第15話「僕の部活動生活が結構暇なので別のことして暇つぶししたいと思います。」

5月。ゴールデンウィークが終わると、桜の花びらはすっかり消え去り、校舎前の木々は青々とした葉で覆われていた。空気も少しずつ夏の気配を帯び始めていて、外にいるとじんわりと汗がにじんでくる。


そんな中、僕――和田陽介は、グラウンドを全力で駆けていた。


部活の時間、まだ楽器の練習が本格的に始まらない1年生に与えられた“恒例”とも言えるのが、基礎体力づくりの走り込みと筋トレ的なものだ。最初は文句を言っていたやつらも、今ではだいぶ慣れてきたみたいで、無言でトラックをぐるぐると回っている。まあ、喋りながら走っている人もいるけど。


「それじゃ、1年生は今日はトラック3周ね。今日は、終わったら、空き教室に移動してもらうから。」


いつもの校歌斉唱と点呼が終わり(一年生だけ)、顧問の先生がそう言うと、僕ら1年生はグラウンドへと散っていった。


走るのは3周。全力じゃなくていい。呼吸を整えて、一定のペースを保つのがコツ。

――そう、頭ではわかっていた。けれど。


僕はというと、やることが他にないのなら走るしかない、というある意味、単純な思考のまま、ひたすら足を動かしていた。

楽器にまだ触れられないもどかしさが、僕の背中を押していた。

ずっと吹いてきたトロンボーン。あれは僕にとって運命の楽器なんだ。あの感覚をずっと味わっていたい…!


だから僕は、走った。


1周目は周囲と並ぶようにスタートした。

2周目になるとみんなより少しだけペースを上げる。

3周目は他の子が足を緩め始めたのに、僕の脚は止まらない。もう前には最後列と思われる人たちが走っている。


「和田、まだ走ってんの?」


「まじかよ、4周目入った……」


周りの1年生がそろそろ終わりに差し掛かり、バテ始めているのを横目に、僕は5周目に突入する。ゼーゼーと音を立てる呼吸。太ももが重くなってくる。それでも、不思議と止まりたいとは思わなかった。


「ずっと走ってるよ、和田……」


「ストイックすぎて逆に怖い……」


そんな声が後ろから聞こえた気がしたけど、僕は構わず6周目へ。


すでに脚は鉛のようで、肺も焼けるように熱い。

けれど、止まらなかった。誰も見ていないのに、止まりたくなかった。

僕自身に証明したかったのだ。あの6月の“退部届”を書いた自分とは違うということを。


ついにゴールラインを踏む。


汗が頬を伝い、地面にぽたりと落ちた。


「……つ、かれた……」


地面に倒れ込み、空を見ると、まぶしい青空が視界いっぱいに広がっていた。


「あ、腹筋とかしなきゃ…1人でどうやろう…?」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


数分後、腹筋などの筋トレも終え、疲れがまだ残っている体だが、息を整えながら、ゆっくりと階段を上がり教室へ戻ると、すでに先生の話が始まっていた。


僕が教室の扉を開けた瞬間、顧問の先生がこちらを見て声をかける。


「和田くん、ずいぶん遅かったですね。もう筋トレ、終わってますよ。」


「す、すみません……ちょっと走ってて……」


「ちょっと……?3周をみんなと走ったんじゃないの?」


と聞かれる。僕が答えるよりも早くみんなが、


「先生、こいつ6周走ってました!」


「マジで走ってたんです!」


「途中で追い抜かれました……」


教室内に軽い笑いと驚きが広がる。

僕は苦笑いしながら、そっと誰も座っていない前の席に座った。汗がまだ完全には引いていないのが自分でもわかる。


「あら、そうなの。」


と先生は僕をちらりと見てそう言ったあと、手元のプリントを僕に渡し、話を続けた。


「さっきも話しましたが、吹奏楽部の楽器決定に向けて、第5希望までをこの紙に記入してください。明日と明後日で個別に面談を行って、仮決定したいと思います。」


その言葉に、ざわっ、と教室が揺れた。


「ついに吹ける〜!」


「やっと楽器吹けるの!?」


「神じゃん!」


教室中から歓声があがる。仮入部のとき以来、ずっと触れることのなかった本格的な“楽器”に、ようやく近づけるという期待感に、みんなの顔が自然と明るくなっていた。


「だけど練習に入れるのはリコーダーとリズムのテストが終わった和田くんだけですからね。」


と先生が言う。


「え〜、いいな〜。」


と声が上がる。

ようやく、やっと、自分の楽器に触れられる――そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

手元の紙に視線を落とし、希望を書く。


1番目に書いたのは、もちろん「トロンボーン」だった。


その後ろには、「ホルン」「クラリネット」「ユーフォニアム」「パーカッション」と続ける。

過去にやった経験からして、この楽器だったらできる。というものを並べている。

でも、毎回違う楽器を第一希望に書いたってトロンボーンになるので、諦めている。


それに――


僕の中で、トロンボーンといえば、やっぱりあの人の顔が浮かんでしまう。


宮坂先輩。優しくて、時に厳しそうなあの性格が好きだ。いつしかのループでの入部初日のあの言葉が、今でも心に残っている。


「トロンボーン希望なんだって?嬉しいなぁ〜。」


――あの笑顔を、忘れたくない。


そして、もう一人。


あの時ぶつかった先輩。名前は荒垣だっただろうか?フルートパートの人で、少しだけ寂しげな笑顔が印象に残っている。


そして、なぜだかこの人が、助けを待ってる気がする。

根拠なんてない。けれど、本能的にそう思った。


音楽は、言葉よりも人の心に届く。

だからこそ――同じ音を、誰かと重ねる時間の中で、その人のことも、いや、みんなのことを、もっと知れるんじゃないか。

そんな気がした。


あの人とも、いつか同じ音楽を奏でられるのだろうか――


「よし、今度こそ……」


自分に言い聞かせるように、小さく呟いてから楽器希望の紙をかばんにしまった。


5月の風は、もう初夏の匂いを運んでいた。

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