水色
それから雨の日は、彼女がその場所に立っていないか気にかけるようになった。不思議なことに雨の日以外は会うことがない。見かけたからといって特に何かを話す訳でもないが、挨拶くらいはする。
相変わらず、右へ、左へ、ゆら、ゆら、と揺れている。癖なのかもしれない。僕が声をかけると、彼女はゆるく首を傾けて、会釈らしきものをする。表情は乏しく、警戒心の強い小動物みたいだ。
ある日、大学の講義が長引き、僕はバイトの時間に遅れそうになって小走りで先を急いでいた。六月の雨は気まぐれに降っては止み、折り畳み傘の手放せない日が続く。
傘をリュックから取り出すのが面倒で、雨を避けて高架の下を通り抜けようとした時、いつもの場所に彼女の姿が見えた。バイト先の本屋は駅から近いとはいえ、急がないと遅刻してしまう。僕は軽く会釈をして彼女のそばを通り過ぎた。
「あの……」
「え?」
急に後ろから声を掛けられて、驚いて振り向く。向こうから声をかけてきたのは初めてだ。彼女が近づいてくる。
「リュックのファスナー全開ですよ」
「あ、ああ、ほんとだ。ありがとう」
急いで出てきたから閉め忘れたのだろう。これで電車に乗っていたかと思うとかなり恥ずかしい。僕はお礼を言いながら、ファスナーを閉じる前に傘を取り出しておこうと、リュックの中を探る。
「……あれ?」
「どうかしました?」
「折り畳み傘入れといたはずなんだけど……」
「これだけ開いていたら、落ちたのかもしれませんね。お財布は大丈夫ですか?」
「うん」
予想外にテキパキと心配りをされ、僕は幼い子供のような心もとない気持ちで頷いた。鈍色の空を見上げると、雨足が強まって銀の光が空から降り注いでいるようだ。
ずぶ濡れになるのと遅刻するのとどちらがマシか、頭の中で天秤にかける。仕方ない、このまま走って行こう。覚悟を決めた時、目の前に柄の長い水色の傘が差し出された。
「良かったらこれ、使ってください」
「え、でもそれじゃきみが濡れちゃうでしょ」
「晴雨兼用の折り畳み傘もう一本持ってます」
「えと、じゃあ、お言葉に甘えて。次会った時かならず返すから」
ちょっと図々しいかと思ったけど、背に腹は代えられない。僕は返事もそこそこに、水色の可愛らしい傘を広げて雨の中に駆け出して行った。
お陰でバイトには間に合ったけど、明らかに女性ものの傘を差してきた僕は、先輩に散々からかわれた。
これは、そういうんじゃないから。すぐそういう方向に持ってくのやめてほしい。
帰り道、雨は止んでいて、改めて見た傘の柄には同じ色のタグがついていた。几帳面な文字で『まなべ みお』と書いてある。きっとこれが彼女の名前だ。傘を返す時に、どんな漢字を使うのか、聞いてみてもいいかもしれない。
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