第9話 ファナティック
彼女は悪魔だ。
人に化け、その社会で生活している。
彼女は駅前の商店街を歩いていた。
近頃、七つの大罪の中でも暴食や怠惰ばかりで、あまり他の罪を犯せていない。
それを意識して歩いている。
しかし、いざ試みようとしても、意外と機会は訪れないものだ。
彼女はそこで一枚のクーポンを受け取る。
「ラーメン二番 五十円引き」
ちょうど昼時だった。
暴食を犯す気分でもなかったが、彼女はスマホのマップを頼りに店へ向かう。
必要以外の会話がない、静かな店内だった。
時折店長らしき男から、客へ鋭く短い問いが飛ぶ。
尋ねられた方は、皆一様によどみなく何かのパラメータを告げていた。
それ以外では、誰も声を出さない。
彼女は食券を売る自動販売機の前に並んでいる。
順番待ちの列、一人一人の立ち位置まで図に書いた指示が貼られていた。皆それを守って静かに並び、券売機に辿り着いた者は無言でお金を入れる。
カウンターで食されているものを見る限り、彼女には小でも十分に思えた。
ファーストコンタクトを慎重に運ぶのが、長い生で得た悪魔の知恵のひとつだ。
彼女は迷いなく小を選んだ。
席に着くと、彼女の右隣にいた男へ、店長から問いかけがあった。
「ニンニクどうしますか?」
先ほどから店内で交わされている唯一の会話だ。右の男は毅然とした態度で、すらすらと言葉を発する。
「ニンニクバシバシ、野菜バシバシ、油バシバシ」
高らかに宣誓した男に、多くの客がどんぶりから顔を上げ、眼差しを送っている。
おそらくあれは畏敬だ。
バシバシというのは、どうやらヒトの間では巨大を意味するらしい。
彼女はヒトの度量衡について、常にトレンドを掴むよう努力していた。しかし連中はいつも、知らぬ間に流行りの目方を使い始めるのだ。
今日はそこまで食べるつもりはない。注文が少なめで済むよう、もう少しやり取りを観察する必要があった。
左に座る男へ質問が飛んだ。その男は口を開け、何やら言い淀んでいる。
「あ……えっーっと……。や、やさ」
店内にはあちこちから失笑が漏れた。
「ドシロウトが……」と何処かから声が聞こえた。
左の男は顔を上げ、次ははっきりと言う。
「野菜、半分。油バシバシ!」
ニンニクについては、発言しなければ自動的に用いられないのだろう。洗練された方式に思えた。
やがて、彼女の呼ばれる番が来る。
彼女は別に暴食を犯しに来た訳ではない。
得た情報を元に、ここで出すべき答えは、「野菜はんぶ……」
先ほど注文をした、左隣の男の呟く声がこちらに届く。
「ボクはなんてだめなやつだ……。情けない!」
悪魔は慄然として口をつぐむ。
店内のカウンターに乗るラーメンはどれも、野菜が山のようにそびえている。
つまり、ここで低い山を前にする者は、敗者なのだ。だからこの男は屈辱に震えている。
それでこの店の、異様に張り詰めた空気にも合点がいった。
ここで皆戦っているのだ。
いつの間にか、室内の男たちすべてがこちらを見ている。
店にいる唯一の女が、どの程度戦えるのか推し量っているのだ。
すでにヒトの世の戦いは、正義対正義の構図が当たり前となっている。
神話の時代の遺物となった、正義と悪の対決をここに再現するため、彼女はその挑戦を受けた。
「ニンニクバシバシ! 野菜バシバシ! 油……バシバシッ!」
店内にかすかなざわめきが起こった。
どんぶりの上に、野菜の高峰がそびえる。
彼女は悪魔だ、これを平らげることなど不可能ではない。早速とりかかる。
山を平定し、次は麺をすくうが、スープを吸って伸びたそれは太くなっていた。
噛み切るのも口へ詰め込むのも難しい。彼女は時折咳き込みながら、麺を少しずつ胃に収めていく。そこへ、左隣の男の嘆きがまた耳に入った。
「医者に止められているのに……なんてボクはだめなやつなんだ! しかし、どうしても!」
何かの後悔をしているようだ。後悔という感情は悪魔にもある。
失敗に反省しなければ成長はないのだ。
悪魔は麺と格闘しながらそれを感じている。彼女は水を飲み、一息ついた。
そして、おそらく最大量を注文していた右隣へ視線を送る。
彼女は目を見開いた。
相手のどんぶりはすでに空だ。何か早く食べる方法があるのだろうか。
彼女はそれを食べたヒトの方に視線を移す。するとどんぶりの主は、思い詰めた様子で何かを呟いていた。それが徐々に大きくなり、やがて男は立ち上がった。
「嗚呼……タイトルマッチの計量が明日あるのに、俺は食っちまった!」
暴食の罪の誘惑は強い。悪魔でもそれに溺れかけることがあるのだ。ヒトならなおさらだろう。
彼女はほくそ笑んだ。罪が、ヒトの人生を奪う現場を目撃したのだ。
ラーメンを食べたボクサーは涙を流しいてる。
あれは罪悪感だ。利己的な生き物の悪魔にはない感情だ。
ヒトは他人を裏切った際に、こうした想いを抱く。
タイトルマッチは失われ、彼に関わる者は裏切られたと嘆くだろう。
店主が調理の手を止め、傷ついたボクサーへ優しい声をかけた。
「お前のリングはここだ」
「……おやっさん」チャンピオンになり損ねた男は、戸惑った顔をしている。
「ベルトなんて何本もある。いつか取ればいい。ただ、自分の幸福を裏切るな。
胸に宿る幸せを、己が信じてやれないで、誰がそれを救うんだ!
もう迷わなくていい」
「俺……明日も来るよ!」
店長はボクサーに近寄りその肩を叩いた。
「今日の夜は、五十円引きだ。今、お前のために決めたぜ……チャンプ。
明日のために、まず今晩来るんだ」
店内に歓声が湧き上がる。「俺も来るぜ!」「……予定はキャンセルだ」
にわかに騒々しくなった店内で、彼女はうつむき、伸びた麺を箸で弄んでいた。
男たちは、なぜここで戦うのだろうか。
彼女には、それは「美味しいから」ではないように感じた。
彼女は店を出て公園を歩いている。重くなった腹をこなして帰るつもりだ。
考えに沈む彼女に、暴食を犯した喜びは少ない。
ヒトはなぜ戦うのか。
ヤツらはそれぞれ、正義と信じる武器、つまり思想を手に相争う。
しかし、連中は過去のものとなった正義対悪の戦いの記憶を、いつまでも捨てない。そして相手を悪だと思いたがる。
同族で殺し合う以上、敵が悪なら自分も悪だというのに。
私闘の禁じられた現代、魂を燃焼させるため個人はいつも何かと擬似的に戦う。
あの野菜の山は悪ではない。あれは飲食店の繰り出す正義だ。
男たちは、暴食、罪悪感など様々な悪徳をみなぎらせ、悪としてそれを迎え撃つ。
客が現れる限り、どんぶりは繰り出され、戦いは永劫に続く。
あそこには、正義対悪の構図が今も存在していた。
しかし、ヒトが悪徳と知りながら店を訪れる動機が、悪魔の彼女にも分からない。
悪魔はベンチに座った。
胃から喉をせり上がった空気が、口から出るのを堪える。
それでも胃の中のニンニクの香りが鼻を抜けた。
ヒトならこの時どう思うのだろう。
彼女は、なぜかあの野菜の山を懐かしく感じていた。
ゆっくりと立ち上がり、不意のゲップを甘んじて放出する。
連中が、なんのためにあそこで戦うのかを探るため、少し通ってみてもいい。
彼女は、いつの間にか発汗し、無意識に舌なめずりをしていたのに気付く。
そして、震える唇から吐息混じりに呟きを漏らす。
「……今晩は、50円引き」
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