名前
「まなべさん?」
次の機会はすぐにやってきた。僕に気づかず空を見上げていた彼女は、またゆらゆらしている。僕は驚かせないように横からそっと声をかけた。
それでも彼女は目を見開いて振り返った。大きな黒い瞳いっぱいに僕が映っている。
「なんで、名前……」
「傘のタグに。この前はありがとう。たすかった」
僕は綺麗に拭いて折り目正しく畳んだ傘を持ち上げてみせた。
「いえ。……小さい弟がいるから、なくさないように持ち物に名前書く癖が未だに抜けなくて。そういうの、なんだか子供っぽいでしょ」
彼女はきまりが悪そうにふいと目を逸らし、僕の手から傘を受け取った。言葉尻が崩れて、いつもは無表情な彼女の年相応な素顔を垣間見た気がする。少し胸が温かくなった。
こんな時、気の利いたことを言えればいいんだけど、僕が言えたのは「しっかりしてていいと思うよ」という気が抜けた一言だけだった。いや待て、僕は彼女に気の利いた人間だと思われたいのか。
ふいに訪れた気づまりな沈黙を押し返すように、僕は無理矢理口を開いた。
「漢字」
「え?」
「みおってどんな字書くの?」
「ひらがなです。子供の頃なら良かったけど、今はなんとなく恥ずかしい」
「そんなことないよ。うまく言えないけど、きみに似合ってると思う」
僕は愚直に同じような内容を繰り返した。ほんとに、こんな時、気の利いたことを言える男になりたい。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。じゃあ、行くね」
「あ」
これ以上は二人とも気まずいだろうと踵を返しかけた時、彼女が小さな声をあげた。
「あの、おにいさんは?」
「ん?」
「なまえ」
「僕の?」
「はい。私の名前だけ知られてるの、なんだか不公平です」
「不公平って……。佐倉湊です。佐藤のさに簡単な方の倉っていう字。さんずいに演奏のそうで、みなと」
妙な律儀さに、つい笑ってしまいながら、自分の名前を説明する。神妙な面持ちで聞き入っていた彼女は、僕の言葉が途切れると、微かに頷いた。
「佐倉さんに似合ってますね」
「ありがとう」
教えたばかりの名前を呼ばれて、胸の奥がむずむずする。慣れ親しんだ自分の名前も彼女の声で聞くとなんだか新鮮だ。僕のセリフをそのまま返しただけだし、社交辞令だとは思うけど。
「……それじゃ、また」
照れながら片手を挙げた僕に、真鍋さんは柔らかい笑みで応えてくれた。最初に見た貼り付けたような微笑みとは違う、静かで自然な笑顔だった。
またって何。次に会う約束をした訳でもないのに、歩き出した僕の足取りは軽く、知らず頬が緩む。
咲き初めの紫陽花がほんのり色づくような、微かだけど確実な変化を感じていた。
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