雨が止むまで
夕方になると、空の雲がすっかり薄れ、さっきまでの雨が嘘のように止んだ。麦湯の氷はとうに融けている。
花影と語らい合う時間は楽しく、気付けば笑い声まで交わしていた。まるで旧友と時間を共にしているような感覚だった。
「今日もありがとうございました」
名残惜しさを胸に押し込み、澄珠は立ち上がった。干してもらった着物もすっかり乾いている。それを抱え、戸口に手をかけようとした。
その瞬間、後ろから腰に、ぐいっと力強いものが回された。背筋が跳ね上がり、息を呑む。花影の腕だ。
「雨が止むまで、と言ったけれど」
耳元へと落ちる吐息混じりの声が近い。
「少し、帰すのが惜しいな」
背中にぴたりと触れる温もりを感じて、心臓が喉元まで駆け上がってくる。
ほんの刹那、離れがたいと、そう思ってしまった。
けれど、それは許されぬ感情だ。澄珠は唇を微かに震わせ、答えた。
「……もうすぐ、夜ですので。もう行きます」
掠れるような声に、花影の腕がゆるりと解かれていく。
「残念」
振り向いた先にいる花影は、少し茶化すような響きを含ませて言った。
「暗くなる前にお帰り。俺は、送ってあげることができないから」
窓から差し込む暮れ残った日の光の中、花影の声はどこか寂しげだった。
◇
数日が過ぎた。
それなのに澄珠の心はずっと、どこか上の空だった。廊下を歩けば足を取られ、畳に膝をついてしまう。襖を開けようとすれば、何故か勢い余って額をぶつける。そんな姿に、傍らの女中が困ったように眉を寄せた。
「澄珠様、最近ぼうっとしていらっしゃいませんか?」
澄珠は慌てて顔を上げる。
「す、すみません……」
「いえ、謝っていただきたいわけではなく……」
言葉の先を探す女中。そして口をつぐむ澄珠。互いに気遣い合うような、気まずい沈黙が流れる。
――澄珠はあの日から、花影のことが頭から離れなかった。
千夜に似ているとは前々から思っていたが、やはりあまりにも似ていると確信に近いものを得てしまったからだ。
花影が、もし千夜だったら。今花神として扱われているあの男は一体誰なのだろう? 彼も千夜と瓜二つだ。幼い頃から千夜を見てきた澄珠からしても、見た目の相違を見出だせない。香霞の地にそれほど高度な変装技術があるとは思えないし、他人の空似とも到底思えない。
庭先へ目をやれば、風に揺れる枝葉さえ澄珠の心の迷いを映しているかのようにざわめいていて、溜め息が出る。
そんな時、女中の一人が静かに寄ってきた。
「栗萌様からのお手紙でございます」
縁側に立ち尽くしていた澄珠は、差し出された封を受け取り、部屋に戻ってゆっくり開く。そこには、今宵琴を呼び出したと記されていた。
場所は、後宮の門近くに最近できた新しい茶房だ。本来は外部からの来客をもてなすための洒落た場所だが、今夜は特別に貸し切ってあるという。
琴と正面からゆっくりと話し合う機会は、これまでなかった。澄珠は緊張から、手紙をくしゃりと握り締めた。
夜の帳が落ちる頃、澄珠は茶房の前に立つ。
門近くに新しく建てられた異国風の造りで、瓦屋根ではなく赤茶色の煉瓦の壁、窓には色硝子がはめ込まれている。
澄珠は傍らの護衛の神官に静かに告げた。
「……中には私一人で入りますので、ここで待っていてください」
神官は訝しげに眉を寄せつつも、深く頭を下げてその場に控えた。
戸を押し開けると、外とは違う静けさが広がっていた。
内装は濃い木目調で、椅子と小さな丸卓が置かれ、壁には異国の風景画が飾られている。珈琲の香りが漂うが、今夜は貸し切りのため、店内はひっそりとしていた。案内された奥の個室は、柔らかなランプの灯りに照らされ、濃紺のカーテンが窓を覆っている。
その中央に、琴が一人座っていた。
薄紅色の着物に身を包み、長い黒髪は流れるように艶やかだ。しかし、澄珠を視界にとらえた瞬間、琴の眉がきゅっと寄り、顔にははっきりとした嫌悪が浮かんだ。
「……どういうことぉ? 今日は、栗萌様が来ると聞いていたのだけれど」
澄珠は小さく息を吸い込み、落ち着いて答える。
「……栗萌様は、来ない。ごめんなさい」
「はぁ? 騙したの? こんなところに呼び出して、何のつもり? 他の人もいないようだし」
冷ややかな声が突き刺してくる。それでも澄珠は逃げず、静かに歩み寄り、琴の正面に腰を下ろした。
「……琴、聞きたいことがあるの」
「お姉様と話すことなんてないわ」
にべもない。澄珠は胸の奥の恐れを押し殺し、勇気を振り絞って口を開いた。
「琴、あなたは、私を後宮から出すために後宮入りしたの?」
琴は表情を変えなかった。動揺は見えない。
「そうよ。みすぼらしいお姉様より、わたくしの方が千夜様の花嫁にふさわしいもの」
「本当にそれだけ?」
「は?」
「琴、あなたもしかして、幼い頃からこの後宮に囚われている私のために……」
澄珠の言葉を最後まで聞くことなく、琴は堪え切れないとばかりに吹き出した。
「あははははは! ええ? 何を言い出すかと思えば、そんなこと?」
次の瞬間、琴の手元にあった湯気の立つ茶が、ばしゃりと澄珠に向かって浴びせられた。熱が肌を打ち、着物にじわりと液体が広がる。
――室内に、澄珠の息を呑む音と、琴の冷たい笑いだけが残った。
ぽたり、ぽたりと、髪先から落ちる茶の雫が、澄珠の着物に暗い染みを広げていく。
「何を勘違いしちゃったのか知らないけれど、それ、自分で言ってて恥ずかしくないの?」
琴の声は甘やかでいて、刃のように鋭い。
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