第2話:天下人の夢と哀愁
滋賀県近江八幡市。
安土の地は、湿気をはらむ風が吹く。
藤原敬子(ふじわら けいこ)は、
汗ばむ額をハンカチで押さえた。
「愚問です」
「いくら夏とはいえ」
「この湿度には閉口します」
口癖を漏らす。
しかし、その瞳の奥は、
抑えきれない興奮に揺れている。
かねてからの念願。
安土城跡への初訪問だ。
今日の推しは、織田信長。
敬子の歴史研究人生において、
常に中心に据えてきた人物である。
彼の革新性、合理性、そして冷徹さ。
その全てを尊敬してきた。
天守台へと続く石段を登る。
信長がこの場所に、
天下を望む城を築いた。
そう思うと、胸が高鳴る。
足元には、当時のまま残る石垣。
敬子は、その石の一つに、
そっと手を触れた。
ごつごつとした感触が、指先に伝わる。
その瞬間だった。
風景が、まるで映画のように脳裏に流れ込む。
信長が感じた感情だけが、胸に焼きついた。
声はない。
音もない。
――そこは、築城途中の安土城。
大勢の民が、汗を流している。
巨大な石が、人の手で運び上げられていく。
その全てを、信長が見下ろしていた。
彼は、威厳に満ちた顔で立つ。
その背後には、誰もいなかった。
だが、それは人がいないという意味ではない。
理解されない夢の高さが、彼を一人にしていた。
幻視の中の信長は、
家臣たちに厳しい言葉を投げつける。
失敗を許さない。
妥協を許さない。
彼の理想はあまりにも高く、
周囲との隔たりを感じさせる。
それでも、彼の心の中には、
確固たる未来のビジョンがあった。
天下統一、そして新しい世の創造。
だが、その夢は、
多くの犠牲の上に成り立っていた。
幻視は、信長の非情な決断の裏側を見せる。
苦悩。
葛藤。
理想と現実のギャップ。
それは、彼一人で背負うには、
あまりにも重すぎる荷だった。
その重みが、敬子の心に深く流れ込む。
敬子は軽い放心状態に陥った。
幻視から覚めた敬子は、
しばらく石垣に手を置いたままだった。
目眩がする。
信長のイメージは、
これまで研究してきた資料から得たものとは違う。
彼の偉大さは変わらない。
しかし、その裏にある人間らしい苦悩。
それまで知らなかった感情が、
胸を締め付ける。
「愚問です…」
「彼の本質は、私の理解をはるかに超えていました」
敬子の口から、小さな呟きが漏れる。
資料館へと足を運ぶ。
信長に関する新しい研究発表が行われる日だ。
講演が始まった。
若手研究者が、自信に満ちた声で語る。
彼の発表する信長像は、
敬子の長年の研究とは異なる部分が多かった。
思わず反論しようと、立ち上がりかける。
その時だ。
手元にあった信長関連の専門書を落とした。
大切にしている本だ。
表紙の角が、少し折れてしまう。
「嗚呼、不覚…!」
「異論はありませんが、これは看過できません!」
心中で動揺が広がる。
拾おうと身を屈めた、その時。
講演をしていた若手研究者が、
さっと近づき、本を拾ってくれる。
「これは貴重な資料ですね」
「先生、もしかして信長の研究者の方ですか?」
彼は敬意のこもった声で尋ねた。
驚きが、敬子の顔に広がる。
講演をしていた彼は、敬子の顔を知っていたのだ。
著名な歴史研究家として。
その若手研究者は、少し照れたように言った。
「信長は…やっぱり、僕にとっても特別でして…」
「ええ、まあ…」
敬子はごく簡潔に答えた。
「もしよろしければ、この後の意見交換会で」
「先生のご見解をお聞かせいただけませんか?」
講演が終わると、若手研究者は、
改めて敬子に頭を下げた。
彼は、敬子とは異なる視点から信長を語った。
だが、その熱意は敬子と同じだった。
意見交換会で、彼と深く語り合う。
新しい史料の発見。
斬新な解釈。
信長の、これまで知らなかった側面が浮かび上がる。
それは、敬子の研究に新たな光をもたらした。
「愚問です、今更意見交換など…」
「いえ、しかし」
「彼の研究も一考の余地はありますね」
敬子の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
トラブルがきっかけで、
推しの新たな解釈と出会った。
長年の研究者としての視野が、
さらに広がった瞬間だ。
学ぶことの喜びを、再確認する。
---
次回予告
安土城跡で信長の真の姿に触れた敬子。歴史の深淵には、教科書だけでは語り尽くせない物語があることを実感したようですね。研究者としての視野も広がり、新たな学びの喜びを得たようです。
次なる旅は、東北の誇り、奥州藤原氏ゆかりの地、岩手県平泉へ。故郷の歴史を愛する青年が、彼らの夢と、その儚い運命をたどります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます