第18話 レアポップ

 彼女は悪魔だ。

 人に化け、その社会で生活している。

 彼女はテレビを見ていた。

 ニュースによると、国民幸福度の世界ランキングにおいて、この国は五十位程度という。

 ヒトの幸福とは何か。

 社会全体発の無味乾燥なものから、感傷的なものまで、様々な説がある。

 彼女は、それはヒトが前を向いて歩くための燃料ではないかと、おぼろげに感じている。

 切れると、おそらくヒトの活動は鈍るのだ。

 為政者たちは、それをどう管理するかいつも頭を悩ませてきたのだろう。

 得る方法から持続まで、様々な角度から検討し、彼らは民衆の心に宿る幸せの品質管理を行っている。

 悪魔にはヒトのような幸福はない。彼女たちは連中を不幸にするための存在だ。

 それだけに、人間の幸せというものが何か、知るべきだと彼女は考えていた。


「ぶっ殺せー!」「オラ! やっちまえ!」「はやく立てコラァ!!」

 彼女はプロレスの開催されている会場にいる。駅前でタダ券を配っていたのだ。

 ヒトの多い場所でなら、ヒントを得られるのではないかと彼女は考えていた。

 しかし、会場の中にいる人間の心は幸福とは遠いようだ。

 その試合は、ベビーフェイスの若手有望株対ベテランのヒールレスラーという組み合わせだった。

 そして、悪役レスラーは年を取りすぎていた。

 ヒールの役割をこなそうと、努力をしているのは分かるが、相手の動きについて行けない。凶器攻撃も卑劣な技も、もはやプロレベルではなかった。

 有望株は、もたつくロートルにうんざりし、手を抜き始めているのが明らかだ。

 会場を埋めるファンにもそれは分かる。たちまち罵声が飛び始めた。

「しょっぱいぞ!」「昔のお前はどこいった!」

「おい若手! 武士の情けだ受けてやれ!」

 野次に笑いまで起こる始末で、その試合は散々だった。

 しかし試合後、そのロートルはマイクパフォーマンスを行うという。

 彼女は手早くスマホで検索した。

 どうやら彼の試合では、終わった後マイクを通じて相手にユーモラスな挑発を行うのが恒例らしい。

 会場の雰囲気は悪い。ファンは、プロのレベルに満たない試合を見せられたのだ。

 老いたレスラーはマイクの前で荒い息をつき、何度も言葉を詰まらせる。

 客席からは容赦のない罵声が飛んだ。

「もう顔じゃねえんだよ!」「今日はもうやめとけ」

 野次に適度な笑いが起こるのを見ると、この事態も恒例のことのようだった。

 あの男がなぜ今もああして戦うのか、悪魔には理解できない。

 ヒトが個別に持つ美学については、研究不能と半ば諦めている。

 しかし、会場に充満する人間の負の雰囲気。これは悪魔には享楽だった。彼女はせせら笑う。強いて言えば、悪魔の幸福とはこういうものだ。

 会場に、それまでと違う、戸惑ったような声が上がった。

「なんだ?」「猫だ!」「かわいい」

 うつむくレスラーの足元に、いつの間にやって来たのか、一匹の猫が頭を擦り付けている。

 おそらく彼の飼い猫なのだろう。飼い主共々高齢のようだ。

 会場には忍び笑い、失笑が漏れ始めた。

 そして、そのレスラーはいかつい顔を、くしゃくしゃにして足元の猫へ、

「ミーちゃん、どうしたの?」と言った。

 会場は静まり返り、先程まで罵声を浴びせていた連中が、歯を食いしばって涙を流し始めた。

 彼女は周囲を見渡し、会場を包んでいるのは感動であって、おそらく幸福と似て非なるものだと感じた。

 老いたレスラーは、リングの上で、戸惑ったように猫を撫でている。

 あれが幸福なのだろう。

 偶然訪れる何かを、ヒトはいつも求めている。だから恒例の塩試合でも見に来る。

 そしていつまでも戦うのだ。

 管理された品質に、いつもヒトは物足りなさを感じている。

 そして幸福度の統計には、こういった偶然の大物をカウントしない。ヒトは再現性のないものを、数字に含めたがらないのだ。

 だからいつまでも不幸指数になる。

 彼女はそれを学び、喜んだ。

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