雨宿り
◇
栗萌の屋敷を出る頃には、しとしとと降っていた雨が、滝のような大雨に変わっていた。雨粒が激しく地面を叩き、庭に水が溜まって泥水が流れている。
澄珠は袖を庇いながら屋敷の軒下へ出たが、すぐに全身が濡れてしまいそうなほどの勢いだった。
自分の屋敷に戻るより、花庵の方が近い。
そう思い至ると、澄珠は躊躇う間もなく走り出した。雨粒が顔を打ち、裾は重たく肌に貼りつく。冷たさに震えながらも足を止めず、ひたすら花庵を目指して駆けていった。
栗萌の屋敷のさらに南、花庵に辿り着いた澄珠は、戸口に手をかける。だが、固く閉ざされていて動かない。
「開いてない……」
小さな絶望の呟きは、雨音に紛れて消えていく。澄珠は項垂れた。後宮の南端まで来てしまった以上、神殿の北にある自分の屋敷へ戻るには、長い道のりを雨に打たれながら歩かねばならない。どうしたものかと立ち尽くす。
――その時、背後から傘の影が差し込んできた。降りかかる雨が遮られ、澄珠ははっと顔を上げる。そこに立っていたのは、微笑を浮かべる花影であった。
雨に濡れたまま立ち尽くす澄珠を、花影はじっと見つめていた。
「どうしたの。ずぶ濡れじゃないか」
心なしか、今日は彼の顔色が良い。
「すぐ近くまで来たので、雨宿りをさせてもらおうかと……」
そう言うと花影はすぐに、「いいよ。玄関で少し待っていて。手拭いを持ってくるから」と戸に手をかける。
花影が触れると、不思議なことに、内側からかちゃりと音を立てて鍵が外れた。どういう仕組みなのだろうと、思わず凝視してしまう。
「……今日は体調がよろしいのですか?」
花影が煙管を持っていないことに気付き、そう問いかける。
「雨の日は少し調子がいいんだ。花たちも元気そうだろう」
まるで花の状態が分かっているかのようなその言葉に、澄珠は違和感を覚えた。
「……花影様には、花の声が聞こえるのですか?」
花影は一瞬だけ言葉を探すように黙った。
「……昔はね。今は、少しだけだよ」
玄関に立つ澄珠の髪や着物から、ぽたぽたと雫が落ちていく。やがて花影が手拭いを持って現れ、そっと澄珠の頭にかぶせた。大きな布でわしゃわしゃと髪を拭われ、澄珠は一瞬息を呑む。
――幼い頃、千夜と遊びで川に飛び込んだ時、こんな風に頭を拭ってもらったことがあった。
何故、今その記憶が蘇るのだろう。花影の手つきが、温もりが、笑い方が、千夜にあまりにも似ているからだ。
「……あ、の」
澄珠は俯き、声を絞り出した。
「うん?」
「ずっと言わずにいたのですが、花影様は、千夜様に外見がとても似ておられます」
「…………」
「それどころか、仕草まで……」
――そんなはずはない。
千夜は煙管を吸わない。髪も瞳も菖蒲色ではない。でもそこを除けば、声も口調も、振る舞いでさえも、あまりにも千夜に似ている。
「花影様は、一体――」
澄珠の問いかけは、そこで遮られた。
「俺を花神の代わりにしてはいけないよ」
低い声が、戸を打ち付ける雨音に混じって届く。
「君の知る花神は、もうすぐいなくなるのだから」
手拭いの隙間から見えた花影の横顔は、ひどく切なげだった。
澄珠が何か言葉を探すよりも早く、花影はふっと目を伏せて言った。
「湯に浸かっておいで。濡れたままでは風邪を引いてしまう」
柔らかい声音とともに、彼の手がそっと澄珠の髪から離れる。濡れた黒髪を包んでいた布がほどけ、雫が落ちた。花影はもうそれ以上振り返らず、静かに背を向けて奥へと歩み去っていく。
「……はい」
短く応じて、澄珠は下駄を脱ぎ、中へ上がった。
花庵の奥にある湯殿へと足を運ぶ。
びしょびしょの着物を脱ぎ、湯気の立ちのぼる温泉に身を沈めると、雨に打たれて冷え切った体が、じんわりと温もりを取り戻していく。澄珠には、先程の発言がどうも胸に引っかかっていた。
(花のお言葉が聞こえるのは、花神の権能を持っている者であるはず……一神官には、できないこと)
湯面に映る自分の顔を見ながら、疑念がどんどん膨らんでいく。期待、なのかもしれない。花影が患っている病とは何なのか。あの煙管は何なのか。どうして彼は、ずっとここにいるのか――。
――『俺を花神の代わりにしてはいけないよ』
花影の声が外の雨音とともに甦る。忠告めいたあの言葉が、頭を離れない。
湯から上がり、まだ頬に火照りを残したまま、いつも食事をしている部屋に戻る。その場所では、花影が座って待っていた。
「雨が止むまでいるといい」
机の上には、氷の浮かんだ琥珀色の麦湯が置かれている。氷は贅沢品なので、用意するのも大変だっただろう。涼やかな水滴が、器の外側を伝い落ちる。
正面に座る花影は相変わらず何も飲まない。
澄珠は器を傾けるふりをしつつ、じっと花影の横顔を盗み見た。長い睫毛の陰、俯き加減のどこか儚げな表情。消えてしまいそうな、人の心を惹きつける美しさがある。やはり、彼に似ている。
やがて花影が澄珠の視線に気づき、ふふ、とおかしそうに笑った。
「そんなに見つめられたら照れるなあ」
「も、申し訳ございません」
澄珠ははっとして俯く。
花影が、千夜だったら。
それはどんなにいいことだろう。
花影は澄珠の知る昔の千夜のまま。澄珠の求めている千夜だ。
もしかしたら、幻影を見ているのかもしれない、と澄珠は思う。
大切な人を奪われた自分の創り出した幻。偽りの存在。
心の拠り所である花庵も、花影も、ここにある全てが夢で、目が覚めたら全て失われているかもしれない。それが恐ろしい。
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