#02
「あなた……私が見えるの?」
振り返ると、小柄な女性は目を見開いて、僕を見つめていた。
一瞬、世界の音が遠ざかり、風までも粘度を帯びて流れが遅くなった気がする。
喉が準備を怠ったまま声を求められ、息を呑み込んだ拍子に小さく咳が漏れた。
「……てことは、僕のことが見えてるんですか?」
思った以上に情けない掠れ声が出た。
「え?……ってことは、あなたも誰にも見えないまま生活してるんですか?」
彼女は目を見開いたまま問いを重ねた。
質問に質問で返すやりとりが続いたが、お互いの表情だけでなんとなく意図は通じ合う。
言葉より先に聞きたいことが溢れ過ぎていた。
「生活してるっていうか……今朝から、なんだけど」
声はまだ震えを引きずっている。
「え、今朝……?」
彼女はひと呼吸置き、視線を足元へ落とした。
「……何か、知ってるんですか?」
「いやいや、何も知らないです。それより、こんなところで話してたら騒ぎになりますよ。声は聞こえるんだから」
彼女はそう言って路地の奥を指差し、さっさと歩き出した。
僕も慌ててそのあとを追う。
「……あなたはいつからなんですか?」
彼女は歩きながら小さく答える。
「んー、二年くらい前かな」
「二年……!大先輩じゃないですか」
「ふふ。まあ、最初の一年はわりと引きこもってましたけどね」
「それでも一年……。僕なんか今朝ですよ、今朝」
「うん、聞いた。初日とは思えないくらい落ち着いてるけど」
「いや、全然です。内心めちゃくちゃです」
会話を交わすうちに、車の音も人の声も遠ざかり、路地のいちばん奥にたどり着いた。
彼女はビルの壁際の小さな段差に腰を下ろし、僕を見上げて言った。
「ところで、名前聞いてもいいですか? 私は葵、柏木葵っていいます。」
「あ、はい。成瀬蓮也です。」
「素敵な名前ですね。歳も近そうだし、蓮也って呼んでもいい?」
不意に飛び込む名前呼びに、心臓が一拍遅れて跳ねる。
「も、もちろんいいですよ。じゃあ葵さんは──」
「葵でいいよ。まあ、なんでもいいけど。……蓮也は何歳なの?」
「25です」
「え、今年25?」
「はい、2000年生まれです」
「あー、じゃあ一個下か。ふふっ、なんだ年下じゃんかー」
(年上なんだ……)
小柄で童顔だから年上と考えもしなかったが、口には出さない。
本能が、女性の年齢には慎重であれと囁く。
「じゃあほぼ同い年ってことで、今から敬語なしね」
僕は戸惑いながらも頷いた。
こういうふうに初対面でぐいぐい距離を詰めてくるタイプは、本当は少し苦手だった。
けれど状況がイレギュラーすぎるせいか、不思議と嫌な感じはなく、むしろちょっとだけ嬉しかった。
僕は、葵の隣に一人分の間を空けて腰を下ろす。
「……ところでさ、さっき何も知らないって言ってたけど、ほんとに何も知らないの?」
横顔を盗み見ながら訊くと、葵は左手首のブレスレットについた小さな鈴を指先で弾いた。
「なんで?」
「いや……なんとなく。嘘ついてるように見えた」
「……そっか」
葵は唇の端をわずかに上げると、いたずらを企む子どものように身を乗り出した。
「じゃあ……教えてあげよっか」
声はさっきより半音低く、落ち着いている。
「え? 本当に知ってるの?」
僕の声はわずかに上ずった。
「知ってるよ」
「……教えてよ」
葵はゆっくり言葉を選ぶように間を空け、怪談の語り手のように囁く。
「私たちが見えなくなった原因はね──」
喉がカラカラに乾き、唾をそっと飲み込む。心臓の鼓動が自分にだけ響いていた。
「空気を読みすぎたからなんだよ」
二人の間に、数秒の沈黙が流れた。
「……え?」
「つまり、空気を読みすぎて、空気になっちゃったってこと」
葵は得意げな笑みを浮かべる。
僕は、葵の言葉を飲み込むまでに少し時間がかかった。
冗談なのか。場を和ませようとしているのか。
だとしたら、早くツッコまなければいけないのかもしれない。
けれど──
言葉の軽さとは裏腹に、胸の奥にはずしりとした重さが残る。
まるで、自分の過去を見透かされたような気がした。
「……それ、本気で言ってる?」
「もちろん。だって、心当たりあるでしょ?そんな顔してたよ」
「まぁ、たしかに僕は“空気”みたいな人間だけど……葵は全然そうは見えないよ」
「私も意外と繊細なの。一人の時間、大好きだし」
葵は、視線を少し上へ投げながら呟く。
僕は混乱する頭を整理しようと、あえて先を急いだ。
「じゃあつまり、僕らは自己主張をしなさすぎて、透明人間になったってこと?」
「んー、正確には“空気人間”かな」
「……空気人間?」
「“透明人間”はただ見えないだけ。でも“空気人間”は見えないうえに、存在自体が“認識されない”の」
「“認識されない”って、どういう意味?」
僕の問いに葵は少し間を置いてから、まるで予備校の講師のような口調で話しはじめた。
「たとえば……戸籍とかマイナンバーとか、そういう“記録”はちゃんと残ってるの。役所に行けば名前も住所も出てくる。でも、家族とか友達とか、人の“記憶”からはすっぽり抜け落ちるんだよね」
「記憶……?」
「うん。たとえば、職場で一緒に働いてた人たちも、突然“存在してたこと”を忘れるの。机に名前が書いてあっても、“あれ? 誰だったっけ”ってなる。あれだけ毎日会ってたのに、まるで最初から存在してなかったみたいに扱われる」
葵の声は淡々としていたけれど、その内容は静かに胸に刺さってきた。
(……だから僕のデスクが物置になってたのか)
「……そんなの、つらすぎない?」
「つらいよ。でも、最初の一ヶ月で慣れた。人ってけっこう適応する生き物だから」
葵は苦笑いを浮かべたあと、ブレスレットの鈴を指先でなぞった。
「あとね。服とかバッグとかも見えなくなる。自分が持ってるものは“空気人間の所有物”って扱いになるから、他人の目には映らないの」
「え、それって……どういう……?」
僕が混乱気味に聞き返すと、葵は少し面倒くさそうに笑った。
「……じゃあ今から見せてあげる。ちょっと、スーパー行こっか」
「え、スーパー?」
「うん。人の多いとこじゃないとあんまり実感できないから。大丈夫、すぐ近くだし」
そう言って、葵は立ち上がった。
その小さな背中には、自信と諦めが混じったような、不思議な頼もしさがあった。
連れられてやってきたのは、駅の近くにある昔ながらのスーパーだった。
外壁のタイルは煤け、入口のガラスはところどころ曇り、店名のカッティングシートは端がめくれている。
自動ドアを抜けると、年季の入った蛍光灯が白く瞬き、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた商品棚が細い通路を圧迫していた。
レジは二台だけ。混む時間帯には列が曲がりくねる光景が目に浮かぶ。
場違いな緊張をまといながら周囲を探ったが、誰一人としてこちらを気に留めていない。
「じゃあ、今から試してみよっか」
葵は遊園地のスタッフみたいに軽やかな足取りで野菜コーナーへ向かい、トマトのパックをひょいと掴むとためらいなくバッグへ滑り込ませた。
「えっ、ちょっと──」
「大丈夫。見てて」
僕が周囲を気にして視線を彷徨わせるあいだも、誰の視線も葵を追わなかった。
「手に持ってるうちは“宙に浮いてる”ように見えるけど、バッグに入れちゃえば“所有物”になるから見えなくなるの。
空気人間の持ち物は空気人間と同じで、他人の目に映らなくなるのよ」
そう言いながら、葵は僕に顔を向ける。
「……やってみて。なんでもいいから、ひとつ取って」
僕はおそるおそる玉ねぎをひとつ取り上げ、背徳感に背中を強張らせつつバッグのファスナーを開き、そっと滑り込ませる。
……誰も振り返らない。
ただ葵が「うんうん」と頷くだけだった。
「ね、平気でしょ?」
「いや……それって、万引きじゃん……」
「仕方ないの。レジに行ったら逆に騒ぎになるでしょ?」
言い終えるやいなや、葵はパスタとワインの棚へ移り、白ワインのボトルとパスタの袋を華麗な手つきでバッグに収めた。
所作はバーテンダーのシェイクみたいに滑らかで、僕はただ呆然と見送るしかなかった。
(……本当に、誰も見ていない)
商品を詰めたままレジ前を素通りしても、店員の視線は葵の上を滑るように通り過ぎる。
やがて出口付近で立ち尽くす僕のもとへ、パンパンに膨らんだバッグを抱えた葵が笑顔で戻ってきた。
「行くよ、2号」
葵はそう言って、外へ歩き出した。
「……2号?」
「うん。私が空気人間1号だから、蓮也は空気人間2号ね」
「……人造人間みたいに言うなよ」
自動ドアが開いた瞬間、外気が渦を巻いて吹き抜けた。
午後の陽射しが傾き始め、ビルの隙間から漏れる光がアスファルトに長い影を落とす。
葵は膨らんだバッグを片手に、どこか楽しげに歩き出し、僕もその隣に並んだ。
ふと喉の奥から、疑問がこぼれた。
「……ねえ、僕らってさ、元に戻れるのかな。普通の人間に」
葵は立ち止まらず、前方を見据えたまま答える。
「さぁ、どうだろうね。私はもう二年もこれだし、すっかり慣れちゃった」
肩からずれかけたバッグのストラップを持ち直しながら、軽い調子で続ける。
「ていうか案外悪くないよ? 生活費はほとんど要らないし、誰にも干渉されないし」
明るさを装った声とは裏腹に、横顔は少し遠くを見ていた。
「……そうなんだ……、そうだよね」
視線を落とし、曖昧に頷く。
少し間を置いて、切り替えるように口を開いた。
「そういえばさ……家賃とかどうしてるの?」
葵はちらりと僕を見て、肩をすくめる。
「ん? ああ、ちょっとだけイラストの仕事してる。オンラインで注文受けて、似顔絵とかをちょこちょこ描いてる感じ」
「へえ……すごいな。じゃあそれで生活してるんだ」
「まぁね。たいした額じゃないけど、家賃ぐらいならなんとかなるよ」
「……僕も、仕事探さないとなぁ」
ぼそりと漏らすと、葵がくすりと笑う。
「じゃあ、蓮也も手伝ってよ」
「えっ、僕が?」
「うん。どうせ暇なんでしょ?」
「まぁ……今は」
葵は立ち止まり、軽やかに振り返る。
「うち来る? いろいろ描いてるやつ、見せてあげる」
誘いの意図を測りかけた自分に気づき、胸の奥がむず痒くなる。
けれど葵の表情は、カフェにでも誘うようにあっさりしていた。
「えっ、今から?」
「うん。せっかくだし。ちょうど食材も買ったしね」
「あ……うん。じゃあ、お邪魔します」
言葉とは裏腹に胸の鼓動が跳ね、見慣れた街が少し違う色合いに揺らいで見えた。
葵の家へ向かおうと、僕たちは駅へと歩き出した。
傾いた陽がビルのガラスに反射し、路面を淡く照らしていた。
仕事帰りの人波がざわめきを増しつつある時間帯。ラッシュにはまだ早いが、改札まわりにはすでに潮目のような流れができている。
葵はその流れの隙間を見極め、一人のサラリーマンの背中にぴたりと合わせて改札を抜けた。
歩幅、呼吸、距離感──長年磨いた技術のように寸分の狂いもない。
「おお……」
思わずこぼれた声に、葵がウインクで応える。
「ほら、来て」
僕も後に続き、同じように人の背後に張り付いて改札を抜けた。
乗り込んだ電車は拍子抜けするほど空いていた。
僕たちは壁沿いのロングシートに腰を下ろす。
向かい側の乗客たちは、それぞれのスマホに沈み、夕光が車窓を淡く茜色に染めている。
ふと葵の横顔を見ると、どこか他人ごとのように車窓の景色を眺めていた。
一見あどけなさの残る顔立ちなのに、時折ふと大人びた表情を見せる。
美しい黒髪が肩先で揺れ、夕陽に照らされて微かに赤く透けていた。
「中野で降りるよ」
葵が口を開いた。
「……えっ、中野に住んでるの?」
「うん。なんで?」
「僕も中野だよ。駅からちょっと歩いたとこ」
「うそ、まじで?」
ぱちりと大きな瞳がこちらを向く。
「なんかさ、偶然っていうより、変な縁だよね」
葵が照れくさそうに笑う。
「……ほんとに」
僕は小さく頷いた。
電車が減速しはじめ、車内にアナウンスが響いた。
ふたりはほぼ同時に立ち上がり、肩を並べてドアの前に立った。
中野駅の改札を抜けると、街は夕暮れの余韻に包まれていた。
今朝と同じ景色のはずなのに、やけに懐かしい。
「こっち」
葵は人混みを避けるように脇道へ折れる。
僕はその後ろを歩きながら、膨らんだ葵のバッグを肩にかけた。
「どのあたり?」
「新井薬師のほう。ちょっと古いアパートだけど、空気人間にはちょうどいいよ」
「“空気人間向け物件”ってあるの?」
「あるわけないじゃん」
彼女はくすくすと笑いながら、坂道を下っていく。
やがて、小さな十字路を抜けた先で足を止めた。
「ここだよ」
指差したのは、外壁の塗装が剥がれかけた二階建てのアパート。
錆の浮いた手すり、くすんだ表札──けれど古びた空気がどこかしら温かい。
「へえ……趣あるね」
「中はリフォームされてるから、ちょっとマシだよ」
そう言って外階段を駆け上がる。
僕も肩のバッグを持ち直し、その後を追った。
二階の突き当たりで葵が振り返り、手を差し出す。
「持ってくれてありがと。重かったでしょ?」
「あ、うん。全然平気」
バッグを渡すと、葵は中から鍵を探り当て、慣れた手つきで錠を回す。
「ようこそ、空気人間の部屋へ」
どこか楽しげな声とともに、彼女は一歩先に中へ入っていった。
部屋に入った瞬間、紅茶にやさしいミルクをひと垂らししたような甘い香りが鼻先をくすぐった。
胸の奥までふわりとほぐれる、どこか懐かしい匂いだ。
「どうぞ、上がって」
促されるまま靴を脱ぎ、そろえるふりをしてそっと息を整える。
──女の子の部屋に上がるなんて、いつぶりだろう。
胸の奥がじんわり熱を帯び、鼓動が一拍ずつ跳ねるのがわかる。
「お邪魔しまーす」
小さく声を落としてキッチンを抜けると、六畳ほどのワンルームが広がった。
白い壁にはポストカードや手描きイラストがマスキングテープで無造作に貼られ、薄いグレーのラグの上に丸いローテーブルと座椅子、クッションがぽつんと置かれている。
ラベンダー色のカーテン越しに射し込む夕陽が、室内を柔らかい紫に染めていた。
派手さはないのに、ひとつひとつが「好き」を選び取ったものばかりに見えた。
こういう部屋を “自分の場所” と呼ぶのだろう。
甘い香りを吸うたび胸がざわめき、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
葵は、さっき買った(盗んだ)食材を冷蔵庫と戸棚に収め、バッグをローテーブル横に置いてクッションに腰を落とす。
僕も少し遅れて向かいに座ったが、たちまち沈黙が降りた。
並んで歩いていたときの距離感が、玄関一枚を境に測れなくなる。
落ち着こうと視線を滑らせ、壁の人物画に目が留まった。
柔らかな線と淡い色合いが織りなす笑顔に、こちらの口元までほころびそうになる。
「あの絵、葵が描いたの?」
僕の問いかけに、葵は小さく目を見開いて頷く。
「うん。色鉛筆で描いたやつ。デジタルで清書して売るんだけど、原画はなんとなく、こうやって部屋に飾ってるの」
照れたように笑う頬がうっすら染まった。
「へえ……すごいな。……なんか、見てて落ち着く絵だね」
素直な感想を漏らすと、葵は膝を抱え直してこちらを覗き込む。
「じゃあ、蓮也は広報担当ね」
「……え?」
「私、営業とか宣伝とかほんと無理なの。作るのは好きだけど、発信するのは苦手」
「いや、急に担当って言われても」
「でもさ、さっきの感想、めっちゃうれしかったよ。そういうの言葉にするの上手だし。向いてると思うなあ」
そう言って葵はスマホを手に取り、Instagramの画面を差し出す。
「インスタは細々とやってるんだけど、TikTokとか動画系がまるでだめでさ。編集とか、音入れたり、リズム合わせたり、めっちゃ苦手なの」
そう言って、葵はクッションにうつ伏せになった。
「……え、いや、俺、動画編集とかやったことないし……」
葵の表情はもう「決定済み」のそれだった。
「……わかったよ。やってみる」
僕がそう言うと、うつ伏せになっていた葵がぱっと顔を上げた。
「やった!じゃあよろしく!」
その無邪気な笑顔を見たら、断る選択肢なんて最初からなかった気がしてくる。
「……はいはい。でもあんまり期待しないでね」
「うん、めっちゃ期待してる」
そう言って葵はひょいと起き上がり、手を軽く叩いた。
「よし、決定!……じゃあもうこんな時間だし、ご飯にしよっか」
「え、僕も一緒に?」
「もちろん、当たり前でしょ。二人分買ったんだから」
キッチンへ向かう背に「手伝おうか」と声を掛けると、
「うーん……気持ちは嬉しいけど、このキッチンふたり入るとぎゅうぎゅうなの。蓮也は座って待ってて」
振り返った葵が笑う。
「……あ、でも、さっきの玉ねぎだけちょうだい」
「あ、うん」
僕はバッグから玉ねぎを取り出し、そっと手渡す。
「ありがと。……これが空気人間の“最初の晩餐”だね」
葵はそう言って、玉ねぎを手のひらでぽんぽんと軽く叩いた。
その後ろ姿はどこか楽しそうで、ほんの少しだけ張り切っているようにも見えた。
「おまたせしましたー!」
明るい声とともに、葵がテーブルにパスタとサラダを並べた。
湯気をまとったトマトソースのパスタと、彩り鮮やかなアボカドサラダ。
ふわりと漂う香りに、思わずお腹が鳴りそうになる。
「うわ、めっちゃ美味しそう……ありがとう」
葵は「でしょ?」と胸を張った。
「で、せっかくだからさ──」
そう言いながら、棚からワイングラスを二つ取り出す。
「今日は、“空気人間2号の誕生日”です!」
「……なにそれ」
「蓮也が空気人間になって、正式に“2号”に就任した記念日! つまり今日が蓮也の誕生日ってわけ」
「いやいや、そんな誕生日いらないよ」
「ふふ、いいの。私が勝手に祝うの」
そう言いながらグラスを差し出してくる。
「じゃあ、空気人間2号の誕生日に──」
「乾杯!」
グラスの縁が触れ合う、控えめな音がした。
パスタをひと口食べると、酸味のきいたソースがやさしく舌に広がった。
さっきまでの緊張がじんわりとほどけていく。
少ししてから、僕はふと棚の絵を思い出し、口を開いた。
「……さっき、棚の上に置いてあった絵見たんだけど。あれってもしかして、葵のお姉ちゃん?」
フォークを止めた葵が、ちらりと僕の顔を見て頷く。
「……うん。よくわかったね」
「目元がちょっと似てた。それに、葵と同じ鈴のブレスレットしてたから」
「これ、お姉ちゃんの形見なんだ」
葵は自分の手首をそっと撫でた。
「お姉ちゃん、二年前に交通事故で亡くなったの。トラックに轢かれそうになった私を庇って……」
僕はただ、静かに「そうなんだ」とだけ返す。
「でもね、あの絵のお姉ちゃん、楽しそうでしょ?」
「うん。すごく、いい顔してた」
「亡くなった人の似顔絵を描いてほしいっていう依頼、たまに来るんだけどね、描いてると、なんかこっちまであったかくなるっていうか……」
葵の目元には、泣いているわけじゃないのに、なにか奥のほうから滲んでくるような光があった。
「……わかる気がする」
僕はグラスの中のワインを少しだけ揺らした。
「たぶん、見るほうもそうだと思う。あの絵、なんか……“会えた”って感じがしたから」
葵は驚いたように目を丸くし、それから小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
その声は、さっきまでの明るさとは違ってどこか静かで、少しだけ震えていた。
沈黙が落ちても重くはなかった。
湯気が薄れゆく間、ゆるやかに時間だけが流れた。
やがて僕は、グラスを揺らしながら口を開いた。
「.....ねえ、ふと思ったんだけど」
「ん?」
「鏡に映った自分の姿って、見えないのにさ。どうして葵には僕が見えるんだろう」
葵はほんのり赤く染まった頬に手を当て、照れ隠しのように笑った。
「……なんでだろうね。今は、あんまり難しいこと考えたくないや」
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