第8話 契約

 彼女は悪魔だ。

 人に化け、その社会で生活している。


 悪魔は神と呼ばれようと画策していた。

 今日発売の新型のゲーム機が、その足がかりだ。

 彼女は、ゲーム実況なども囓るチャンネルを持っている。

 新型機をいち早く手に入れ、開封動画を配信しようと考えていた。

 そして、ライブの終了後に、本体を視聴者へプレゼントする計画だった。

 彼女は神と崇められただろう。

 登録者数の拡大を狙った「損して得取れ」の作戦だ。その後の数字の推移を分析して、ヒトの欲やその持続性などを観察しようとも目論んでいた。そして、リスナーとの距離を縮めてみたいとも。

 しかしその計画は、転売屋により阻止された。


 彼女は手ぶらで駅前を歩いている。

 今も憤怒を、彼女は心に燃やしていた。これは七つの大罪の一つだ。

 計略を阻止されても、神へ自動的に反撃する能力を持つ。それが悪魔なのだ。

 駅前のビルの壁面に巨大なビジョンがあった。

 周囲には大勢の人間が立ち止まり、それを見上げている。

「いいね」「かわいい」「神!」

 画面の中では若い女たちが歌い、踊っている。アイドルグループというものだ。

 悪魔はせせら笑う。

 昔は踊って歌う神がいた。それを捨てたのはヒト自身だ。今こうして崇め直したところでもう遅い。冷えた光には二度と温もりは宿らないのだ。

「あの、ちょっといいかな?」

 彼女は、どこか軽薄そうな男に声をかけられた。相手に見覚えはない。

 口を開く前に、悪魔は男を観察する。聖職者という雰囲気ではなく、武装もしてはないようだ。

「はいっ! なんですか?」

 相手の目的を最初に引き出す。これが交渉の勝ち方だ。

「君、アイドルやってみない?」


 悪魔はある四人組のグループに加わった。彼女を入れて五人だ。欠員補充ということらしい。まずは見習いとして、ダンスや歌のレッスンに励みつつ、イベントなどへ出演することになる。ステージへのデビューはまだ先だ。

 皆十代後半だろう。それぞれ特別仲がいいわけではない。仕事が終われば直ちに解散だ。しかし、チームワークはある。おそらくスポーツチームに似た雰囲気だ。

 悪魔はほくそ笑む。アイドルともなれば、大勢のヒトと直に接する。いずれ影響力を持てば、世間に悪徳を蔓延らせることも可能だろう。

 彼女はその機会を掴むため、日々レッスンに励んだ。


 グループのリーダーが、彼女の訓練教官だった。

「私がいいと言うまで、質問をするな! そして、ハイ以外の発言は許さん!」

「でかい声出せ」「違う、もっとアイドルっぽい顔をしろ!」

「ステージの顔だ、やれ!」「お前の笑顔は弱い。練習しろ」

「……私たちの笑顔は、己に勝った勲章だ。覚えておけ!」

 スポーツチームどころか、まるで軍隊の教官だった。

 連中の生活は研ぎ澄まされていた。

 テレビ出演を終えたあとも、彼らは稽古場に現れて、納得のいかなかった箇所の修正をする。控え室や化粧室には、いつも鎮痛剤の空き箱が転がっていた。

 特に、リーダーが稽古場に現れない日はない。あの女は、半日鏡の前に立って笑顔の練習をしたこともあった。

 アイドルは信仰の対象だ。偶像としてその神性を作り出すのには、やはりこうした努力が必要なのだろう。彼らは、厳しい戒律を守らされてもいた。行動も制限される。現代の偶像崇拝には、目に見える苦痛に対してのリスペクトを多く含むようだ。

 連中の日々は、快楽主義者のどこかの雷神などより、よほど清廉だ。

 悪魔は、ヒトが神性をどう作り、どう維持をするのか興味深く眺めていた。


 悪魔は苦痛に強く、いくらでも練習ができる。何事もすぐに上達した。

「お前の笑顔はぎこちない。でも、取り柄が見つかった。それはダンスだ。

 その身体能力なら、いずれ私たちの主力になる」

 リーダーが太鼓判を押し、悪魔のステージデビューが決まる。


 舞台の始めに、悪魔はスピーチをすることになっていた。

 彼女は、すでに握手会などには参加しており、それなりの知名度とファンを得ていた。会場には、悪魔の言動に影響を受けるヒトが、多く詰めかけているだろう。

 何をスピーチするか、悪魔は思案している。群衆を操り、暴力へ向かわせるのがいかにも悪魔的な本能だ。しかし、それは不祥事になる。自ら掴んだアイドルとしての立場を、損なわずキープしておくべきだとも考える。こちらは理性の要求だ。

 どちらつかずの気分のまま、その日がやって来た。


 ステージの前に、リーダーが悪魔を呼び止めた。舞台袖の薄闇に二人向き合う。

 リーダーは、いつもの鬼教官の厳しい顔だった。

「ダンスは自分の身体に集中しろ。積み上げて来たものを信じるんだ」

 悪魔はふと思いついて、相手に尋ねた。

「あなたは何を信じるの?」

「努力で積み上げた背骨だ。それを支えに、皆あそこに立つ」

 女は、明るいステージへ目を細めた。そして言った。

「はっきり言っておく、お前は通用する。まあ、がんばろう」

 リーダーは最後を笑顔で締めた。


 悪魔は、これまでに見たこともないほどの数の人間を前にしている。

 マイクの前に立ちながら、彼女はまだ何を言うか決めかねていた。

 押し黙る彼女を前に、会場には困惑が広がった。やがて不満の声が漏れ始める。

 責められる気配を感じた悪魔の口が勝手に開いた。

「ここにいるすべてのヒトたちよ! お前たちに与えられたスペースは小さい。

 東にヒトのいる者はそちらを向け。西にいる者は同じようにせよ!

 そして拳を握って……」

 彼女から反射的に出たのは、悪魔の本能だった。この会場を流血の会場にする。

 そこで、悪魔は気付いた。

 見渡す限り、群衆は笑顔だった。彼女は、あれが宗教的恍惚だと直感する。

 連中はアイドルを信仰している。そこから発せられるのはすべて善だと、常に受け入れる体制になっている。神から悪意が発信されたとしても、彼らはそれを何かの善に解釈してしまうだろう。

 この群衆を争わせるのは、悪魔には不可能だった。

「……肩を組め!」

 悪魔が言い終わると、会場の男たちは残らす肩を組んだ。そして歓声を上げる。

 彼らを暴力にかき立てようと思えば、悪魔を殺せなどと、外敵の存在を訴えるしかない。しかし、それも望みは薄い。

 神が目の前にいる、満たされた人たちはどこへも行かない。ここは閉じられた、無数の約束事に守られた地なのだ。


 悪魔はアイドルをやめた。

 少し顔を知られてしまったので、近頃街を歩くときにはマスクをしている。

 数年前の疫病の流行により、季節によらずそれに不審を抱かれることはない。

 悪魔はなんでも利用するのだ。

 駅前の大型ビジョンの中で、かつて彼女の所属したグループがステージを披露していた。大勢のヒトがそれを見上げて喜んでいる。


 あそこにいた連中は、偶像や幻影、神でもなくただの人間だった。

 ファンもそれを知りながら、アイドルの神性を愛する。

 それは両者の間にあり、偶像自身が犠牲を払って、信者の幻想する、あるべき神性を作り続けている。

 一神教で許容される偶像崇拝は、その奥にある神性をあがめるという建前だ。彼女が目にしたのは、像の前にある信仰だった。

 悪魔はやはり神にはなれない。だからやめたのだ。


 ステージは終わり、グループのリーダーがインタビューを受けている。彼女が笑顔を見せるだけで、周囲から歓声が上がった。

 ヒトは笑い一つにも、様々な種類を使い分けて生きている。

 悪魔のつくり笑いは、それを職業とするヒトには、通用しなかった。

 ヒトの世の中で生きる異物にとって笑顔は、身を守る盾だ。あの女に言われたとおり、練習をするべきだった。利己的な悪魔は、自分のために笑うのだ。

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