるサバトラ──

年齢も性格も違う猫たちが、四畳半ほどの空間で穏やかに共存していた。


壁際のベンチには、中年の女性がひとり腰掛け、膝のトートバッグを抱えたまま猫たちの様子を見守っている。

その足元ではサバトラがごろんと転がり、尻尾をゆったり揺らしていた。


スタッフが膝をつき、柔らかく声を掛ける。

「この子、いつもここにいるんですよ。最初からずっと」


女性は目尻を緩めながら頷き、

「あら、ここが落ち着くのね……お店番みたい」と呟いた。


僕と葵は邪魔をしないよう、部屋の隅へそっと身を寄せた。

すると──


葵のブレスレットの鈴が微かに鳴り、一匹のスコティッシュフォールドが耳をそば立てた。

首を傾げ、こちらをまっすぐ見つめる。


「……見えてるのかな」


葵が小声で呟く。

僕は首を横に振った。


「鈴の音じゃない? 姿は見えてないはず」


「……そっか」


見えないはずの僕たちを、それでも猫はじっと追っている。

──たしか、葵が似顔絵を描いた子だ。


そのとき、近くでスタッフの話し声が耳に届く。


「この子、実は三回、飼い主が変わってるんです」


(え……)

思わず声が漏れそうになったが、その言葉は中年の女性に向けられているものだった。

スタッフは、スコティッシュフォールドの背を撫でながら、静かに続ける。


「不思議ですよね。それでも人を嫌いにならないんですよ。つらい経験をした子ほど、前よりもずっと誰かのそばにいたがるんです。まるで、つらかった時間に意味を持たせるみたいに」


僕はその言葉に、なぜだか胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


隣では、葵が手首の鈴にそっと触れている。

言葉はない。けれどその横顔は、いつもより遠い場所を見据えていた。




施設を出たあと、僕たちは近くの公園へ足を向けた。


木陰のベンチに並んで腰を下ろすと、蝉の鳴き声が頭上へ降り注ぐ。

目の前の噴水では、水しぶきを浴びながら子どもたちが歓声を上げていた。


葵は指先でスカートの裾をそっとつまみ、遠くの景色をぼんやり追っている。

風が草木の匂いを運び、ベンチの下には日向と日陰の境界線が伸びていた。


しばらく黙ったまま時間が滲み、やがて葵がぽつりと言葉を落とす。


「……なんかさ、私たち、けっこう生活落ち着いてきたじゃん?」


「うん。まあ、なんとかね」


「……だからさ、少しだけ、寄付とかしてもいいかなって思って」


ベンチの背にもたれていた僕は視線だけを上げる。


「さっきの保護施設に?」


葵は小さく頷き、言葉を探すように続けた。


「……私たちさ、スーパーで食べ物もらっても、電車乗っても、誰にもお金払ってないじゃん」


頷きだけで続きを促す。


「生産者とか、運んだ人とか、関わってる人がいっぱいいるのに……。

その人たちには、何にも届いてない」


声にわずかな熱が混じった。


「だからって、“寄付したからチャラです”なんて思わないけどさ。でも、私たちが払ってないお金であの猫たちが救われるなら……

……それって、ほんの少しだけ意味があるのかもって、思っただけ」


言い終えた葵は視線を膝の上へ落とし、浅く息を吐いた。


言葉にはしなかったが、その感覚はなんとなくわかる気がした。

僕たちは何かを“奪って”生きている。

この生活のどこかに誰かの損失があって、そのうえでこうして笑ったり、安心したりしている。


それを無視したまま生きることもできる。

でも葵は、それができない人なんだと思う。

あるいは葵の中に何か変化があって、できなくなったんだと思う。


遠くを見つめる葵の横顔を盗み見てから、ゆっくり口を開いた。


「……いいと思うよ、寄付」


葵は少し驚いたようにこちらを向き、ふっと目元を緩めて笑う。


「……ありがと、蓮也」


空を仰ぐと日が傾き、雲の綻びからオレンジの光が滲み出していた。

ビルの縁は淡く染まり、歩道を行き交う人々はそれぞれの影を連れている。


蝉の声だけが、まだ真昼の名残を抱えたまま遠くで続いていた。



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