第10話 呼び水
彼女は悪魔だ。
人に化け、その社会で生活している。
冷蔵庫の中の牛乳は、消費期限を過ぎていた。
悪魔はほくそ笑む。
ヒトなら根拠もなく、自分は大丈夫と信じて飲むのだろう。
悪魔に油断はない。彼女は冷蔵庫を閉じて、水道水を飲んだ。
悪魔が買い物帰りに通り抜けようとした公園に、人だかりができていた。
「ぬるま湯チャレンジだ!」「おーやってんなぁ」「初めて見る」
彼女は人垣の隙間から中を覗いた。
見えたのは、若い男が三人連れだって、頭から湯をかぶるところだった。
以前のチャリティー運動の延長だろう。また何かがきっかけで、類似のものが流行しているようだ。
悪魔はほくそ笑む。
こうしてヒトは、善行をエンタメとして消費する。虚栄心や同調圧力と無縁の善人たちは、堕落した善に幻滅し、やがて静かに離れていくだろう。
誰も損をしないとされるムーブメントは、消費されることを拒否する人間を失う。
「てめー……俺のだけ熱いじゃねえか!」
ぬるま湯トリオの真ん中の男が、右手の仲間に食ってかかる。どうやら、一人だけお湯の温度が高かったようだ。たちまちつかみ合いになった。
「いつも、俺ばっかり、イジりやがって! 限度があるだろう」
「ネタだよ、ネタ。何ムキになってんの?」
周囲の人間は、突然始まった二人の諍いがどこまで本気かわからず、戸惑っているようだった。しかし、二人の善行者がそれぞれ流血する事態になると、急に全員が殺気立った。
「そっちの奴が悪い!」「いや先に手を出した方だろ」「超えちゃいけないラインがあるだろうが」
ヒトは昔から血を見ると、突然シリアスになる。血は概ね暴力の結果だ。それが神に禁じられた悪だと、今も連中の心に刷り込まれているのだろう。絶対的な悪が目の前に出現すると、ヒトはそれに真剣に向き合うのだ。
「痛ッ! あ、てめえ」「俺に触るな!」「おまえ、足踏んでるぞ!」
やがて連中の諍いは、口論からあっさりと、十人以上の参加する乱闘へエスカレートした。モラルや理性がいつも勝つとは限らない。
台の上に置いてあった、お湯の入るタライがが宙を舞った。そして、全員が水浸しのまま戦い続けている。
悪魔は、ぬるま湯を浴びるのが、何のための運動かを知らない。しかし、この場は大勢が参加して、仲良くお湯を浴び、成功なのだろうと考える。善行の行われる動機など、ヒトの感情を掴みにくい悪魔には関心がない。
彼女はその戦いをもちろん動画に撮っている。後でアップして、小銭を稼ぐつもりだ。ヒトの善意を自らの強欲に利用する。それが悪魔だ。
「驚愕!! 温い血の雨が降る、ぬるま湯チャレンジ!!
『俺をイジるな!』男の魂の叫びに一同、困惑!!」
彼女の投稿した動画は、それなりにお金を稼いだ。しかし、他に大勢の人間が、同じ場面をサイトに上げていた。彼女の動画の再生数は全体で、中の下あたりの位置に留まっている。編集や機材の差もあったが、上手な語りを入れるなど、トップの連中の動画は、テレビ番組並の完成度だった。
物事というのは、無償の善意から始まっても、連鎖的に様々な現象に波及し、やがて誰かが金を儲ける。ヒトの社会では、それを嗅ぎつける者がいつもどこかに潜む。
彼女は冷蔵庫を振り返り、しばらく思案に沈んだ。
「ヤバイ牛乳飲みまーす!!」
悪魔はPCの前に座りライブ配信を始める。
彼女は心の中でせせら笑う。
ムーブメントの発信源になる。これが勝者なのだ。
そして、このような危険で愚かな行為を真似する人間が現れるはずだ。本物の悪魔の所業とはこういうものだ。
「みんな、消費期限に騙されてはいけない! 本当は大丈夫なものを、捨てるのは地球のためによくないんだっ! さあみんなで飲もう、ヤバイ牛乳。牛を助けよ!」
わかりやすくストレートでいいのだ。演説は、相手に分かるように大事なことは繰り返す。これがコツだ。
悪魔はすべてを満面の笑顔で配信する。リスナーの反応はよかった。
近頃取り組んでいる笑顔の練習の効果が出ている。
彼女はこれを通じて、ヒトの動きを観察するつもりだ。危険と楽しみを、どの程度のラインで踏み越えて来るのか。またこれを誰がどうお金にするのだろう。ぬるま湯を浴びるよりは、容易なチャレンジだとも思えた。
彼女は吐瀉物にまみれて畳を這う。
配信サイトのアカウントは停止された。吐いたのがまずかったのだろう。
昼食の残骸を眺めながら、彼女は気付いている。
みんながやっているから大丈夫、という根拠のない楽観に自ら陥っていた。
しかし彼女は、それを後悔していない。
ヒトなら根拠なくあの牛乳を飲むと思った。つまりその根拠を、彼女は自分の心で体感したのだ。
悪魔は、人間について、また理解を深めることができた。
「これも、波及する現象のひとつ……」
彼女は畳の上で、胸を抱いて丸まった。ここに得たものは誰にも取られないのだ。
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