歴女たちの幻視旅 ~推しと歩む、歴史の足跡~
五平
第1話:義経はん、あんたホンマにすごいやっちゃ!
京都の夏は、肌にまとわりつく。
橘花梨は、額の汗を払った。
「あ~、まじ暑いんですけど」
「べ、別に好きちゃうし」
「こんな山奥まで来んとあかんとか」
「ホンマありえへんわ」
口ではそう言う。
だが、花梨の瞳は釘付けだった。
目の前にそびえる鞍馬山の山道。
内心は胸が熱い。
義経がこの道を駆け上がった。
そう思うと、じんわり熱が広がる。
人生初の本格的な「聖地巡礼」だった。
今日の推しは、源義経。
平安末期の悲劇の英雄だ。
華麗な戦術と薄幸な生涯。
花梨の「本命」である。
特に幼少期を過ごした鞍馬山。
修行時代にロマンを感じていた。
石段を踏みしめる。
山を登る。
汗でTシャツが肌に貼りつく。
不快だが、花梨は構わない。
歩を進める。
「あんたも、こんなしんどい道」
「毎日登っとったんかなあ、義経はん」
木刀って、こんな重かったっけ。
――いや、義経はんが振ってたんやから。
そらそうか。
そんな心の声が響く。
独り言ちて、ふと足を止めた。
視線の先には、古びた石碑がある。
案内板を読む。
義経が天狗に剣術を学んだ場所だ。
花梨は、おもむろに石碑に触れた。
ひんやりとした石の感触が伝わる。
その瞬間だった。
風景が、まるで映画のように脳裏に流れ込む。
義経が感じた感情だけが、心に焼きついた。
音はない。
誰の声も、風の音さえも。
――そこは、まだ幼い牛若丸。
後の義経である。
一人、厳しい修行に明け暮れる山中。
木々のざわめきだけが響く静寂。
彼はひたすらに木刀を振るう。
幼い身体は汗にまみれていた。
息も乱れている。
それでも、その瞳には光があった。
決して諦めない、強い光だ。
幻視の中の牛若丸は、孤独だった。
友もない。
ただひたすらに強くなる。
それだけを求めて、己を鍛え続ける。
胸には源氏再興という使命。
幼い心には重すぎる。
それでも、彼は受け止めていた。
夜空を見上げる。
満月に手を伸ばす姿。
手の届かない理想への切望が滲む。
巨大な影が彼を見守るように立つ。
それが天狗なのか。
あるいは、内なる師の姿なのか。
花梨には判別できない。
ただ、少年がどれほど過酷な日々を送ったか。
どれほどの感情を抱えていたか。
その全てが、花梨の心に深く流れ込む。
孤独。
悲壮感。
そして、未来への確固たる決意。
それらが花梨の心を締め付けた。
同時に、得も言われぬ感動が駆け巡る。
全身を、電流のように。
幻視から覚めた花梨は、目眩に襲われた。
膝がふらつく。
呼吸が浅くなる。
鞍馬山の澄んだ空気が、急に重く感じられた。
目を見開いたまま、しばらく動けなかった。
意識がようやく戻る。
しかし、まだ胸の奥がざわついていた。
手元に目をやる。
――キーホルダーが、ない。
「あ、あかん!」
「べ、別に焦ってへんし!」
「でも、これ義経はんのキーホルダーやし!」
ツンツンしながら、必死に探す。
だが、苔むした根や落ち葉に紛れる。
なかなか見つからない。
「最悪や…」
「こんなところで失くすとか」
「ホンマありえへんわ…」
半ば諦めかけたその時だ。
「お嬢さん、何かお困りかい?」
背後から、穏やかな声が聞こえた。
振り返る。
山岳ガイドの装束の案内人だ。
年配の地元案内人が立っていた。
その手には、花梨の探していたキーホルダー。
揺れている。
「あ…!」
花梨は一瞬、言葉を失う。
「これかい?」
「牛若丸の守護石か何かか?」
案内人は優しい笑顔で差し出した。
「べ、別に守護石とかちゃうし…」
「ただの、キーホルダーですわ」
素っ気なく受け取る。
だが、花梨の頬は少しだけ熱い。
「そうかい」
「しかし、お嬢さんのような若い方が」
「こうして牛若丸ゆかりの地を訪ねてくれるのは」
「嬉しいものだね」
「この山は、彼がどれほど困難を乗り越えたかを知る場所」
「その精神は、時代を超えて」
「今もこの山に、そして私たちの中に息づいているのさ」
案内人はそう言って、にこやかに去っていった。
花梨はキーホルダーを握りしめる。
そのまま、その場に立ち尽くす。
幻視で見た義経の孤独な修行の日々。
案内人の言葉が重なり合う。
義経が経験した苦難は、歴史の出来事ではない。
現代の自分にも通じる「乗り越える力」。
心の底から理解できた気がした。
「べ、別に感動したとかちゃうし…」
「でも、ホンマに義経はんの縁やったら…」
花梨は小さく笑った。
その笑顔には、隠しきれない温かさが滲む。
「ありがたいわ。あんたのおかげで、もうちょっと頑張れるわ」
そう呟く。
鞍馬山の木々の間を、優しい風が抜けた。
それはまるで、幻視の少年が送ってくれた祝福のようだった。
旅の始まり。
推しが導いてくれたような温かい気持ち。
花梨の胸を満たしていく。
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次回予告
古都京都の山々に抱かれた鞍馬寺で、若き義経の足跡をたどった花梨。彼女のツンデレな心が少しだけ解き放たれたようですね。推しがくれた縁に、静かな余韻を感じています。
次なる旅は、天下統一の夢を追いかけた信長ゆかりの地、滋賀県安土へ。歴史研究をライフワークとするベテラン教師は、この地で一体何を見るのでしょうか?
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