第16話 情熱
彼女は悪魔だ。
人に化け、その社会で生活している。
彼女は葬式に参列していた。
遠い関係の人物を送る式で、気が進まないながらもここに立っている。
人間社会で暮らす以上、断りにくい招きというものがあった。
ヒトを知ろうとする彼女にとって、喜怒哀楽の、「哀」に満ちるこの場を体験しておくのも悪くないと思っている。
彼女は心中でほくそ笑む。
悪魔にとって連中の沈んだ顔は目の保養だ。どうしても気分が高揚し、笑みが込み上げてくる。ヒトはそれを邪悪だというが、そういう生き物なのだから仕方がない。
居並ぶ者たちは揃って喪服に身を包み、沈んだ顔で坊主の話を聞いていた。
聖職者はあの世がいかに素晴らしいかを説く。
ならばこの場で、皆笑って昇天を祝うべきだと悪魔は考える。
感情と倫理のねじれは、連中の持つ矛盾の一つだ。
彼女は、ヒトより悪魔の方が、よほど純粋に生きていると感じていた。
出棺の時が来た。ヒトの悲しみは最高潮に至る。
「お父さん!」子供が棺に取りすがった。
「親より先にいくなんて……この、トンチキが!」老人も泣いている。
その時棺を持ち上げようとしていた男のズボンの尻が、派手な音をたてて裂けた。
奇妙に肌つやのいい白い尻が露わになる。
恥辱に紅潮した男の顔を見て、彼女は喉元まで上がってきた笑いを堪えた。
彼女は連中の涙を眺めながら、それに耐えてきた。ここで努力を無駄にはしない。
悪魔は参列者に背を向ける。歯を食いしばって胸を張り、大きく息を吸った。気管の中を空気が下がり、喉が鳴る。そして彼女は、笑いを飲み下すことに成功した。
ヒトの世で長く生きた彼女には、笑いの処理もお手のものだ。ここは、笑ってはならない場なのだ。彼女は心中でほくそ笑む。
「ギャハハハハハハ」「プハァッハハハハハハ」「ブビヒヒヒヒヒヒ」
彼女は、背中から被さる笑い声に慄然とする。
振り返ると、坊主まで腹を抱えて笑っていた。
しかし、それを咎める者はいない。なぜか、それが許されているようだ。彼女はこの、「場の空気」というものを読むのにいつも苦労しているのだ。
尻を出した男が逃げ去り、やがて笑いは収まった。
また出棺からやり直しになる。
「お父さん!」子供がまた棺にしがみついた。
「親より先に死ぬなんて……ブッハァギャハハハ!」
連中はまだ、心の中では笑っているようだ。
しかし赤い顔でうつむくヒトの姿は、悲しみに耐えているようにも見えるのだ。
ヒトは常日頃から社会という鎖に縛られ、抑圧に慣れている。
心を隠すことにかけては、どんな時もズケズケとものを言う神などより、よほど上手い。
その後は、時折発作的な笑声が上がる葬儀になった。
悪魔は肩を落としている。やはりヒトを知るのは難しい。
ここでは、厳粛な雰囲気にヒトを戒めながら、誰かが笑っても仕方がないと許されている。彼女は、ヒトの感情への理解をずいぶん深めた。しかし、それが混ざって形成される「空気」というものが難問として残る。
本来悪魔は、空気を読む生き物ではないのだ。
喪服の中の一人が、声を上げた。
「故人は……アイツは皆の笑顔が好きだった。もう、笑って見送ろうじゃないか!」
大勢の人間がうなずき、声を上げた。
「アハハハハ」「フヘヘヘヘ」「ヒィーハァー」
そしてヒトはアドリブで場の空気を変えていく。
感情の抑制と開放、そして躍動。その分岐がどこで「許される」のか。探るのに、いい経験になったと彼女は思う。
涙を流しながらも子供が笑っている。老人も青筋を立て目尻を涙に光らせながら、それでも腹を揺する。
そこで彼女は気付いた。ヒトは他人のためにも笑う。利己的な悪魔との感情の断絶は、そこに要因があるのではないだろうか。
悪魔が考えに沈もうとした時、叫び声が上がった。
「香典泥棒だ!」
さっきまで笑っていた連中が、瞬時に怒声を発する。
「なんだと!」「おのれ犬畜生に劣る奴」「故人をないがしろにする、不届き者め」「斬り捨てい!!」
霊柩車のエンジンが掛かった。泥棒はおそらくあれに乗って逃げるつもりだ。
坊主も激昂している。
「儂はタダ働きはせんぞ! いけ、者共! ぶっ殺せ!」
男たちが、脱兎のごとく霊柩車へ駆け寄った。
今まさに発進しようとしていた車のボンネットに、数人が群がる。
霊柩車は、よろめき走って電柱に激突する。
横転した車体から屋根が吹き飛び、棺が後部へ射出された。
棺桶はアスファルトに叩きつけられ、故人が路上へ転がり出る。
車から這い出した二人組の盗賊は、たちまち袋叩きにされた。
坊主が木魚を振るう。数珠を巻き武装した拳が握られた。
彼女は、おそらく喜怒哀楽の、喜以外を瞬時に見たように思った。
喜とは、幸福のことだろう。それは簡単には手に入らない。
そう考える彼女の目に、路上に転がる白い和装の遺体が目に入る。
いい笑顔をしていた。
彼は、すぐそばで燃えている情熱から、一人だけ離れている。
思いがけなく、彼女は喜怒哀楽をコンプリートした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます