第17話 おいしそう

 彼女は悪魔だ。

 人に化け、その社会で生活している。


 この付近は坂が多い。暑さにうだりながら悪魔は登っている。

 ふと思いついて知らない駅で降りてみた彼女は、ちょっとした散策を楽しむつもりだった。その好奇心が、思わぬ試練を招いているのだ。

 何かの音がして、彼女は顔を上げた。上から赤い物が大量に転がって来る。

 彼女は脇に寄ってそれを避けた。鈍い音を立ててアスファルトを転がるのは、リンゴだった。

 坂の上から、「やっちまった!  おい拾え!」という野太い声がする。

「えー……。落としたの先輩ッショ。自分でドーゾー」

 二人の配達員風の若い男が、上で言い争っている。どうやらリンゴの箱を落としてしまったようだ。

 あれは、傲慢と怠惰。彼女はほくそ笑む。

 ヒトはいつまでも、禁断の果実を相手に罪を犯すのだ。


 少し坂が落ち着いた辺りで悪魔は足を止めた。

 道端に武装した二人組がいる。彼女は少し警戒したが、すぐにそれを解く。二人は何かを調べているようだ。

 彼らの足元に一目でそれと分かる、宝箱があった。

 五十センチ四方の木の箱を、鉄で補強した、いわばアイコンといえるものだ。誰が見ても、それを開けたくなるだろう。強い誘惑を発散している。

 鎧を着込んだ男が、「これを見たら、開けずにおられんな」と言いながら、蓋に手をかけていた。

 横に立つ、白い衣を着た聖職者風の女が深く頷く。

 悪魔は内心で嬌声を上げた。

 愚かな人間が財宝を放置し、またそれを強欲な者が盗もうとしている。

 彼女はじっと宝箱が開くのを見つめた。

「ああ……なんだ金かよ。つまんねぇ。何が入ってるのかって期待してたのに」

 男は中にあった金貨をひと掬いして、不満の声を上げている。

「お金取っちゃダメだよ、カルマが下がるから。置いてこ」女が言う。

 不平を言う男を、聖職者がなだめて歩き、二人は去った。

 あの二人は、好奇心を満たしたかっただけなのだろう。悪魔にもそれはある。

 好奇心と罪の相性はいい。ヒトは、開けてはならない箱を開け、見るなと言われれば見てしまう。そして、禁じられたものを必ず食べる。

 悪魔はほくそ笑んだ。ヒトに好奇心がある限り、悪徳は絶えない。


 家の塀が連なる道端に、木の台があった。

 そこに何かの果物が大量に積まれている。

 台の後ろの塀に「差し上げます。おくいくつでもどうぞ。マズいので食べないでください」と貼り紙があった。

 悪魔はほくそ笑んだ。

 美味い不味いなど、苦痛に強い悪魔にはどうでもよいことだ。

 台の周りには大勢の人間が集まり、興味深げにその果物の山を見ていた。先程の配達員の姿もある。

 彼女は台に近寄り、誰よりも早く果物を手に取った。

 初めて見る物だが、柔らかく食欲をそそる色をしている。

 それを眺めながら、ふと彼女は、禁断の果実がもしかすると、このような形だったのではないかと思った。リンゴとよく言われるが、そうでもないとも聞く。もし今、禁断の果実が目の前にあれば、迷わずこうしただろう。彼女はそれに齧り付いた。


「アァァァ……」

 悪魔は大口を開け、倍ほどに腫れ上がった舌を出して地を這う。

 辛いのか渋いのかまた、苦いのか全くわからない刺激だった。噛んだ際に放たれた果汁が、口内すべてに炎症をもたらしている。喉も胃も、針で刺されるような刺激が収まらない。

 周囲には大勢の人間が倒れている。

 彼女が驚いたのは、食べる人間が片端から倒れるのを見ても、平然とそれに続く者がいることだ。

「まっずぅ……ギャハハ」「こんなリアタイ逃せねぇ」「これ……伝説だわ」

 好奇心からが主な動機だと思われる。しかし、場の雰囲気に流されるにしても限度を超えていた。

「ウヒャー! なにコレぇ? イベント?」

 聞き覚えのある声が響いた。悪魔が顔を上げると、アパートの隣の部屋に住む女が果物を手に取っている。このような姿を、知り合いに見せるわけにはいかない。彼女は顔を隠して様子を伺った。

 女は。その果実をあっさりと一つ食べきった。

 「オー! まあぁいいっしょ」

 そして、平然と次へ手を伸ばす。「痒い痒い! アハハハ!」

 女は、満足気に次から次へと果物を胃に収めていった。

 あの女は内部までも強靭なようだ。

 やがて隣の女は、「一食浮いたわ。ありがちょー!」と塀の向こうへ声をかけ、悠々と歩き去った。

 あとには苦悶に身をよじる者たちが残された。

 塀の扉が開き、年をとった男が現れる。老人は這いつくばる者たちを見回すと、薄く笑った。

「……こうなると、思ったよ」と言い、その男はまた塀の向こうに姿を消す。

 その老人が消えるのを見た瞬間、悪魔は気付いた。

 彼女は弾かれたように立ち上がる。


 あの男女が、禁断の実を食べて楽園を追放されたのは、その好奇心からだと、彼女は考えていた。おそらくそれは正しいと今も感じる。

 増大した知力をもって観察できる世界は、以前とどのように変わるのか。それはおそろしく強い誘惑だ。悪魔の彼女でも、あの実を食べてみたいと思うほどに。

 楽園には多くの生き物がいたが,すべてその誘惑にうち勝ったとは思えない。

 多くがあの実に挑み倒れていったはずだ。そして、あの二人だけが、実を食しても身体を壊さなかった。

 つまり彼らは、試練を乗り越え、外の世界に旅立つ勇者だった。

 夕暮れが迫り、カラスが舞い降りて来る。それらは果物には目もくれず、倒れた人間をつつき始めた。


 悪魔は塀にもたれながら、背中に夕日を浴びて坂を下る。

 神は、あの木を見ながらわくわくしていたのだ。

「いつ、誰がこれを食べて、外に出ていくかな」

 そして、楽園の生き物の忠誠ではなく、体力を試していた。

 あの果実は体力検定。知恵は厳しい外の世界で生き抜くためのギフト。

 選ばれしヒトは、その後地上をくまなく覆った。

 しかし、罪は罪。神は黙って赦すほどぬるくはない。

 だから、あの男が、きっちりと落とし前はつけたのだ。

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