【短編】愛しの死にものぐるい

稲井田そう

愛しの死にものぐるい

 この世に生まれて十七年、生きるのが無理になった。


 理由は数えきれないほどある。


 炎上してアイドルとしての生活が疲れたとか、CD折られた画像見たとか、DMに罵詈雑言が来るとか、私がライブ配信に出るとコメントが荒れるから出してもらえないとか、ずっと目指してたCМ出演が消えたとか。


 炎上に終わりが見えないし、これからも炎上したことを引きずって生きていかなきゃいけないとか。


 私の置かれた状況すべてが、アイドルとして致命傷だった。


 しかしながら万単位で自殺者が絶えないこの国では、大変残念なことに自殺防止の策が講じられている。


 駅ではホームドアが設置されているし、踏切では緊急停止ボタンがある。


 ある程度の階数を超えた建物は窓が開かないところがほとんどだ。飛び降りに適している崖や橋はボランティアの見張りがいるし、学校の屋上なんて業者すら立ち入らず、扉にはべっとりほこりが溜まっていた。


 睡眠薬だって、そうやすやすと大量にもらえないし、不審な言動を見せればすぐカウンセリングが入る。


 楽に死ぬことすら許されないのだ。この世界は。


 包丁で胸を一突きは痛いし、絶対奥まで刺せる気がしない。リストカットで死ねるわけないなんてネットには書かれているし、首つりは方法より先に失敗したときのリスクが滔々と語られる。


 死にづらい。ただでさえ生きづらいのに、死ぬことすらうまくできない。


 そうして色々死ぬ手段を模索して、最終的に行き着いたのは虚無だった。


 もうどうでもいいや、痛くても。とりあえず死のう。


 平日昼間の情報バラエティ番組を見て、ぼんやりと思った。土砂降りの雨が、窓を叩くように降り注いでいる。


 もう二週間以上窓を閉じたきりなのに、雨の匂いが強くて不快だ。


 テレビの液晶画面には、ファンが起こした殺人未遂事件についてコメントする俳優が映って、次はその残虐性から先日死刑が執行された死刑囚の話題へと変わっていった。


 この世界の全てを恨んでいるような、鬼気迫る顔写真とともに、司会者が痛ましい顔で事件について語ったあと、次の話題も明るくない話題ですと声を落とす。


 司会者が背にしていたフリップが一気に変わり、私の顔とともに『大炎上中! 果崎はてさきあかり! アイドルの水面下での戦い! 同期を引きずり落とした黒幕の手口』と出たところで、私はテレビを消した。


 ぷつりと音がして、画面が一気に真っ黒になる。


 液晶にリモコンを投げつけようとして、なんとなく出来ずにリモコンをベッドに放り、私は部屋を後にした。


 はじめは飛び降りにしようかと思ったけど、だめだった。


 マンションの非常口を上って、照り付けるどころか焼き付けるほど熱い日差しに四苦八苦しながら手すりに足をかけ、柵をよじ登ったところまでは良かった。


 けれど、低めに設定された天井に頭を打ちつけながら見た景色は存外低く、この世界に死ぬのに都合のいい場所なんてないんじゃないかと絶望した。


 よく狂気にふれた人間を殴って正気に戻すシーンがあるけれど、アスファルトの天井にぶつけたところで私の頭はよくならない。もちろん心もだ。


 マンションは大通りに面していて、目の前の通りはデリバリーや配達員が行き交い最悪巻き込む。さらに写真に撮られ、自分の死体がネットに出回るところを想像して、取りやめとなった。


 結局、自分の部屋しかない。


 息を吐いて、私は刃物を手に取った。かまってちゃんの自傷行為なんて言われる方法だけれど、脈を狙えば大丈夫なはず。私は最も具合がよさそうなところを狙って刃物をあてた。


 目を閉じて、最後に出たライブの写真を使いながら「若手アイドル  自殺」とテロップ付きで流れるところを想像しようとして、やめた。どうでもいい。


 だって私を見てくれる人間なんていない。


 私が死んでも、気にする人間なんていない。


 もういない。


 無価値だから。


 最後の力を振り絞るという表現があるけれど、まさしく今、私はそれをする。刃を当てただけで、ひりついた痛みを感じた。このまま強く引けばいいはず。私は思い切り力を込めて、刃物を掴む腕を動かした。



●●●



 手間を惜しむことは嫌いだった。なんでも全力を出したかった。


 ファンの人に失礼だから。


 死ぬ間際も、私は尽力したつもりだった。


 けれどその手段を選ぶときは、「もういいや」と、半ば投げやりだった。


 もっときちんと死亡例や、その具体例を調べておけば良かったと思う。そうすれば失敗しなかった。


 ただただ、それがよくなかった。


 要するに私の自殺は不完全に終わったのだ。何故なら──、


「まだ若いのに……」


 そう呟く男性医師の隣に立つ。私は今、病院へと緊急搬送され治療を受けた末に、ベッドで横になり昏々と眠る私を見下ろしていた。


 窓辺の向こうには川が見えて、手に力が籠る。


 自分が招いた状況が、理解できていない。手首を切って意識が途絶え、気が付けば目の前にはベッドで寝かされる私の身体があった。


 一方の私といえば朝に着ていた服のまま、病室で私を診る医者、看護師に認識されることなく、自分の身体の傍らに立っている。


 今の私については、幽霊と表現するのが最も正しいのだろう。試しに看護師さんの前に立ってみるけど、誰にも認識されない。


 でも、不思議なことに嗅覚はある。独特ののっぺりとした病院の匂いに、なんともいえない温度。激しい色を取り除いた病室らしい視界もあるし、看護師さんとお医者さんの会話も聞こえる。


「保護者の方に連絡はつきましたか」

「それがどうやら、いないみたいなんです。一応会社のほうへかけてみたら、マネージャーの方が来るそうで……」


 看護師さんは複雑そうにしていた。


 私に家族はいない。正確にはいなくなってしまった。


 事務所の人も言葉を濁したのだろう。私の家族について公表する気は絶対になかったから、よかった。

 安心しながら、私は自分の身体の手首を見る。包帯でぐるぐるにまかれて傷は見えないけど、幽体の私の手首には赤い線がハッキリと見える。


 自殺は簡単じゃない、という書き込みをネットで見た。


 飛び降りも、手首を切ることも、服薬もお勧めしない。


 最後まで苦しいだろうけど首吊りで妥協しておけ、三日ほど誰にも助けられなければ成功する。


 死してなお纏わりつく遺体の状況や、誰にも助けられない完璧な状況を作ること──デメリットの多さに尻込みしていたけど、言うとおりにしておけば良かったなと後悔が浮かぶ。


 ぴくりとも動かない私を見つめていると、やがてばたばたと大きな足音が聞こえてきた。


「あかりさんの容態は!」


 ぶつからんばかりで病室の引き戸を開け、そう言い放ったのは私のマネージャーだった。


 まだ仕立てたばかりのスーツは鞄と纏められ、ひっきりなしに振動しているスマホを汗だくの手で握りしめている。


 短髪で、いかにも大学を卒業したての新入社員ですとプラカードが下げられそうな彼は、四月に私の担当をすることになった新人マネージャーだ。


 元々私の担当マネージャーは、私が入所したと同時に事務所入りした人が務めていたけど、今年独立の運びとなり、彼はこの春から私へ仕事の連絡やSNS広報活動などのマネジメントを担っている。


「手首を切ったって本当ですか!?」


 病室に入ってそうそう、マネージャーは問いかける。


 大体四か月ほどしか担当していないアイドルが自殺するなんて、信じたくないだろう。


 大きく肩を上下させ息を切らしながら、愕然とした顔立ちで私を見つめている。


「い、いつ目を覚ますんですか!?」

「今の段階では、なんとも……」

「植物状態ってことですか!? そんなっ! まだ十七歳なのに……なんで……」


 私の診断について、マネージャーは言葉を失う。


「あの、どうして彼女、手首を切るなんてことなんて……」


 看護師さんのひとりが、沈痛そうな面持ちでマネージャーに問いかけた。医者が「きみ」と、彼女を窘め、マネージャーは口ごもる。


 さすがに言えないだろう。同期のゴシップをリークしたことがバレて炎上したなんて。


『同期に対する嫉妬の果て─匂わせ彼氏炎上事件の黒幕か!?』


 私のCМが告知されてすぐ取り上げられたこのニュースは、瞬く間に拡散、CМが放送中止になったことでネットニュースにも取り上げられた。


 内容は、私が同期のアイドルに嫉妬をして、相手を週刊誌に売ったというもの。


 私の同期──賛美さんびはるかを大々的に報道した記者と私が話をしているところの写真が、瞬く間に記載された。


 ほかにも、彼女にマイクを渡さなかったり、いき過ぎた注意をして精神的に追い詰めたり。パワハラをしたなんて、強い言葉でまとめられた記事もあった。


 最初の発端は、炎上騒動の二週間前、遥が炎上したことだ。


 ほかの事務所の男性アイドルと同棲しているとかで、さらに遥が今までブログやネット上で交際を匂わせたと報じられた。


 そうして始まった推理劇は、匿名の名探偵や調査班が次々現れ、数か月前に更新したブログの記事は男性アイドルのファンを煽っていたのではないかと、動画やコメントが次々発表された。


 しかしその炎上は、私の炎上により流れが変わった。


 私──果崎はてさきあかりはもともと賛美遥が気に入らず、遥に彼氏がいるように出版社に伝え、故意に炎上させたのだと言われるようになった。


 記者と私がカフェで話をしているところを撮った写真は、大々的に公開され、私の名前を検索すると、アイドルで何をしてきたかより、記者の人と話をしていた写真だけに占められる。


 でも、私はしてない。


 周りは、そう判断しなかった。


『あかりと遥は仲が悪かった』


『果崎あかりはいじめをしていた』


 私と遥が共演した旅番組の切り抜き動画が何十万と再生された。


 いくつもの証拠として出されたのは、こじつけとしか思えないまとめブログの数々や、個人的な邪推や憶測だった。


 すべて、真実として扱われた。


 私は相手が気に入らないからという理由で、そんなことしない。


 芸能界は蹴落としあいなんて言うけれど、実力で戦うものだ。私はずっとそう思ってやってきた。私は、私のファンを元気づけて、私のファンに楽しんでもらえたら嬉しかった。そう思ってやってきた。


 ──なのに、誰にも信じてもらえない。


『火のないところに煙は立たない。醜い本性、バレちゃったかぁ。悪いことできないもんだね』

『芸能界って大変だぁ。ストレスたまるんかな。それとも元からクズだったか』

『闇すぎ草。信者かわいそうwうちの推しはアホだけどそういうこと出来ないから安心』

『ゴリ推しうざかったからこれで顔見ないで済むわ、でも恩知らずやば、事務所見る目無』


 ネットの検索には私の名前と黒幕の文字が浮かび、ツイッターでは有名な芸能人たちが皆遥を擁護し、守ってあげる、相談にのってあげると優しいコメントを寄せていた。


『実は遥ちゃん、このところ元気がないなって思ってて。声かけてれば良かった』

『遥さんに相談してってメッセージ送りました! 今度飲みに行こう! 話聞くよ〜』

『僕も若いころ同期と揉めて一晩中話し合ったりしてました……がんばれ!!』


 当然、その人たちのファンも賛同する。いくつもいいねがついて、「優しい!」「素敵です! いつまでも応援します!」とコメントが連鎖する。


 否定したかった。私はそんなことしてないと。


 でも事務所は、今法務部と確認するから、法律に詳しい人と相談しているからと弁明させてもらえない。

 しばらくして送られてきた事務所からの通達は、事務的なものだ。


 内容を要約すれば、「騒動が落ち着くまで、黙っていよう」だ。勝手に見解を発表しないこと。もし私が違うと勝手に発表すれば、事務所との契約違反になる恐れがある。今は我慢の時だから、何もしないこと。


 事務所の意向に反して、コメントは説明を求める人たちであふれていた。


『ちゃんと説明してほしい』

『反論がないってことは本当だったってことでしょ』

『信者しかいない中で調子乗ったんだろうな』

『今まで推してた分のお金返してほしい。売れなさ過ぎて中古屋買い取り停止になっちゃったし』


 死ね。消えろなんて単純な二文字や三文字なんて見かけないくらい、思いが込められた一言が連なっていく。


 報道から、わずか五日間の出来事だった。


 けれどもうアイドル生命が絶たれたも同然だった。失敗なんて許されない世界だ。一度落ちて這い上がろうとすることすら許されない。


『あかりの出てるCМなんて見たくない』

『見てるだけで吐き気がする。やめてどうぞ』

『顔だけのゴミカスが大手製菓のCМとか普通に相応しくないでしょ』


 その言葉が積み重なって、CМは放映中止になった。


 私から、全部消えた。


「原因はただいま調査中でして……」


 長い沈黙を経て、看護師さんの問いかけにマネージャーは俯いた。お医者さんは「すみません、彼はまだ新人でして……」と頭を下げる。


『面会終了、十五分前をお知らせいたします』


 重苦しい空気を切り取るように、柔らかなピアノのメロディーが響いた。病室内にアナウンスが流れる。

 患者の負担にならないよう、けれど面会時間を延長することもないよう調整された音色に、マネージャーはほっとした顔をした。


「あの、上司と相談してきますのでっ」


 そう言って、踵を返しマネージャーは去っていった。


 難しい役割を背負わせてしまった。


 私が自殺を完遂していれば炎上もすぐ納まり、会社への風当たりだって弱まっただろうに。


 死ねなかったせいで、かけたくなかった迷惑がどんどん積み重なっていく。


 病室に横たわる身体は、今も心臓を動かしながら昏々と眠りについている。


 生きていれば、眠っていても瞼は動くなんて聞いたことがある。眼球を包んだまろいそれは石のように固まり、手首には包帯が巻かれ、確かに死のうとしていた証明があった。


 でも死ねなかった。


 口元には酸素を人工的に送り込む器具が取り付けられ、左腕にはいくつもの点滴の管がつながっている。


 どの繋がりを絶てば、私は死ねるのだろう。


 触れてみても感覚が無く、通り抜けてしまう。軽いチューブ一つ持ち上げられない。


 まるで、プロジェクションマッピングとして投影されているみたいだ。今や私は、真っ白な寝台に影すら落とすこともできない。


 これからどうしよう。


 ずっとこのままだったら、どうしよう。私が生きていることは、事務所にもにもデメリットだ。


「どうして、自分から死のうとなんて……」


 看護師さんは静かに息を吐いた。私はその場にいることができず、病室を後にする。


 どうにかして、死にたい。


 私は立ち止まっていることも出来ず、ふらふらと歩いていく。


 土砂降りだった空にはオレンジ色が滲んで、薬品の漂う廊下を染めていた。


 面会を終えた患者の家族や知人たちが、五月雨のようにぽつぽつと病室を抜け、出入り口へと向かっていく。


「ごめん。さくらちゃん……でも、僕の代わりの先生もいい先生だから」


 すぐ横の病室から、五十代くらいのお医者さんが出てきた。ぶつかりそうになるも、すり抜けたことで自分にはもう身体がないと実感する。


 部屋の中をちらりとのぞくと、唇をとがらせた水色のパジャマの女の子がいた。


 すぐ後ろに人の気配を感じて振り返れば、さっき私を診ていた人とは別のお医者さんと看護師さんが話をしている。


「先生、どうでした?」

「僕じゃないと、手術受けたくないって……手術をしなければ、あの子は助からないのに……」


 助からない。


 あの水色のパジャマの女の子は、手術をしないと助からないのか。


 でも、生きたくても生きられない人がいても、私は死にたい。


「え……、あ、あかりちゃん……?」


 聞こえてきた呟きに、振り返る。


 私から三メートルほど離れた廊下の向こう、ぼさぼさの髪に、季節感がまるでないパーカー姿の冴えない男が立っていた。童顔で華奢だからか、目を丸くしていると、幼く感じる。


 背は高いけど年は同い年くらい……もしくは相手のほうが年下かもしれない。


 長すぎる前髪から僅かにのぞく瞳は爛々として、肌は白く陰気さをより一層引き立たせている。


「あかりちゃんだ!」


 男は声を上げ、興奮した様子で駆けてきた。線香の香りを強く感じる。


 もしかして、幽霊か何か……?


 でも、周りの人は「声大きい」と顔をしかめているから、多分生きているはずだ。


 男は私の目の前に立つと、その瞳をキラキラさせながら私を見つめてくる。


 背後には壁しかないことも手伝って、私を認識しているのだと確信するには十分だ。でも、当然他の人は男が壁に向かって声を荒げ、ただ目を輝かせているようにしか見えない。


 周りにいる人たちはみな、看護師や警備員を呼ぼうと動き出し、男を警戒していた。


「お、俺ずっとファンで、え、えっと最初からCDも買ってます。さ、最初のホールのライブ、行きました! えっと……」


 彼は私のファンらしい。


 感激した様子で手をあわあわと動かしては、右へ左へ行ったり来たりを繰り返している。息も荒く、興奮状態に他ならない。


 でも他の人間には私の姿が見えない以上、壁に向かって興奮しているようにしか見えない。


「あ、あの、ちょっといいですか」


 このままだと、彼は間違いなく不審者として捕まる。私は咄嗟に彼の手を握った。


 手を伸ばしてから掴めないことに気付いたものの、指先から感じるほっそりと骨ばった皮膚の感触は確かで、私はつい動きを止めた。


 触れた。


 びっくりしたのも束の間、男の背後にこちらへやってくる警備員のおじさんたちの姿が見えた。私は彼の腕を掴んだまま、病院の外へ引っ張っていく。


「な、なに、なんで おおおお俺の手を!? えっ嘘っこれ、ど、ドッキリとか!?」


 警備員に追われているというのに、彼はのんきに私に腕を引かれているだけだ。


 私はそのまま病院の入り口まで向かおうとして、玄関ホールのそばにカメラやスマホ、レコーダーを持った人たちが集まっていることに気付いた。


「撮影? あっ、今日あかりちゃん、病院で撮影しているの? あ! 新しいドラマとか!? なら俺、ちゃんと黙ってます!」

「違います」


 炎上のせいで仕事は全部キャンセルだ。


 それに撮影なら、化粧道具を抱えたメイクスタッフや、レフ板を動かす照明スタッフもいるはずだ。カメラ片手になんてことはない。


 私について嗅ぎ付けてきたのだろう。情報が出回るのがはやい。


 おそらく私の身体は救急車で運ばれた。死んでいたら布に包まれていただろうけど、担架に乗っていたなら顔が出ている。


 私は止む無く踵を返し、病院の裏手──中庭へと回った。出入り口がなく入院中の患者が憩いの場としているらしく、点滴を取り付けたキャスターを押す高齢者や、小さな子供が何をするにでもなく座っている。


「なんでカメラ避けてるんですか?」

「ネット、見てない……?」


 ファンといえど彼の呑気な言葉に驚いて、つい問いかけてしまった。彼は「ああ、炎上のこと? そんなの気にしてませんよ! 僕は貴女をいつだって信じます!」と口角を上げる。


「それより何で僕のこと引っ張ったんですか? っていうか何で僕警備員に追われてるの? もしかして、声かけたから? あれっ?」


 自分の目にしか私が映っていないことを、彼はまるで理解していない。


 平然と私に縋るように言葉を紡いで、中庭の注目を一身に浴びている。


 夕光が奇跡的に彼を照らしているせいで、さながらスポットライトのようだ。


 ただ逆光になっているせいか、不気味さまで醸し出している。


 言い辛いけど仕方ない。


 意を決して、首を横に振った。


「私、死んだの。暫定幽霊なの、貴方にしか私の姿は見えてない」

「そんな……」


 先ほどまでキラキラ輝いていた彼の瞳が、すうっと冷えて鈍く見える。


 私は手のひらを握りしめ、声にも力を籠めた。


「スマホ見て。たぶんもう、ニュースとかになってるから」


 彼は虚脱状態だったのが嘘みたいに、俊敏にスマホをポケットから取り出し、私の名前を打ち込んだ。焦燥にかられた視線が一身に注がれる画面を、私も覗き込む。


 冬の公演の私の写真の上から被せるように、死に関する苛烈な文字が並んでいる。その下には炎上に至るまでの説明があった。


「うそだ……」

「嘘じゃない。とにかく貴方にしか私は見えてない。このまま私と話をしていると、貴方は不審者だと思われるの。静かにしていたほうがいい」

「でも入院中って、死んでないってことじゃないですか」


 切実な声色に、ずきずきと頭が痛くなった。


 死んでいないからか、今もこんなに感覚が残っているのかと、忌々しい気持ちになる。 


「私は、死に損なった。医者はいつ意識が戻るか分からないって言ってる」

「じゃあ生きてるってことですよ! い、今はほら、幽体離脱みたいになってるかもしれないけど、死んだわけじゃないし、元通りになるかもしれないし……」


 ──大丈夫です。


 きっと。生きてる。


 良かった。死んでない。


 喜びに溢れた言葉に、目の奥が熱くなった。


 身体は病室にある。涙なんて流れないはずなのに、視界が滲んで私は男から目をそらした。


 私は、生きてて良かったなんて思えない。死ななければいけなかった。


 乾かすための涙なんて出ないはずなのに、気休めに私は顔を上げた。


 夕焼けはだんだんとオレンジから深海のような群青色に染まっていき、遠くでは烏の声が聞こえてくる。


「いつになるかは分からないけど、そのうち死体になるから……応援してくれて、ありがとうございました」


 私は彼から離れ、病院の中へ戻ろうとする。


 でも、どこへ行けばいいかは分からない。でも、とりあえず病院の中にいるしかないだろう。幸い彼しか私を認識している様子はなかった。


 死のうとしたことを後悔させるとしか思えない巡りあわせだ。


 最後にファンとなんて会いたくなかった。


 会いたくないから、駅のホームを死に場所として選ばなかったのに。


 そっと踵を返そうとすると、ぎゅっと腕を掴まれた。


「ど、どこに行くんですか」


 振り返れば、さっき私のファンを名乗った男が、血相を変え私の腕をつかんでいる。


「どこって……どこでも。病室とか?」

「なら、お、俺の家に来てください。俺しか貴女のことが見えないのなら、い、一緒にいましょう! あかりちゃんが生き返るまで!」


 彼はまるで、プロポーズでもするように私を見つめてくる。


 返事をする前に、「親が車で迎えに来るはずなんで!」と彼はそのまま私を引っ張りだした。


「いや……な、ど、どうして……?」

「だって肝試しで怨霊が出てくる病院とかあるじゃないですか。危ないですよ」

「危ないもなにも死んでるから……」

「まだ生きてます! 国宝をそんな病院に野ざらしになんてできません。意識が戻るまで、保護させてください」

「国宝って……」

「とにかく一緒に来てください!」


 彼はぐんぐん私の腕を引いていく。


 かと思えば立ち止まって、ぐるりとこちらに振り向いた。


「僕、縁川天晴えんがわあまはるっていいます! 天晴あまはるって呼んでくれませんか?」

縁川えんがわさん……?」

「ありがとうございます!」


 注文とは異なるのに、彼は笑みを浮かべる。腕を掴んでくる力は、色白で線が細いわりに確かな力だった。



 縁川天晴えんがわあまはるの言う通り、病院の駐車場には彼とそっくりな男の人が立っていた。


 助手席の扉が開いたのに、彼は私の腕を掴みながら素知らぬ顔で後ろの座席乗り込むと、そっけなく彼の父と話をして、車は発進した。


 それからというもの、会話はない。


 小学校のころ、明るい性格の男子生徒が授業参観で静かになる様子を見たことがあるけれど、それかもしれない。


 あれほど饒舌に話をしていた縁川天晴えんがわあまはるは、ただ私の手を掴み、ネットで私が転落したとされているニュースを見ている。画面に映りこんだ「炎上」の二文字を見て、私は反対側の車窓へ振り向いた。


 知り合ったとはいえど他人に連れられ、さらに知らない車に乗り込む。生きていたらありえない。


 両親の車に乗ったことだって、数える程度しかない。


 仕事では基本的に車移動だったけど、マネージャーの運転するワゴン車だったし、「乗る」というより運んでもらうことに近かった。


 こうして車に乗った時は、私の身体がすり抜けて車だけ過ぎ去るんじゃないかとも思ったけれど、縁川天晴に腕を掴まれているからか、今もこうして彼と揺られている。


 車窓を見る限り、家は都心から離れたところにあるらしい。高層ビルやマンション、飲食店が立ち並ぶ通りを抜け、次第に木々が風に揺れる光景が増えてきた。


 景色が見慣れないものに変貌していくたび、降り積もるような息苦しさが募る。


 どうしてついてきてしまったんだろう。


 考えると同時に、病室から逃げたかったのだと思い至る。


 病院に留まることは、私の身体を前にする人々を見なくてはいけないということだ。それから逃げた。死にぞこなっているくせに。


 一番恐ろしいのは、私の意識が戻ることだ。


 それだけが怖い。生きて戻って、死に直すことが出来るか分からない。


 私の意識があの身体へ戻っても、目を覚ましてそのまま死ぬことが出来るか分からない。意識だけ身体に宿り、動かせないままかもしれない。


 救急車に運ばれる間、お医者さんや看護師さんが懸命に治療してくれたのは分かるけれど、それでも死にたかった。


 死ぬべきだった。


 炎上は続いている。私を叩く声だって、死ねてないのだから納まるはずがない。


「もうすぐ到着ですよ!」


 縁川天晴がこっそり声をかけてくる。


 夢に、自殺に──唯一無二の、私の居場所。


 私はいつも、あともう少しのところで目的地に辿り着けない。



●●●



 いくつか遠くに山々が見えてきた頃、車はゆっくりと速度を落としていった。やがて車のドアが開かれて、私は促されるまま外に出た。


 電灯に照らされた山門に、堂々とした木造りの社。石畳がすっと並ぶ先には枯山水が広がり、その周りは竹藪が茂っていた。そして隣には、黒い長方形の群れが並んでいる。墓地だ。


 どこからどう見ても、ここは──、


「うち、お寺なんだ。だからだと思う。あかりちゃんが見えるの」


 淡々とした声音で囁かれ、さっと前へ飛びのく。さっきまで私が立っていた真後ろに、縁川天晴えんがわあまはるがいた。


「び、びっくりした……」


「でもほら、俺しか見えないわけだし……」


「耳元で言う必要はなかった」


「でも……小さい声がいいかと」


 縁川天晴は納得いかない様子だけど、さっき完全に二の腕同士がぶつかっていた。


 そんな至近距離は、アイドル同士でしかしない。ファンに嫌な思いをさせてはいけないし、疑われる行動をとってはいけないと、ただでさえ異性には極力近づかないようにしていたのだ。


「一人で何ぶつぶつ言ってるんだ。車戻してくるから、先帰ってなさい」


 彼のお父さんは首を傾げる。


 困った様子で縁川天晴えんがわあまはるは私を見た。ばつが悪くなり、「ごめん」と友達相手のような謝罪が口をつく。


 やがてお父さんは車を運転してお寺の裏、茂みの奥へと入っていく。お寺の裏に駐車場があるのだろう。 


「家こっちなんだ。お寺の横。ほら」


 縁川天晴が指さす先には、一軒家があった。彼はそこへ向かってゆっくり歩いていく。歩幅が小さくて、のんびりした足取りだ。


 手ぶらで歩くなんて何年ぶりだろう。


 出演するドラマの台本を読むだけじゃなく、原作があればそれをチェックするのももちろんだけど、SNSでファンの評判をチェックして次に生かしたりとか、事務所の人と連絡を取ったりとか……行儀が悪いけどスマホは手放せなかった。


 ただ車に乗っただけなのも、久しぶりだ。


 大体雑誌の取材をしたり、ファンクラブ限定の日記を考えたり……誰かが傷ついたり迷惑がかかる表現はないように何度も見直して、使ってる言葉に差別用語とかが無いよう何度も確認したり。お店のことを書くなら、そのお店の人や通っている人にデメリットが生まれないように。


 あとはちゃんとファンの人が楽しんでもらえるよう、お金を払って見ようとしてくれてるんだからと沢山書いて文字数がオーバーになってしまって、文字数を削る作業を一番していた。


 そこまで考えて、自分がまだアイドルであるかのような思考をしていたことに気付く。掌に爪を立てて、考えを改めた。


「……隣にある平屋は?」


「お父さんのお弟子さんが寝泊まりしてるんだ。俺も今入院しているお兄ちゃんもお寺継がないからさ、あそこで寝てる誰かが、このお寺継ぐんですよ」


 家がお寺で居住区が墓地に囲まれている。


 初めて彼と出会ったとき線香の匂いが強かったから、幽霊だと誤解したのか。これだけ墓が並んでいたら、嫌でも線香の香りなんてつくだろうに。


「お寺、継がないんだ」


「はい! 僕は一生をかけて、あかりちゃんを推していきますから! 住職もいいですけど、俺が心も身も捧げるのはあかりちゃんなので」


 宣言しながら拳を上へと突き上げる縁川天晴をちらりと見てから、私は一軒家を見据える。車に乗っていたときは見えなかったけれど、霧雨が降っていたらしい。石畳は微かに濡れ、一軒家の光を反射していた。


「推しが実家に来てくれるなんて感動ですよ。俺しか見えないの勿体ないっ!」


 ぴょんぴょん跳ねながら、海外のアニメ映画みたいな動きで彼は引き戸を開く。ガラガラと音を立てて現れたのは、時代劇で武将とかが暮らしているような玄関だった。


 靴箱の上には木彫りの置物があった。仏像だろうけど、詳しくないからどういうものかは分からない。


 確か、色々厄除けとか、それぞれ意味があるらしいけど……。


「聖観音って言います。かんのんって響き、いいですよね。かのんって感じで、2ndシングルを思って僕は拝んでますよ」


 ニタァ……と音が出てきそうな言葉に、罰当たりという言葉が思い浮かぶ。


「僕の部屋はこっちですよ。あっ手洗わないと、手洗いうがいっ!」


 一方、縁川天晴は浮かれた様子で廊下を進もうとし、すぐに立ち止まってこちらに振り向いた。


「うがいの音、推しに聞かれたくないので! ここでお待ちください」


 では! なんて走り去っていく背中を見送る。


 奥に人がいるらしく、ただいまと縁川天晴えんがわあまはるが挨拶する声とおかえりと少し年上の女性とおばあさんくらいの声もした。


 彼のお母さんとお婆さんだろう。廊下に突っ立ってるのも気後れするけど、どうせ透ける。障害物にはならない。かといって真ん中に陣取るのも嫌で、そっと隅に寄る。


 廊下の途中、障子戸で隔てられているらしい部屋は居間になっているらしく、テレビがついていた。食卓の上は夕食の準備がしてあり、落ち着いた色味の野菜料理が並んでいる。


 ここで食事をとっているのだろう。ご飯はまだ並んでいないけど、食器を見るに入院しているらしいお兄さんを除けば、彼と、お父さん、お母さん、おばあちゃんと人数ぴったりだ。


『先月末に死刑執行となった遠岸楽死刑囚の件を受け、国選弁護士の制度の見直しについて、国会で議論が行われました』


 つけっぱなしになっているテレビでは、私が見た時と同じように、最年少の死刑囚について報道されていた。


 さっとニュースで見ただけだと、高校を卒業した人が、自分の友達のお父さんと、その取引先の従業員をお金目当てで殺したというものらしい。


 高校の同級生で仲のいい友達の家族を殺したこと、お金目当てだったこと、そして犯人のお父さんが強盗事件で捕まっていたことから、かなり報道されている。血は争えないとか、トレンドでかなり見た。


 小学校の頃、私にも友達が確かにいた。でも、芸能界に入って疎遠になってしまった。私は毎日学校に通ってるわけじゃない。「あかりちゃんが休みの時、グループ組む授業のときとか、つらい」と他の子に相談しているのを聞いてからは、二人組の友達にはならないよう意識するようになった


 私は毎回授業を受けるわけじゃない。でもグループを組むことは頻繁にある。修学旅行や行事ごとは、誰とグループが一緒なのかということに直結する。成績も関わる。学校生活のあらゆることで迷惑をかけてしまう。


 だから、特定の友達は絶対に作らない。芸能界で友達はいた。お互いドラマが初共演だった子や、年の近いお笑い芸人の先輩。でも、二人とも進路を考えたり、結婚を機に辞めてしまった。


 つらいことがあったらいつでも連絡してと言われたけど、迷惑をかけたくない。心配させたくないし。炎上してからは、なおさらだった。


「手洗ってきました! ぴかぴかですよ!」


 昔のことを思い出していると、縁川天晴がこちらに手をかざしながらやってくる。水滴でも飛ばしているのかと思えば、丁寧に水気を取ってから手を振っているらしい。


「じゃあこっちが俺の部屋です!」


 縁川天晴はぎしぎし足音を立てながら歩いていく。廊下の角を曲がれば中庭が出てきて、庭園を囲うような廊下を進んでいけば、突き当りにドアがあった。ずっと障子が並ぶ景色を見ていたからか、ドアノブがあるだけで違和感を覚えてしまう。


「部屋はいつも完璧にしてるんですよ! 推し部屋です! ど、どうぞ!」


 通されたのは、バラエティ番組で紹介されるようなヲタク部屋だった。壁一面に私のポスターやブロマイドが飾られている。本棚にはCDと、雑誌が所狭しと並べられていた。余ったスペースにはアクリルスタンドが並んでいる。たまに初回限定版、A版、B版が未開封の状態で並んでいた。


「もしかして、観賞用と聴く用で分けてる?」


「そのとーりです!あかりちゃんがどこにいても推しますけど、自担がグループに入ってたりすると、こういう時大変そうだなって思いますよ。観賞用といえど、推しがセンターにいないのは寂しいので」


 グループを組んでいるアイドルは人数が多い分、どうしても写真を撮るとき目立たない人間が出てくる。たいてい人気があったり事務所が一押しの子が正面……センターの位置で映るけれど、グループ内で人気がわりと同じだったり、全員をプッシュしてるグループは、この子がセンターのA版、あの子がセンターのB版という売り方もしている。


 でも、うちの事務所は、私がソロであることからも場所を変えずに表情やポージング、雰囲気だけ……Aはかわいい系で、Bは大人っぽいとかでバリエーションをつけたりして、とにかく枚数を買ってもらう戦略だ。


「でも、揃えるの大変じゃない? 同い年……くらいだよね?」


 縁川天晴は、だいたい私と同い年か、年下あたりだろう。そう思って言ったけれど、「一歳年上ですよ!」と、距離を縮めてきた。


「じゃあ、高校三年生? 受験じゃないの……?」


「まぁ。受験もありますけど、卒業できるかすら微妙で。だから心の隙間を推しに埋めてもらってて。それに、推しにお布施出来るのって超最高じゃないですか? 俺の何かが、推しに関わってると思うとそれだけで最高ですよ。新曲出るたびに、ヤッター! って思います」


 その笑顔に、きゅっと胸が切なくなった。


 私はソロだけど、同じ新曲でもプロモーションビデオのバージョン違いで売ったりとか、初回限定版では動画をつけたりと、とにかくいっぱい特典をつけることで売っていた。


 音楽性も大事だし、CDは音楽で勝負すべきだとは思うけど、発売した週のランキングに乗らないと次のCDが出せないし、売れないとライブ会場も借りれなくなる。


 儲かる儲からないじゃなく、皆の前に出る機会が消えるのだ。だけど、好きな曲じゃないのに無理やり買ってもらうわけにもいかないし、映画のブルーレイとか小説とかも同じようなシステムになっているらしいから、皆同じように戦っていると言われればそれまでだ。


 いいお知らせはしたいけど、負担に思ってしまう人もいるかもしれない。沢山買ってもらえるのは嬉しいけど、大丈夫かなと不安になる。でも番宣はあるし、何人ものスタッフの人が関わって、CDは出来てる。宣伝はつきものだし、私が宣伝しなきゃいけない。


 だから私は、見えない人の頑張りを、時間を代表していた。なのに。


 一瞬にして、燃えて灰になった。


「あかりちゃん?」


「……ありがとう」


 第一声に迷った末に出てきたのは、この世界で何百回と繰り返されていそうな、月並みとしかいえない言葉だった。


「こんな、並べて。学校の人とかその、遊びに来るときとかどうしてるの?」


「普通に入れますよ! 友達がいたら!」


「いたらって?」


「ネットは他担の友達とか……いるんですけど、学校は……推し活で忙しくて、あんまり」


 卒業できるか不安というのは、学力の意味合いじゃなかったのか。だとすると、思い当たる理由は──、


「不登校……?」


「いくらあかりちゃんでも直球すぎますよ。傷つきます。たまに、たまには行きますよ。あ、明日とか行きますし」


 縁川天晴は心臓を押さえて、さすって見せる。不登校、言われてなるほどとも思ってしまった。彼は、なんというか浮世離れというか、制服を着て学校に通っているのがイメージしづらい。


 部屋に視線を向ければ、ブロマイドに重ならないよう、真新しい制服がクリーニング店のタグを付けられたままかけられている。


 おそらく新学期からそのまま学校に行ってないのだろう。


 男の挙動不審な態度は、ファンとしてだけじゃなく元々人付き合いが得意じゃないからなのかもしれない。


「知り合いで、このこと知ってる人はいるの」


「このこと?」


「貴方が私を推してるって、知ってる人」


「家族とかいろいろ……?」


 含みのある声に、不安を抱いた。


 今私を応援していて叩かれてる人も、もちろんいるだろう。その人たちに私はどうすることもできない。死ねていれば同情されて、なんとかなったはずだけど。


 でも。


「ひ、引きました?」


 沈黙が長すぎたせいで、彼は不安に思ったようだ。ちらちら私を見ている。


「なんていうか、すみません、普通のファンじゃなくて……」


「別に」


 特に、ファンの生活に引いたりとかはない。普通にごはん食べて、健康に生きてくれたら嬉しいと思う。あと飽きないでほしいとか。でも飽きさせないのはこちらの仕事だし──と思いつつ、私が今アイドルとしての目線でものを考えていることに気付いて、喉のあたりが苦しくなった。


「やっぱり引いてますよね!?」


「引いてないから。まぁ、学校に通ったほうがいいとは思うけど、私が言えた義理じゃないし」


 アイドルの中には、高校に通わず通信制の高校を受験したり、高卒認定試験を受ける子も多かった。


 仕事が忙しくて通えないという理由以外にも、通えたとしても休みがちになってクラスから浮いてしまうとか、早い話がいじめられるとか。芸能系の高校に行くのが一番だけど、どうしたって定員はある。中々ままならないようだった。


「あかりちゃんはあれですよね。高校すごく偏差値高いところですよね! 俺そこに編入したかったんですけど、頭悪くて駄目で……」


 私は、普通科の高校に入学していた。芸能系に行く手もあったけど、色んな経験をしてアイドル活動に役立てるべきだと前のマネージャーがずっと話をしていて、私もそう思って受験した。


 勉強と仕事の両立は大変だったし睡眠不足とかのレベルじゃなかったけど、歌詞を書いたり作曲するとき、普通の学校生活を観察できるのはありがたい。通えてよかったと思っている。友達は……うっすら、移動教室の時に話しかけてくれる子はいるし、仕事が忙しくなるにつれ芸能活動に無関係な知り合いはどんどん減っていったけど、普通の学校生活に身を置けるだけでも新鮮で楽しかった。


「でも、まさか兄のお見舞いに行ったら、あかりちゃんに会えるなんて」


 縁川天晴は私ではなく、壁に一面に並べた私に語り掛けた。コラボした栄養剤が飲まずに並べられ、CDはそれぞれ五枚ずつ本棚にしまわれている。


「これ全部バイト代で?」


「いえ、バイト禁止されてるんで」


 バイトが禁止の高校は珍しくない。お小遣いで買っているのだろうか。親がいるし、下のリビングの様子から見ても食事はきちんととっているだろうけど、不安にはなった。


 不登校だから、その分買い食いとか学校の後どこかへ出かけたりしない分、浮くものはあると思う。


 でもなんとなく、働いてもない、バイトも禁止となると──。


「お小遣いとかお年玉を、全部グッズ代にしたりしてない……?」


「もちろん! 全投入です! 俺あかりちゃんと会うまで欲しい物とか趣味とか全然なくて、全部貯金してたので!」


 そうガッツポーズをするパーカーの袖は、だぶだぶに伸びきってしまっている。私が陰気そうだと思っていた悉くが、推し活動の犠牲故だった。


 心苦しくなって、私は「少しは自分に使えば」と呟く。


「えっ……ああ確かに握手会とかライブの時は整えてますけど……生きてる分にはいいかなって……あっでも、今目の前にいるんですよね……き、緊張してきた」


 彼は私の言葉を別方向に受け止めたのか、顔を青ざめさせた。なんだか致命的に間違えられている。


「もうさ、これからは自分の為にお金使いなよ」


「そんなことありませんよ! これからも俺は推し続けますよ! 一生! 次のライブに向けてお金もまた貯めますし!」


 縁川天晴は、長い前髪をたらしながらも、屈託のない顔で言ってのけるせいで、どう返していいか分からない。


「あっ、寝るときはこのべ、ベッド使ってください! や、疚しい意味は当然ありません! 俺はえっと廊下とかで寝るので!」


 黙っていれば彼は効果音がつきそうな挙動でベッドをすすめてくる。私は首を横に振った。


「ある日突然自分の家族が廊下で寝たら怖いでしょ。普通にベッドで寝て。私は適当にしてるから」


「推しを適当に寝かせるなんて、お、ヲタク失格ですよぉ!」


 縁川天晴は泣きつくように首を横にふる。彼は果崎あかりが絶対なのだろう。


 果崎あかりに未来はない。この先なんてない。


 私を推してても、彼は傷つくだけなのに。


 延々と。



●●●



 毎朝、一杯の水を飲むことから始めていた。太らないよう体型維持の為に、食事はあまりしない。


 でも栄養が偏っても見目に響くから、サプリで補強しつつ野菜を食べる。


 好きか嫌いかで言えば、野菜は全般的に苦手だ。でも食べる。小さい子のファンもいた。私の真似をして食べないなんて言わないように、旅番組やCМが来ても大丈夫なように、苦手も嫌いも絶対表に出さない。


 筋力と体力がないと、完璧なライブは出来ないから、時間がある時は走っていた。


 家の周りを走ると家バレして近所の人に迷惑がかかるから、事務所と提携している会員制のジムへ行ったり、家の中でストレッチしたり。


 出演するバラエティ番組の資料を見たり、過去の放送分を見ることも欠かさない。他の出演者の人に迷惑をかけたりしないよう、出演する人たちのことはちゃんと調べる。


 ドラマの仕事がなくても、いつどんな仕事が来ても大丈夫なよう演技の練習だってするし、自分の関わるCDのパッケージのデザインのチェック連絡を返信したり、トークメッセージのやりとりで忙しい。


 朝はいつもばたばたしていて、忙しない。だからやっぱり、疲れてしまう時はある。


 そんな時にファンレターを読んだり、応援コメントを見ると元気になった。良かった、頑張ろう。応援してもらった分、恩返しが出来るように、皆に元気になってもらえるように、尽くそうと思う。


 コメントに返事をする時は、誰かを特別扱いしてるように見えないよう注意した。だって誰かを特別扱いしてると知ったらいい気はしないだろうし、それに「果崎あかりに特別扱いされている」とその人が標的になってしまう。何度も何度も見直してから、返事を送るようにしていた。


 炎上してから、朝のルーティーンはめちゃくちゃになった。


 家から出ることは許されず、本当にこの先必要になるのか分からないまま映画やドラマを見て、更新されるかも分からないブログを書いて、止まないダイレクトメールの罵詈雑言を眺める。


 自分のアイドルの終わりが、はっきり見えた。


 でも炎上の終わりは見えなくて、そのわりに走ることやストレッチの習慣は抜けなくて、きょう一日自分が何をしたか分からないまま、一睡も眠れず朝を迎える。


 気が付いたら寝ていて、気が付いたら起きている。その繰り返しだった。


 でも、縁川天晴えんがわあまはるの部屋では何もかもが出来ない。結局あれから、彼は私の為に布団を持ち出して敷き、そこで寝た。


 私はベッドで寝ることになったけれど、そもそも死に損なった私に睡眠が必要なのか分からず、適当に目を閉じていたら「推しの寝顔だァ」なんて声が聞こえてきて、気づけば朝になっていた。


 それから朝ご飯を食べるため一階に降りた縁川天晴を見送り、窓の外を眺めていた。今日も変わらず世界は霧雨に包まれていて、泥混じりの雨の匂いがきつい。


「お待たせしましたぁ!」


 しばらくして戻ってきた彼は、昨日クローゼットのふちにかけられていた学ランに身を包んでいる。


「行くの、学校」


「はい!」


 彼は勉強机に並べていた教科書やノートをせっせとリュックに入れていた。ぼさぼさの髪で、スラックスをギリギリまで上に上げた格好をしている。


 私は学校に行く機会が少なかったけれど、それでも同い年のクラスメイトを見たことがないわけじゃない。男子たちは少なからずワックスで髪を整えていたし、仮に同じクラスに彼がいたら、浮いていたんじゃないかと思う。


 ただでさえ私を推しているのだ。


 いじめられないか、不安だ。


「私も行っていい?」


「え……」


 縁川天晴は、戸惑いを見せた。彼についてまだ全然知らないけれど、「推しが学校に!?」くらいは言いそうな気がする。


 拒否を示しているということは、なにかあるんだろう。


「学校、興味があって」


 正しくは、縁川天晴えんがわあまはるの生活に、だ。学校で嫌な目にあってないか気になる。そこだけ確認すれば、さっと立ち去る。彼は考え込んだ様子で、「でも、学校に行ってる間にここからいなくなっても嫌ですもんね」とぞっとする声色を発した。


「はい?」


「あかりちゃん、なんだかぱっと消えちゃいそうですもん。桜に攫われるタイプですよね。今この時間だって、奇跡みたいなものですし」


 縁川天晴は暗い顔で呟くと、うっそりと微笑みかけてきた。私は一抹の不安を抱えながら、学校へと向かったのだった。


●●●


 縁川天晴えんがわあまはるの通学路は、ほぼほぼ畑と獣道だった。彼はそれなりに顔が知られているようで、畑で作業をしているおじいさんやおばあさんに声をかけられ、照れながら会釈で返していた。


 この辺りは、自然豊かで田舎に近しい性質を持った土地なのだろう。


 前に地方ロケへと行ったけれど、そこと雰囲気が似ている気がする。小道にはさらさらと湧水が流れ、空も高い。まれに見る自販機は古びていて、瓶の飲み物が売られている。別に幼少期こういった場所に住んでいないのに、懐かしさを覚える。


 田畑を区切るよう伸びたアスファルトの道を歩きながら、私は縁川天晴へ振り向いた。


「このあたり、いいね」


「そうですか? 娯楽も少ないですし、食べ物は商店街にありますけど、ほかの買い物はみんな電車ですよ」


 縁川天晴の言う通り、確かに買い物は大変そうだなと思う。歩いている限りスーパーやコンビニも見ない。立ち並ぶ店の代わりに木々が茂り、蝉たちが大合唱をしている。


「どっか遊びに行ったりも出来ませんし、僕の救いは貴女です」


 真剣な声に、聞こえないふりをした。


 だって、果崎あかりに、彼は救えない。


「あれ、もしかしてあの建物が学校?」


 私は道の先に見えた、四階建ての建物を示した。彼は「はい!」と元気な返事をする。


「結構生徒数多いんですよね、いろいろ芸術科とか音楽科とか、進学科とかあって」


「貴方は何科なの?」


「僕は普通科ですよ。何のとりえもないので。本当は進学科入りたかったんですけど、普通科ですら結構ギリギリだったんですよね。だから進級も危ういくらいで」


 私は仕事で勉強の時間が取れていない。空き時間になんとか詰め込む形だから、人と比べて劣っている。でも、縁川天晴があまりにも偏差値が低いなら教えられることはあるんじゃないかと思った。


 悩んでいると、下駄箱に到着した。


 彼は自分の靴箱を探し、ひとつずつ名前を確認してようやく自分の靴箱を見つけた。


「覚えてないの?」


「まぁ。あはは」


 明らかに誤魔化しの笑みを浮かべてきて、つい怪訝な目を向けてしまう。


 これは新学期どころか、かなり学校に通っていないのではないか。


 ふつふつと嫌な予感がして、彼の様子を窺いながら廊下を歩いていると、後ろから「アッパレくんじゃん!」と絶叫が聞こえた。


 振り返れば、馬鹿にしたような笑みを浮かべた男子生徒三人が、こちらに向かってくるところだった。縁川天晴は、彼らから逃げるように足を早める。


「逃げんじゃねえよ」


 しかし男子生徒は走ってきて、縁川天晴の肩を掴んだ。


「全然学校来てねえじゃん。つうか聞いたんだけどお前小学校からずっとずる休み続けて恥ずかしくねえの? 何で今日は学校来たの?」


「相変わらずキモい前髪だな、俺たちが切ってやろうか」


 下卑た声を無視をして、縁川天晴は教室へと入った。けれど彼らも同じクラスなようで、 席に座った縁川天晴を囲み、げらげら笑い始める。


「なんで無視すんだよ、俺らのこと見えてねえの?」

「つうか行事全部蹴って打ち上げ前日に学校に来るとかキモいんだけど」

「おーい。聞こえてますかぁ?」


 教室にまばらに揃っているほかのクラスメイト達は、複雑そうな表情を浮かべていたり、止めに入ろうか迷っていたり、男子生徒たちと同じように笑っていたりと様々だ。


 止めたいのに、止められない。


 私の声は、男子生徒たちには届かない。


「あぁ、あれか、お前好きなアイドル死んで、ショックで声出せなくなったとか?」


 一人の声に、縁川天晴はぴくりと反応を示す。それまで無視を貫いていた彼が反応を示したことで、男子生徒たちは煌々と目を輝かせ、囃し立て始めた。


「つうかアレ? アッパレくんもしかして、アイドル自殺して失恋したから学校来たん?」


「あかりちゃんは死んでない!」


 縁川天晴は立ち上がり、男子生徒の一人を突き飛ばす。すると残り二人が顔を見合わせ、縁川天晴の胸ぐらをつかみ始めた。


「何だこいつ」


「もういいわ。ゴミ捨て場に放り込んでおこうぜ」


「女子トイレにでも閉じ込めておくか」


 縁川天晴はあっという間に抱えられ、教室から出されそうになる。縁川天晴は抵抗するけれど、男子二人の力にかなわない。


 助けないと。


 私のせいだ。


 なんとかしなきゃ。


 なのに男子生徒の腕に手を伸ばしてもすり抜ける。止められない。嫌だ。


 助けたいのに。


 そう思った瞬間、ガタッと音がした。視線を向ければ、私のそばにあった机が倒れていた。


 机の近くにいたのは、私しかいない──誰もいない場所で机がひとりでに倒れたことで、教室がしんと静まり返る。縁川天晴を抱えていた男子生徒も動きを止め、机に注目していた。


「今別に誰かぶつかってないよね?」


「音したんだけど、こわ」


「え、何? 坊主の呪い?」


 男子たちは冷やかしながらも、目の前の超常現象に恐怖を覚えていた。じりじりと縁川天晴の周りから離れていく。やがて教室は静まり返った。


「あかりちゃんの悪口、言ったら許さないから」


 いつの間にか抜け出していた縁川天晴は、胸元を抑えながら周りを睨み、座席に座る。


 結局そのまま、縁川天晴はその日誰とも話さず、学校で一日を過ごしたのだった。


●●●


「僕は月曜日も学校に行きますよ」


 学校にいる間ずっと押し黙っていた縁川天晴えんがわあまはるは、放課後、お寺の近くにきてからようやく声を発した。


「なんで……今まで行ってなかったんだよね……?」


「だって休んだら、僕があんな低俗な奴らに、貴方を軽んじる奴らに屈したみたいじゃないですか。それに……」


 彼は手のひらを握りしめながら前を見据える。並々ならぬ憎悪の声音に、息が詰まった。


「貴女を馬鹿にされた。僕のせいで」


 そんなことない。私のせいだ。学校で私を推してたら、間違いなくいじめにつながる。


 あれだけ私はネットで叩かれているのだ、「好きだった」というだけで酷いことを言われるのも、悲しいけど当然だ。


 今こうしている間だって、縁川天晴だけじゃなく、ほかの人だって悪口を言われてるかもしれない。


「全部、私のせい……」


 縁川天晴はこれから、私が自殺したことを絡めていじめられる。


 現に彼の立場はいいものじゃない。私がきっかけで加速する。


 現にそれまで無反応だった彼が、私の話題を出した時反応したのを見て、彼らは喜んでいた。


 私が、責任を取らないと。私が何とかしないと。何か、この状況を変えるためのきっかけを──、


「……ねぇ、髪切ってみない?」


 今日ずっと沈黙を貫いていた縁川天晴を見ていたけれど、顔立ちはきれいだ。


 女子を味方につければ、少なくとも今の環境よりは良くなる。それに、彼をいじめていた男子生徒は三名ほど、他は無関心だった。縁川天晴が変わり、表立って味方をする人間が増えれば、彼を取り巻く環境はがらりと変わる可能性がある。


 アイドルにはなれないかもしれないけど、人は磨けば必ず光る。誰だって。


「俺、今そんなに駄目ですか」


 私を見て、自分の髪の毛が良くないと誤解した縁川天晴は、自分の髪の毛を両手で掴みながらこちらを見た。


 私は別に、ファンの人がどんな髪型であろうと不快と思わない。駄目なのは彼自身じゃない。私を推して美容室代を節約したり、私を推していじめられる状況だ。


「駄目じゃないけど、あいつらに無理やり切られるくらいなら、自分の意思でちゃんとしたプロに切ってもらったほうがいいよ」


「それは、貴女のお願いですか」


「まぁ」


 問いかけに含みを感じながらも、私は頷いた。


「なら、明日ちょうどお休みですし、髪の毛は明日中に何とかします!」


 縁川天晴は高らかに宣言する。


「推しのお願いですしね!」


「……ん」


 私のことなんて、さっさと忘れればいいのに。


 別の人を応援したり、別のことに目を向けてほしい。


 もう、推された分返すことはできない。私を推しても、デメリットしかない。


 これからどうしようかと思っていたけど、なんとなく目指す方向みたいなものが決まった。


 アイドルは辞めるとき、卒業すると言う。でもファンは違う。他界するというらしい。


 死に損なった私が他界させるなんて変だけど、でも炎上の末に灰になった、偶像ですらないのだ、私を推していても、不幸を招くだけ。


 この出会いに意味があるのなら、きっと私の役目は縁川天晴が、私を推すのを辞めさせることだ。



 学校から帰ったあと、縁川天晴えんがわあまはるはパソコンであれこれ髪型を検索していた。特に悪くもなさそうな検索に安堵した翌朝、その凶行は実行された。


「何で自分で髪を切ろうとしていらっしゃる……?」 


 私はビニールシートをかぶり、鏡を机の上にセッティングする縁川天晴に声をかける。床には新聞紙が敷かれ、セルフカットの準備としか言えない様子だった。


「え……だって髪切るのお金かかるじゃないですか。CDもう一枚買える……」


「いやもうその長さはセルフケア出来るレベルじゃないって。美容院に行こう。プロになんとかしてもらおう。っていうか、お母さんとかお父さんは何も言わないの?」


「美容院代別に出すから美容院に行けって、他人事みたいに言いますよ」


 困った様子で、縁川天晴は目を細めた。困っているのは彼の両親だ。


「心配されてるよ。他人事じゃないじゃん」


「父と母は知らないんですよ。美容院が恐ろしいところだと……」


 縁川天晴の髪型は、伸びっぱなしだった。もはやおかっぱに近い。今まで美容室へ行って怖い目にでもあったかと問えば、彼は複雑そうに呟いた。


「初めてですよ。近所の床屋さんが潰れて、散髪の場所は奪われました。美容院なんかに行けば、きったねえ田舎もんが来たなぁってぼったくられるにきまってます」


 酷すぎる偏見にびっくりして言葉が出ない。


 しかも完全に被害妄想だ。きったねえの部分に力が籠っているあたり、あたかも被害を受けたように聞こえたけど、ぼったくられだ。まだ被害にあってない。


「僕なんか裏でせせら笑われるんですよ。陽キャが陽キャの剪定する場なんですよ。あそこは」


「完全な偏見だから。髪切るのが仕事だし普通に考えてお客さん笑わないでしょ」


「迷惑になりませんかね。営業妨害! って、鋏持って追いかけられたらどうしよう。相手刃物持ちですよ、勝てませんよ」


「そんな事件、ニュースで見たことある?」


「ないですけど……えぇ……どうしようかな……推しのお願いでも……だってカット代貢いだほうがあかりちゃんの為になるし」


 縁川天晴は自分の髪の毛をひっぱりながらぶつぶつ言っている。絶対切ったほうがいい。


「美容室で髪切りな。切ったほうがいいよ。そのほうが私は嬉しいよ。私もついていくから」


「ハイっ」


 お願いすれば、さっきまでの嫌がりが嘘のように、彼はセルフカットのフィールドを撤去し始めた。先ほどまでの抵抗は一体何だったのか。彼はてきぱきと新聞紙を畳み、鋏を片付けて財布をポケットにしまい始める。


「その切り替えの早さはなに……?」


「推しのお願いならばヲタクはなんでも叶えて見せますよ。推しは絶対ですから。昨日も言ったでしょう? 一生を推しに捧げて、ヲタクは死んでいくんです」


 推しは絶対。


 妄信的な応援に、申し訳ない気持ちになる。全力で応援してもらっても、もう一生その気持ちに応えることなんて出来ないのに。


 推し、変えてくれないかな。


 どこかほかのアイドルに。


 今まで応援してくれたファンが、別のアイドルを応援する。推し変と言われるそれは、名称がつくくらいポピュラーなことなんだと思う。


 寂しいし、パフォーマンスが足りなかったのかと反省もする。強制できないし、応援はあくまで好意であって自由であるべきだけど……やっぱり悲しいものだった。


 でも今は、推しを変えてほしい。それか私を推すのを辞めて、髪も服も整えて自分を犠牲にするのはやめてほしい。


「推しと美容院行けるなんて、チェキ何枚……いやCD何枚分だろう」


 うっとりした眼差しに、私は視線を逸らす。


「CD換算しようとしないで。ほら、準備が終わったら外出て」


「ハイッ……なんか、ライブのレスみたいですね」


 ライブの、コールアンドレスポンス。観客席の皆に向かってマイクを向ける。返事をしてもらえるか、最初はいつも不安だった。いつの日か、きっと返してくれるに変わって、絶対返してもらえると思うようになった。


 ライブはいつだって後悔無いよう、全力を出してる。全力を出しすぎて最終日に声が出ないなんてことが無いように、喉を鍛えて普段は喉を傷めないよう加湿器をつけたり、冷房をつけたまま寝なかったり。多少寝苦しくても、じめじめしても我慢。


 気を遣っていつだって張り詰めた気持ちでいたけど、ファンレターを読んだりライブをして、自分たちを応援してくれているファンの皆だけを前にしているときは唯一自由でいられた。


 今が一番輝いていると、心から思った。


「はやく、行くよ」


 私は、縁川天晴えんがわあまはるの腕をつかむ。もう何も掴めないけど、不思議と掴める腕は、少し汗ばんでいて熱っぽい。人間の体温ってこんな感じなんだと、気づかせてくれる。握手会が大好きだった。自分を応援してくれるファンの皆の声を生で聞けることは嬉しい。人気が出るにつれて、防犯上を理由に機会が少なくなってしまった。


「ひええ。あかりちゃんが腕を……」


 一昨日は強引に腕を引っ張ってきたのに。


 戸惑いを見せる縁川天晴の腕を引きながら、私は外へと出たのだった。



●●●



 休みの日に街を出歩くことは、デビューしたての頃も今もあまりなかった。


 ライブやその準備は、歌や踊りの練習のほかに衣装合わせや全体での打ち合わせもあるし、雑誌のインタビューに写真撮影、ブロマイドや缶バッジの撮影、ライブに関係ない、普段から行うダンスレッスンやボイストレーニング、喉や腰を傷めないようメンテナンスもしていたし、空いた時間があれば演技の練習をしていた。


 後学のため先輩のライブやほかのアーティストのライブに行ったりDVDを見たり、時間が空いたとしても家で過ごすことが多かった。芸能人の趣味がゲームだったり、恋人が共演者になりがちなのは、そもそもあまりにも時間がないからというのもあると思う。


「いやぁ推しと街中を歩く日が来るなんて……夢のようです。どうしよう、記者とかいませんかね。隠れないと」


「多分その前に警察に捕まる可能性が高いと思う」


 お店の看板に隠れようとする不審な縁川天晴を止めながら、ゆっくりと歩いていく。縁川天晴は、外に出ても普通に私と話をしようとする。だからなるべく裏通りを歩くことにした。 


 ただ、休日ということもあってか、フラペチーノやスイーツを食べ歩きしてるグループや、手をつなぐカップルと、人通りがないわけじゃない。


 だというのに彼は平然と私に話しかけてくるし、奇行も目立つ。


「髪を切るって、どうすればいいんですかね。個人的に坊主ヘアは似合わないと思うので避けたいんですけど。いるんですようちのお寺に。すごい似合う美坊主が。真似してると思われそうで……」


「坊主にしてくださいって言わない限り美容師さんもそこまで切らないから」


「だってオシャレな美容師さんって普段何してるとかどこ住んでるとか聞いてくるんですよね? 寺生まれって知られたら、えーそうなんですかー? バリバリバリバリ〜ってされそうで怖くて」


 縁川天晴は、わざわざ身振り手振りを交えて美容室への恐怖をあらわにしている。


「でも、どこまで切ればいいんでしょう。お任せにして坊主になったら泣いちゃいますよ」


「ならないよ」


 美容室からどうしてすぐ坊主が連想されるんだろう。多分五分刈りとか言い出さない限り、バリカンすら出されれないと思う。


「私が言おうか。注文。それをそのまま真似して復唱すれば、坊主にはならないはずだから」


 思わず提案すると、彼は大きく目を見開いた。


「え! いいんですか?」


「うん。なんていうか、その方がいいんじゃないかって……」


「ぜひ! ぜひともお願いします! うわぁ、推しに推し色に染められるぅ……」


「意味が分からない」


「ペンライトもこの心も勿論あかりちゃんのカラーですけど、身も推し色に染められるんですよ! 最高じゃないですか!」


 縁川天晴は先ほどまでの美容室行きたくないオーラが嘘だったかのように、浮き足立った足取りで進んでいく。


「やめな。通報されるよ」


「俺は貴女しか見えてないのでおっけーです! って言いたいところですけど……俺のせいであかりちゃんが悪く言われるのは避けたいですからね……自粛します」


 そう言われ、胸のあたりに痛みが走った。


「あかりちゃん?」


「なんでもない。美容室ここでしょ? 入ろ」


 私は美容室のドアを開くように促す。彼は緊張した面持ちで扉を開いた。その背中を見て、形容しがたい感情に襲われる。


 果崎あかりを推す。今の時世にその選択をすることは、リスクが付き纏う。なのに縁川天晴はどこまでも私にアイドルとしてのこれからがある前提でものを話すし行動するから、苦しい。


 だってその期待に応えることなんて、一生できないのだから。



●●●




 美容室で縁川天晴えんがわあまはるの髪を注文した私は、その場を離れることにした。隣にいても良かったけれど、彼は髪を切ってる最中、こちらに話しかけてくる可能性が高い。


 初めての美容室で緊張しているだろうけれど、だからこそより最悪の状況を生み出すのは避けたかった。


果崎はてさきあかりってさぁ」


 突然名前を口にされたことでドキッとする。振り返ると大学生っぽいグループがスマホを片手に話をしているところだった。


「お前好きって言ってたよな」


「匂わせするほうもするほうだけどさ、リークするとか萎えた。無理だわ」


「あ、確かにコメ欄も似たようなこと言ってるわ。好きだったけど心がクズなんてモニョる……だって。なにモニョるって。検索しよ」


 二人はスマホを片手に、私について話をしている。私に気付いたわけではなく、あくまで記事を見ているようだった。


「でもリークしてディスられて炎上ってすげえな。ソッコー天罰下ってんじゃん」


「結構世界ってちゃんと出来てるんだな?」


 彼らにとっては、他愛もない話をするのと同じだ。私がそばにいるから話をしているわけではないし、そこまで悪意もない。ただ感想を言ってるだけ。


 なのに息が詰まりそうになる。


「くだらない。バカみたい!」


 そっと今いる場所から離れようとしたとき、快活な声とともにバン! と鈍い音が響いた。私と大学生たちのグループの間には、真っ白なレトロワンピースを着ている女性が立っていて、どうやら女性が大学生の一人を突き飛ばしたようだった。


「コソコソ悪口言って、なんなの? 気持ち悪いんだけど!」


 女性は学生たちを睨む。学生たちはお互い顔を見合わせ、走り出していった。


 呆気にとられていると、女性はこちらを振り返り、ぱっと微笑む。


「大丈夫だった?」

「はい……あ、ありがとうございます」

「あはは。見ていたら、何かとても貴女が悲しそうな顔をしていたから、飛び出してきちゃった」


 柔らかく目じりを下げる女性は、作り物みたいに美しい顔立ちで、つい見入ってしまう。どことなく浮世離れした雰囲気を纏う彼女は、「誰かと待ち合わせ?」と、無邪気に訊ねてきた。


「いえ……私は、えっと、今知り合いがそこの美容室で髪を切っていて、それを待っていて……」


 この人は、私が見えている。


 縁川天晴も私がはじめ生きているか死んでいるか分かっていなかったし、そもそもアイドルの私を知らないようだ。


 縁川天晴は、なるべく私にテレビを見せないようにしていた。報道はされているだろうけど……。


「なら、少しそこのベンチで座っていましょう? 美容室の前で待ちぼうけなんてつまらないし、ああいう奴らがまた来るかもしれないし、なにより一人で待っているのは寂しいでしょう?」


 軽やかな提案に、躊躇いを覚えた。


 私と話をしていれば、彼女は一人で話をしている人だと思われてしまう。悩んでいると、「ほら」と彼女は手を引っ張っていく。


「今日はこんなに天気がいいのだから、木陰にいなきゃ駄目よ。熱中症で死んでしまうわ」


 彼女は私をそばのベンチに座らせ、自分も隣に座った。彼女は、「んー!」と伸びをする。純白のワンピースから伸びるほっそりとした白い足を見ていると、今にも太陽に焼かれてしまいそうで不安になった。


「学生?」


「えっと」


 真っ白な肌を見つめすぎたせいで反応が遅れてしまった。彼女は「学校に行けていないの?」と不安そうに眉を下げる。


「いえ、えっと、高校生です」


「そうなの? なら同じね」


 彼女のあっけらかんとした答えに、目を見開いた。


 てっきり、大学生くらいだと思っていた。彼女があまりに大人びた雰囲気を持っていたから、誤解をしてしまった。


「夏休み、どこかへ行った?」


 夏休みは、ずっと仕事をしていた。でも、流石に言いづらい。私は「宿題が大変で」と言葉を濁した。


「宿題! なんだか毎年増えてくる気がするのよねえ! 小学校のころ朝顔の観察も途中途中で抜けがあったりして……」


「懐かしいですね……読書感想文も、大変でした」


「読書感想文、私とても苦手なのよね……満足いくものが書けたって思えたこと、一度もないわ」


 彼女は、顔を歪める。読書感想文は、難しい。小学校のころから、夏休みの宿題の中で一番苦手だった。


「私ね、先生に読書感想文が苦手だって言ったときに、もらった言葉があるの。どういうところが良くて、何を感じているか、誰かが私の感想を読んでその本を手に取ってみたくなる感想文を書いてみてって」


 誰かがその本を手に取ってみたくなる。


 そういう風に書いていけばいいのか。納得していると彼女は顔を暗くした。


「でも、私はその話を聞いて余計書けなくなったわ」


「えぇ……」


「だって、どきどきして好きとか、悲しい場面でガーンってなったとか、漫画みたいな表現で感想文を書いたら駄目でしょう? 語彙が少ないのよね。私。だから辞書を引いたりして書いてみると、これは果たし状? それとも脅迫状なの? ってくらい、支離滅裂な文章になっているの。まるで錯乱した恋文よ」


「恋文……」


 彼女は、「恋文って書いたこと、ある?」と問いかけてきた。


「一度もないです」


 手紙を書く機会は、ファンレターを返信するときだけだ。SNSにいいねを押してくれる人は何万といても、ファンレターを送ってくれる人はすごく少なくて、とても貴重な存在だった。


 だからそんな想いにこたえたくて全部手書きで返事をしていた。傷つく表現がないか、読み辛くないか一回鉛筆で下書きをして、ボールペンで清書する。大変だけど、レターセットを選ぶのも楽しかった。


「ええ、好きな人はいないの?」


「いません」


「そうなの……」


 悲しそうな眼差しに、私は戸惑った。アイドルという職業をしていた以上、ある程度厳しい言葉をかけられるのも、恋をしないのも日常だ。


 でも今の彼女は、私を男子たちにからかわれ、恋をしない一般人だと考えている。寂しさの究極体だととらえているのかもしれない。


「自由恋愛の時代ではあるし、恋をしないのも自由だけど、した方がいいわよ。とても素敵だから。苦しみも倍だけどね」


 私の話を聞かれるより、話題を彼女に移したほうがいいだろう。「好きな人がいるんですか?」と問いかければ、彼女は頬を染めながらはにかんだ。


「ええ。私より年上の人よ。先生なの。恋文を何通も書くんだけどね、全然上手くいかない。好きって伝えたいのに、言葉がぐちゃぐちゃになって難しい」


「言葉が、ぐちゃぐちゃ……」


「もし先生が嫌いだったら、楽なのになって思う時もあるわ。恋文って気持ちを伝えるもののはずなのに、その手紙を通してもっと好きになってもらいたいなって、喜んでもらいたいって期待するでしょう? 死んでしまいそうになるくらい好きだから、もう、何枚のレターセットが犠牲になったか分からないわ」


 儚げな声色や印象とは裏腹に、どうやら苛烈な恋心を持っているらしい。それも相手は年上で、先生。学校の先生と生徒の恋愛は厳しいだろうし、思いつめることもあるかもしれない。


「恋をすると、価値観がおしゃかになるのよ。先生にって買った可愛いレターセットは書き損じてぐちゃぐちゃに出来るのに、先生から貰った花丸の答案は額に入れてるの。捨てられないの。先生の花丸は四角くてね、かくかくしてるから余計特別に感じてしまって」


 捨てられない、花丸の答案。


 そんな風に誰か一人を想う恋は、どんな感じがするのだろう。


 アイドルは恋をしない。するのはファンの皆だけ。遠い世界のことだと思っていたし、それでいいと思っている。


 でも死に損なってから、恋について話をするなんて。


「あ」


 じっと美容室を見詰めていると、浮かれた様子の縁川天晴が出てきた。満面の笑みを浮かべ、見送りをする美容師さんと握手を交わし何度もお礼を言う。


「あかりちゃん!?」


 私の名前を絶叫した。このままでは、縁川天晴は完全に不審者になる。私は慌てて彼のもとへ向かおうとして、女性へ振り返った。


「すみません。あの、呼ばれてて」


「もう行ってしまうの? せっかく会えたのに勿体ないわ。もう少し二人でお話ししましょうよ」


「ごめんなさい。良ければまた」


 またなんてきっとないはずなのに、つい「また」なんて口にしてしまった。けれど彼女は嬉しそうに「じゃあ、またね」と、微笑む。


「ではすみません。今日はありがとうございました」


 お礼を言って、私は縁川天晴のもとへ向かっていく。彼は私を見つけて「あかりちゃん!」とまた絶叫した。


「探しましたよどこ行ってたんですか!」


「ちょっとそこで女の人と話をしてて」


「女のひと? いませんけど……もう行っちゃったんですかね」


 縁川天晴は、きょろきょろあたりを見回す。振り返ると、さっきまでいたはずの女性の姿が見えなくなっていた。立ち去るには早いような気がして、私も首をかしげる。 


「どこ行ったんだろう……」


「それより見てくださいよこれ! マッシュニュアンスパァーマァー!」


 縁川天晴はビブラートを利かせ、自分の左右の毛束を掴みながら奇妙なリズムで身体を左右に揺らした。私はあわてて彼を路地へと引っ張る。そして彼の黒髪から覗くその色に戦慄した。


 黒一色だった髪は、その内側をサファイアブルーとアメジストブルーのグラデーションで染め上げられていた。


「あかりちゃんインナーカラー! です!」


「何でまた……」


 あまりの状況に、次の言葉が発せなかった。縁川天晴は喜びを隠さぬ瞳で、自分の毛を撫でている。


「髪全部やっちゃおうかなと思ったんですけど、父にぶっ殺されるどころか裏の井戸に沈められると思うんで……えへへ」


 せめて自分を整えてもらおうと、推し活から離れてもらおうと思っていたのに。


 より意思を強固なものにしてくるとは予想できていなかった。


 ただ、私を推すことをやめてくれたらと思っていたのに。これでは意味がない。


 視界に映る鮮やかな色に、どんどん私の心は重くなる。


「あれ? なんか今あっぱれくんの声がしたんだけど」


 まるで学校に向かった時を再現するかのように、背後から声がかかった。


 振り返ればこの間の男子生徒と、女子生徒たちが立っている。思えば「行事全部蹴って打ち上げ前日に学校に来るとかキモ」と言っていたから、なにかの打ち上げかもしれない。どうやらカラオケ店へ入るところだったようで、中途半端に店の入り口に立ちながらこちらを見ていた。


「もしかして、あっぱれくんじゃない?」


 口々にクラスメイト達は縁川天晴に注目していく。その目に嘲りや、軽蔑、無関心は一切含まれていなかった。純粋で強い羨望の眼差しだけを、縁川天晴は集めていた。


「かっこよくない?」


「え、アイドルみたい。嘘でしょ? どうしよう」


「全然違うじゃん。なに……?」


 女子生徒は、頬を染め近づくか躊躇っている。男子生徒たちは、ただただ茫然としていた。まるで本当にアイドルが立っているかのように、縁川天晴を見て、いい意味での近づきがたさを感じていた。何人か勇気がある子たちがそろそろ近づいてきているところが、よりそれらしさが出ている。


「えーかっこいい……月曜日楽しみすぎる」


 そんな好意を隠さぬ声が口々に発せられ、縁川天晴をいじめていた生徒は顔を見合わせ、居づらそうにうつむく。こんなに評価が簡単に覆るほど、縁川天晴のクラスの大半は、彼に悪い印象を持っていたわけじゃなかったのだ。


「えっと、僕は重大な用事があるので、これで」


 だというのに、縁川天晴はさっとその場を後にしてしまう。もう少しクラスの人たちの前にいて、目を惹きつけたほうがいいだろうに。


「待ってよ。いいの? クラスの子かっこいいって言っていたけど……昨日変なこと言ってきたりとかしなかった、普通のひとも……」


「はい。どうでもいいです! それよりこれであかりちゃんのことを悪く言う人間を黙らせることができて幸せです! 美容室も怖いところだと決めつけてましたけど、いいもんですね。今度は夢の推しカラーコーデも揃えちゃいましょうかねぇ!」


 まるで、クラスの人間なんてどうでもいいような声色だった。


 私にしか興味がない。


 はっきりとそう言われているみたいだ。


「あかりちゃん?」


 顔を覗き込まれ、私は思わずのけぞった。


「よ、洋服いつから買ってないの」


 私は取り繕うように訊く。彼は唸りながら考え込み、私を横目に見た。


「服代は全部推し活に投資して……えっと……雑誌とかグッズへ」


 グッズはライブに合わせてだったり、シーズンに合わせて販売することが多いけど、雑誌は毎月だ。


「じゃあ、今月以外ぜんぶってこと……?」


「もちろんです!」


 私が炎上したのが新刊の発売の少し後だったこともあり、代打が立てられ今月私が掲載される雑誌はゼロになった。


 売れないものを発売するよりも、ギリギリのスケジュールを切り詰めてでも、代打を用意するほうが傷が浅くて済む。雑誌に関わった人たちは、過酷なスケジュールを強いられるだろう。


 死ぬ前は思い浮かべることのなかった人たちの顔が浮かぶと同時に、どこまでも私を推すだけの生き方をしている縁川天晴に、どうしようもない気持ちになった。


「今日みたいに、私が選んでもいいし、ちゃんと外に出る服も買って」


「ぜひ! よろしくお願いします! 約束ですよ」


 フゥ! なんて声を上げて、彼はスキップで進んでいこうとする。


 かと思えば立ち止まり、こちらへ振り返った。靡いた黒髪の隙間から、かつて自分がメイン衣装として来ていた青と紫のグラデーションが見えて、胸が詰まる。


「今日、 最後にあかりちゃんと行きたいところあるんですけど、いいですか」


「別にいいけど……」


「やったあ! 絶対行きたかったんです!」


 絶対行きたいというわりに、行き先を明かそうとしないところに疑念が湧く。でもどうせ死んでいるのだ。危ないこともないかと、私は軽く承諾した。




 アイドルとしてステージに立っている時は、無敵だと思っていた。だってファンのみんながいる。ライブをするために尽力してくれたスタッフの人たちがいる。


 そんな人たちの期待を背負ってステージに立てるのだ、怖いものなんて何もない。


 けれど、ステージを降りたら違う。


 何もかもが怖い。期待を裏切ることも、自分の行動が誰かの人生に影響する可能性もすべて怖かった。


 そして今、自分の命を手放して、ある程度の行動に躊躇いは消えた。だから行き先を告げない縁川天晴に対して、特に詮索をすることもなかった。


「推しと推しのCDが売られているショップに行けるなんて夢のようです! 俺神にでもなったんですかね」


 私は、CDショップに入った瞬間後悔した。


 縁川天晴えんがわあまはるに、私を推すのをやめてもらいたい。ほかにもこの世界には、彼のように私を推す稀有な人がいる可能性は否定できない。


 けれどこうして出会ったのだから、せめて彼には私を卒業してもらいたい。なのに。


「ほらここデビューから最新曲まで全部揃ってるんですよ。もうそれだけで大好きになっちゃって……僕とあかりちゃんの聖地に任命してるんです」


「そう」


「俺、 あかりちゃんのこと応援してくれる人、皆好きです。バイトオッケーだったら絶対この店でバイトするのに……」


 そう言って縁川天晴は、私のデビューシングルが並ぶ棚で嬉しそうに視聴機をいじり始める。


「それ持ってるんじゃないの」


「はい。今日ほかにお客さんいるなら、布教阻害にならないようじっと見つめるに留めるんですけど、せっかくなので」


 縁川天晴は、視聴機の隣にあるヘッドホンを手に取った。スピーカー部分が回転するもので、わざわざ私にも聴かせてくる。


「推しの隣で推しの曲聴けるの、マジでヤバくないですか? ゲロ吐きそう」


 握手会のとき、目の前で吐かれたことはある。


 長きにわたる待機により気分が悪くなった人と、嬉しさや感動の反応がすべて内臓にいってしまった人、二人だ。どちらもすぐ介抱して医務室に誘導したけど、ここは普通のCDショップで医務室はない。トイレに行ってほしい。


「店汚さないで。営業妨害だから」


「やばい!」


 縁川天晴は声を荒げる。限界かと身構えれば、彼は口元を抑えた。


「推しの前で吐しゃ物とか言っちゃった! ごめんなさい忘れてください!」


「忘れるからおとなしくして。もうこの店出よう。吐かずとも営業妨害になってるから」


 私は縁川天晴の腕を引っ張った。私は、彼になら触れることが出来る。でも不思議とその服に触れることはできない。だから自然に肌が露出してる部分──手首をつかんだ。


「あっおてて……」


 手首を掴むと彼は急激に大人しくなった。初めからどこか掴んでおけば良かったと後悔しつつ、私は出口へ向かって歩いていく。


 今は夏だから縁川天晴は半袖で、特に掴む場所に困らない。でも冬で彼が長袖だったらどうだろう。指とか手を掴むことになるのだろうか。


 思えば誰かの手を自分から掴むなんて、身内以外なかった。ぼんやりもう片方の自分の手のひらを見つめていれば、縁川天晴は不自然に立ち止まり、つないだ手が離れた。


 彼は、じっと一か所を見つめている。そこには心霊特集とうたわれ、ホラー系の映画が所狭しと並んでいた。


「俺、幽霊は信じてないんですよね」


 縁川天晴は、静かに映画のパッケージを見据えている。


「隣に浮遊霊みたいなのいるけど」


「貴女は、ただ幽体離脱してるだけです。魂の休暇かなにかなんですよ。いずれ元に戻ります」


「意味が分からない」


「分かりますよきっと。貴女はこれからも、人を笑顔にし続けます。こういう人を怯えさせる存在にはなりません。俺が死んだら、たぶん大怨霊になりますけど。気に入らない奴ら、皆殺しにしちゃいます」


 縁川天晴は、今度は私の手を掴んですたすた歩いていく。人は未練があると幽霊になると言うけれど、私は一体どんな状態なんだろう。ホラーに出てくる幽霊は、惨い死に方をして誰かを道連れにしようとしたりするけど、私は別に誰かを道連れにしたいなんて思ってなかった。


 ただただ、この世界から消えたいだけだ。


 だというのに、私は今この世界で彷徨ってしまっている。死に損ない、ここから離れた病院では身体に管を通して、延命している。


「いつかあかりちゃんは、俺のことなんて忘れて武道館に立ちます」


 そうして向けられた意思のある瞳は、わずかに寂しげだった。絵空事を語っているというのにやけに根拠を持っているように感じて、私は返事ができなかった。



●●●



 夕焼けを背に、帰り道を歩いていく。縁川天晴の家の周りは、都内にあるのが疑わしいほど、自然に恵まれている。最寄駅を降りた時点で、わずかに空気が澄んで涼しく感じられた。


「山の向こうには海があるんですよ」


 ほとんど車の通らない大通りを歩きながら、縁川天晴は、赤い夕陽に照らされ黒い影を残す木々を指す。


 鴉たちがオレンジ色の光に吸い寄せられるように飛ぶ光景を見るのなんて、いつぶりだろう。送電線が続く空を横目にあたりを眺めていれば、ふいに白い人影を見つけた。


「あれ……」


「どうしましたか?」


 立ち止まると、縁川天晴がすぐ声をかけてくる。一瞬だったけれど、反対側の道路、電柱の向こうに昼に会った女の人がいた気がした。


「今、知り合いがいた気がして……」


「エッご挨拶しなきゃ!」


「でも、気のせいかもしれない。本当に一瞬、ぱって消えるみたいに見えたから」


 本当に、ぱっと花火みたいな散り方で消えた。普通、そんなふうに人は消えない。


 どこか引っかかるものを感じながら歩いていると、すぐに縁川天晴の家に辿り着いた。けれど表には車が停まっていて、通りづらい。彼はじっと見た後私に振り返った。


「無縁仏の納骨だと思います。裏から入りましょう」


「無縁仏?」


「ええ。引き取り手のない人のことです。この辺りには刑務所があって、そこの受刑者の人で遺骨の引き取り手がない場合は、うちに納骨するんですよ」


 淡々と話す縁川天晴の隣を歩きながら、裏手から彼の家へ向かっていく。赤い空はなんとも禍々しく、まるで異界の様相を醸し出していた。


「死刑になった方が近々納骨予定だと父が言っていました。ニュースでよく取り上げられていた方で、変な人を見つけたらすぐ言うようにと」


 死刑になった人。私は縁川天晴の家で見た、憎悪の瞳を思い出す。あの人も、私も、死んだら火葬され、骨になってどこかに埋まるのだろう。


 この世への、未練は──、


「見つけた」


 冷ややかで無邪気な声に振り返る。


 裏手に広がる空地の向こうに、真っ白なワンピースを着た女性が立っていた。揺れる黒髪に浮世離れした雰囲気を持つ彼女は、遠目からでも昼間会った彼女だとわかった。


 女性と私たちの間には車道がある。だというのに、女性は左右の確認もせずふらふらとこちらへ歩き出した。このままだと轢かれてしまう。制止しようと声をかけようとすれば、真横からワゴンが飛び出してきて、女性をすり抜け走り去っていった。


「車が……すり抜けたんですか、いま」


「違う。あのひと死んでるんだ。私と、同じ」


 私は慌てて縁川天晴の腕を掴んで、引き返そうとする。なのに女性は倍の速さでこちらに近づいてきた。


「ねぇ、私、寂しいの。でも今日の、お昼は寂しくなかったの。ねぇ、一緒にいましょう? まだ貴女はこちら側じゃないみたいだけど、一緒にいたらきっと楽しいわ。ねぇ」


 女性はふらふら、ふらふらと足を引きずりながら近づいてくる。縁川天晴は私を庇うように前に出た。


「もしかして除霊とかする気?」


「出来るわけないでしょう。寺生まれがみんな除霊できると思ったら大間違いですよ」


「じゃあなんで前に出てきたの」


「貴女を守るためです」


 縁川天晴はきっぱり言うけれど、死に損ないの私を守ろうとするなんて間違っている。なんとか彼を引っ張り逃げようとするけど、彼は微動だにしない。


「寂しい。一人で、ずっと一人で寂しい。誰かに見てもらいたい。相手にしてもらいたい。つまらない。たすけて」


 女性は両手を前に出し、すがるようにこちらへ向かってきている。私は縁川天晴を引っ張った。


「ねぇ逃げてよ。なんか憑りつかれたりとかされるんじゃないの、こっちはもう死んでるし」


「何を言ってるんですか。あかりちゃんは生きてますし、それに僕は十六という短い生涯で貴女を守れるなら本望です。誇りです」


 そんなの全然誇っていいことじゃない。そんなこと望んでほしくない。


 もういっそ私が女性に飛び込めばいいのか。さっきの口ぶりからして、狙いは私だ。


 私は思い切って、女性へ向かって飛び込もうとする。けれど私の背後から、私より速く女性へ向かっていった人影が見えた。


「どけよ悪霊、ガキに群がってねえで寝てろっ!」


 ばしゃん! と凄まじい音がして、真っ白な粉が右方向から女性にかけられる。


 キラキラと光を纏って輝くそれは──塩だ。女性は人魚の泡のようにさっと消え、見えなくなる。塩を飛ばした人影をよく見れば、灰色の作業着を着た、二十歳くらいの黒髪の青年が不機嫌そうに立っていた。さらさらした短めの髪から覗く険しい瞳やその姿に、私は茫然と立ち尽くす。隣にいた縁川天晴も同じだ。


「何見てんだよてめえ」


 女性に塩を飛ばした青年──遠岸とおぎしがくは、こちらを睨みながら近づいてきた。しかしその剣幕も一瞬のことで、彼は私の目の前に立ち止まり、つま先から頭の先までじっくり観察した後、首を傾げた。


「……もしかして、俺のことも見えてる?」


「はい……」


 私はおそるおそる返事をした。相手は死刑囚、さらに犯行は猟奇的で短絡的、きわめて犯罪的な思想が強いと報道されていた、遠岸楽だ。


「そっちの男も」


 遠岸楽は、今度は縁川天晴に問いかける。


「見えてますよ」


 縁川天晴は、先程の女性への警戒から打って変わって淡々と返事をする。先程まで緊張した様子で私の腕を掴んでいた手も、いつの間にか離れていた。


「なら、俺がここにいるとか言いふらしたら、もう二度と外歩けねえようにしてやるからな。余計な事しなきゃ、手は出さない。覚えとけよ」


 遠岸楽は私に忠告すると、女性が消えていった方角へ歩いていく。何がなんだかわからないまま、私たちは家へと戻ったのだった。



●●●



 死に損なった為か、まだ私の器官が生きているからか、嗅覚はあった。


 出汁や焼けた香りのする食卓を横目に、私は机を囲む家族へ目を向ける。縁川天晴えんがわあまはるの家に帰ってきた私は、見えるところにいてほしいと頼まれ、夕食の席に同伴することになった。


 今まで夕食時は縁川天晴の部屋にいたけど、女性や遠岸楽の存在が不安らしい。特に不安なこともないけれど、言うことを聞いてくれないなら死ぬと言われ、一階に降りている。


 そして縁川天晴は怒鳴られるなんて言っていたけれど、彼のイメージチェンジを彼の家族は受け入れた。


「お父さん、手が空いてるなら麦茶ついでおいて! 白いふたのポットのほう! 赤いポットにめんつゆがあるから! よろしくね!」


「どこ行くんだ?」


「電球切れちゃったって、おじいちゃん今トイレで真っ暗なのよ! 大変!」


 そう言って縁川天晴のお母さんはトイレットペーパーを持ち、廊下を抜けていく。縁川天晴のお父さんは法衣を身にまとったまま、グラスに注いでいる途中だった赤いふたのクールポットの取っ手をつかんだ。


 グラスは家族でお揃いらしい。めんつゆは自家製らしく、見え辛いけれど『昆布、しいたけだけ!』と、油性ペンで書かれている。ただ、縁川天晴のお父さんは眉間にしわを寄せた。


「つけ皿大きいな……小さめの深皿は、割れてたか。めんつゆどっちのポットだ……?」


 事故が起きそうになっている。私は机のほうで箸置きを並べる縁川天晴に声をかけた。


「水色のグラスが麦茶で、透明なのがめんつゆってお父さんに言って」


「え? どうしてですか」


 縁川天晴は、お父さんとお母さんのやり取りを聞いていなかったらしい。私が急かすと、彼は慌てて息を吸い込んだ。


「水色のグラスが麦茶で、透明なのがめんつゆだって!」


 彼が声を上げると、彼のお父さんの体がびくりとはねた。お父さんは「危ないところだった」と息を吐く。


 私も胸を撫で下ろして、きちんとめんつゆ、麦茶が混ざらずグラスに注がれていくのを見届けた。


 机の真ん中には、すり硝子の深い大皿が二つ並んでいた。水がはられた中に素麺が氷を纏うように盛り付けられ、青モミジが浮かんでいる。


「実はお父さんとは、週に一回しか一緒にご飯食べられないんです。いつもはお父さん、お寺のお弟子さんたちとご飯食べてて」


 そうめんの周りに所狭しと並ぶ料理を指しながら、縁川天晴は声を潜める。


 竹かごに山盛りにされた人参、茄子などの野菜の天ぷら。山菜の煮びたしに、胡瓜や大根の漬物。がんもどきに、胡麻豆腐。豆の煮しめに、味噌の焼きおにぎり。葡萄やりんごに西瓜と鮮やかな果物が並ぶ食卓。週に一度家族が全員そろうからという想いも込められているのだろう。


「精進料理って確か魚とか肉は無いって」


「はい。まぁ、俺は寿司とかも好きですけどね。揃えましたし」


 私は前に、お寿司チェーン店の一日店長を勤めたことがあった。その一環で、特定のセットを頼むと私の缶バッジが特典としてついた。そのことを言ってるのだろう。


「お刺身とか普通にあったけど……」 


「はい。父は俺が色んな栄養を取ることを望んでるんで」


 お寺の息子なのに、それでいいのだろうか。縁川天晴を見れば、「それより」と彼は話を変えてくる。


「本当にいらないんですか夕食、美味しいですよ?」


「お供えにしかならないから」


「でも栄養取らないと……」


「なんか言ったか?」


 やはり、一人で壁に向かって話をするにも限度がある。お父さんは、ひとりでに話す息子に声をかけた。


「何でもない」


「そうか……? 一人で話をしたり、突然髪を染めたり……何かあるなら言いなさい?」


「本当に大丈夫。一人で話なんてしてないし。お父さんの気のせいだよ。お父さんこそ大丈夫? さっきめんつゆと麦茶間違えたり……」


 縁川天晴は、心配した声音でごまかすから、彼のお父さんは自分の幻聴を疑ったらしい。思いつめた表情で自分の耳に触れている。


「やめなよ。お父さん悩んでるじゃん」


 注意をしてから、後悔が湧き出す。


 立ち入ってしまった。髪を切るのも、洋服についても、口を出した理由がある。でも今の言葉は反射によるものだ。不快にさせたかと縁川天晴の顔色を窺えば、たいして気に留めない様子で笑みを浮かべていた。


「そういえば父さん、今日遺骨の受け入れしてたよね」


「納骨な」


「それってさ、この間までテレビに出てた事件の人の分もある?」


「強盗殺人のか」


 強盗殺人事件。


 二十一才の青年が、自分の勤める工場の社長と、その取引先の従業員三名を刺殺し、お金を持って立ち去った事件だ。


 特に工場の社長の遺体の損傷が激しく、強い怨恨を感じるものだったらしい。


 死刑囚は工場の社長から息子同然に可愛がられており、逮捕後も世間から激しいバッシングを受けていた。


「ああ。どうしてだ」


 すっと厳しい表情になるお父さんに、縁川天晴はとぼけた調子で返事をする。


「なんていうか、わりとテレビに出てたから、気になって」


 遠岸楽とおぎしがく死刑囚は、数ある強盗殺人の中でも、際立って狂暴だった。裁判所で暴れ、裁判が始まって早々弁護士に「俺を無罪にしなかったら殺してやる」と叫び、裁判がいったん中断するほどだった。


 彼の裁判が行われるたびに、ネットのトレンドではもう死刑でいいとの言葉があがり、担当弁護士には同情の声が集まった。彼の弁護から外すべきだと、署名運動も行われた気がする。


「どんなにテレビに出ようと、悪いことをしていようと、ほかの人と変えることなく弔うのが仕事だ。お前も、覚えておきなさい」


「うん」


 波紋のように緩やかな沈黙が広がる。縁川天晴は、静かに自分のいつもの場所であろう座布団の上に座った。すぐに慌ただしい足音が響き、彼のお母さんが「大変! 回覧板出すの忘れてた!」と、バインダー片手に入ってくる。すると、神妙だったお父さんの顔がさっと青くなった。


「いつから家にあった? かなり前に来てなかったか」


「もう、起きたことは仕方ない! 今度から気を付けます! 食べてから持って行きましょ。ごはん冷めちゃう」


 縁川天晴のお母さんはバインダーを棚の上にバンッと置いて、食卓を囲んでいた座布団の上に座った。やがておじいさんやおばあさんがゆったりとした足取りで食卓につく。お父さんも、「仕方ないか」と座った。


 いただきます、と誰かの号令に合わせるように、家族で手を合わせて食事を始めている。からんと軽い氷の音が響いて、まるでドラマのようなシーンだと見つめてしまった。


 家族で色の違う箸置きを使って、みんなで同じ食事を囲む。


 確かに、私も同じような団らんの中にいたことがある。もう思い出せないくらい、小さい頃だ。


 当たり前だった日常が、ドラマのように──非日常に見えていた。不鮮明な衝撃に戸惑いながら、私はただじっと家族の光景を眺めていた。



●●●



「じゃあ、俺はお風呂に入ってくるので、居間にいてください! お墓とか絶対行っちゃだめですよ!」


「うん。あと美容師さんにも言われただろうけど、今日染めたんだからシャンプー気を付けてね」


 縁川天晴えんがわあまはるは、お風呂に入っている間私をそばに寄せ付けない。


 高らかな宣言に相槌を打ちながら、タオルや着替えをもってお風呂場を目指す彼の背中を見送り、私は縁側にぺたりと座った。


 遠くに、墓地が見える。


 手前には枯山水や鹿威しが並ぶ雰囲気ある庭園で、湿った土や、瑞々しい緑の香りがする。


 私はふらふらと、何をするでもなく縁側で足をぶらつかせる。後ろの居間では、おじいさんとおばあさんがぼんやりテレビを眺めていた。二人とも耳が遠いらしく、大きめの音量で相撲番付が流れている。


 窓枠のふちには風鈴が飾られているけれど、無風だから音はしない。そばには蚊取り線香がくゆり、ただただ灰色の煙が夜空へとのびている。


 のどかだ。信じられないくらい。


「おい」


 ぼんやりとしていれば、後ろからおどろおどろしい声がした。振り返れば、居間でテレビを眺める老夫婦の前に、遠岸楽とおぎしがくが立っていた。息をのむ私へと、彼は乱雑な足取りで近づいてくる。


「驚くな。じいさんとばあさんが気付くだろ。ちょっと面かせよ」


 居間にいれば、安全じゃなかったのか。


 私はおそるおそる立ち上がった。


「こっちに来い。じいさんとばあさんに気付かれなきゃ、それでいいから」


 遠岸楽はしきりにおじいさんとおばあさんを気にしながら、今いる縁側から地続きのまま、少しだけ身を隠すような位置で立ち止まる。


 どうやら私が幽霊状態であることに気付いてないみたいだ。女の人は私について、「もうすぐこちら側に来る」と言っていた。


 私の位置づけは、曖昧なのかもしれない。


「な、何ですか……」


 遠岸楽は、助けてくれた……と思う。


 ネットニュースならまだしも全国放映された彼の裁判のニュースは、彼を警戒するには十分すぎる内容だった。


 暴れだして、弁護士を脅迫する。


 法廷画家と呼ばれる人の絵を見たけれど、踊り狂っているとしか思えないほどだった。


 鬼気迫る表情に、皆彼が出所することになれば、また犯罪をやると確信する目を向けていた。


「おまえ、俺のニュース見てたよな」


「確かに、見てましたけど……」


「なんてやってた? 被害者の奴らで知ってることあるなら、全部教えろ」


 そんなの、ニュースで見ていた私より自分の方がよっぽど知っているんじゃないか。


 少なくとも被害者と遠岸楽は関わりあっていたはずでは。


 わざわざ殺した人間について無関係の他人に問う猟奇性に、自然と後ずさる。


 もう死に損なっている。死ぬことなんて怖くない。


 けれど質問の意図が読めず、不気味で離れたい気持ちになった。


「どうして……そんなこと……」


「あ?」


 じりじりと後ずさると、ふいに遠岸楽が眉間にしわを寄せた。彼の視線を追えば、廊下の途中の棚に、私がめりこむ形で後ずさっていた。


「お前、死んでんの? 完全に生きてるもんだと思ってたけど……なんなんだよお前……は?」


 遠岸楽は不思議そうにしている。やはり、私が生きているように見えていたらしい。


「違います。私は死んで──」


「死んでないですよ。あかりちゃんは素晴らしいアイドルですが訳あって意識不明になってます。握手券もチケットも無い一般人がそれ以上近づかないでください」


 しゅっと、お風呂上がりのが縁川天晴が私の前に立った。タオルを武器にしようと構えている。遠岸楽はさらに目を丸くした。


「アイドルだぁ? じゃあお前も芸能人かなんかか?」


「貴方が納骨されたこの寺の息子です。今は生きています」


 遠岸楽は、疑うように私と縁川天晴を交互に見た。そして縁川天晴に狙いを定める。何かする気じゃないかと思わず庇おうとすれば、遠岸楽は私の予想に反してただ仁王立ちしただけだった。


「寺の息子なら、骨になって何日で俺は地獄に行くのか教えろ」


「はい?」


 突拍子もない質問に、私も縁川天晴も目を丸くした。遠岸楽だけがまじめに、当然だと言わんばかりに視線を鋭くする。 


「お前寺の息子なんだろ。死人に詳しいだろ」


「死人に詳しいのは解剖医の管轄では」


「じゃあお前解剖医に幽霊見えるかって聞くのかよ、ちげえだろ。勿体ぶってねえでさっさと教えろ、殺すぞ」


 さあ言えと、答えを欲しているのは明らかだった。縁川天晴の顔を見れば、やや疲れ気味に考え込んでいる。


「ふつうは、四十九日といいますが……もうそれを終えて」


「じゃあ、こうしてここにいるのが地獄ってことかよ」


「それはまた違うと思います。ここは現世ですし。もし教えが本当なら貴方は賽の河原を通るはずです。通りましたか?」


「通ってねえ。首つって気付いたらここにいた。水ものは畑しか見てねえ」


「じゃあ違うんじゃないですかね」


 あっけらかんと縁川天晴は切り捨てる。


「じゃあどうしろっていうんだろ。言え」


 遠岸楽は凄む。助けてもらったとはいえ、危険な人間だとただ判断することと同じくらい、彼を安全な人間と判断するには早い。


 でも、こうして死後の世界を寺の息子だからと年下の縁川天晴に問いかけたり、自分の望む答えが得られず困惑する様子は、裁判記録の凶暴性や邪悪さからは離れている。


「どうもなにも、まだ僕は生きてるんでわかりません」


「ハァ? つうかさっきから感じ悪いなお前」  


「貴方がアイドルに近づく不審な男だからですよ。どんな人間であろうと仕事でもないのにあかりちゃんを無粋に呼び出す輩は許せません」


「ハァ?」


「ハァハァ何なんですか、凄めば望むものが手に入ると思ったら大間違いですよ」


 縁川天晴はきっぱりと言い切ってしまう。やがて遠岸楽はばつが悪そうに縁側の奥へすっと消えていった。


「追い返した……?」


「でも、また来そうですよ、彼。そんな感じがします」


 私は遠岸楽が消えていった廊下を見つめる。すぅっと吸い込まれそうな暗闇が広がる。


 地獄に落ちるのはいつか。


 被害者についてのニュース。


 遠岸楽はしきりに気にしていた。被害者についてなんて、こうして死ぬ前から調べることもできたはずなのに。


 それとも、死んでから償いたい気持ちが芽生えた……?


 どうして、被害者のことをを知りたいんだろう。


「盛り塩しておきましょうか! 盛り塩! あとお札!」


 考えていると、縁川天晴は台所から袋いっぱいの塩を持ってきた。お寺についても仏教についても詳しくないけど、たぶん違うと思う。


「食用でもいいの?」


「分かりません! でも同じ塩化ナトリウムですし! こういうのはすぐ対処したほうがいいですから」


「いや、多分アリ避けにしかならないと思う」


 私は遠岸楽の質問の意図が掴めないまま、ひとまず塩を撒き散らそうとする縁川天晴を止めに入ったのだった。





 お寺の朝は早い。


 縁川天晴の部屋に蹲るようにしてそっと夜が明けるのを待っていると、たいてい日が昇る前からお寺の方では弟子の人たちが起きだす。


 日が昇ってすぐ、毎日墓参りをしているらしいお年寄りの人たちがぽつぽつと墓地へ向かっていく。


 亡くなった人へおはようと声をかけ、そっと墓地を後にする人もいれば、今日することを報告する人もいる。


 ひしゃくで水をすくいながら、墓石を清掃し速やかに立ち去る人々を眺めていると、ふいに高い声が上がった。


「大変! お父さん、あっお弟子さんでもいっか、誰かー! ちょっと来てー!」


 私は声のした方へ駆け出す。音の響くことのない石畳を進んでいけば、縁川天晴のお母さんの姿があった。ちょうどお墓とお墓の通りをつなぐ砂利道に、おまんじゅうや線香、お花がぐちゃぐちゃにされてつぶれている。


 被害は通路だけで、まるで通路にお墓があって、荒らされた墓だけが逃げ出したかのような荒らされ具合だ。


 お弟子さんたちが お母さんの声でわらわらと集まって、黙々と清掃していく。やがてそのうちの一人が口を開いた。


「そういえば昨晩、なんとも不思議な人影を見ました」


 不審人物と捉えていい物言いに、お母さんは怯えた顔をする。


「えぇっ!? やあねえ、大きかった? 熊じゃない? 熊だったらどうしよう!」


 熊も怖いけど、人の方が確率的に高い気がする。


 お弟子さんは首を横に振った。


「いえ、小柄でした。熊ではないと思います。限りなく人でした」


「人ねぇ、人ならまだいいけれど……でも怖いわね、熊だったら」


 お母さんは、熊への警戒を緩める気配がない。


 やがてお弟子さんとお母さんは清掃を終え、居住区のほうへ戻っていった。私はきれいに整えられた砂利道を見つめる。


 このお寺には遠岸楽が納骨された。ネットで見る限り、バッシングは相当激しいものだった。もしかしたら、彼を狙ったものかもしれない。


 彼のお墓は、どこにあるのだろう。あたりを見回しても数十、数百とお墓が並んで、すぐにはわからない。私はこのことを縁川天晴に報告しようと決め、その場を後にした。



●●●



「えー! こわい! 絶対熊じゃないですか!? 完全に饅頭の匂い嗅ぎ付けて人間ごと食べて走ってどっか行ったんですよ! こわい! あかりちゃん絶対外出たらだめですよ!」


 私は部屋に戻って、さっそく起きたての縁川天晴に朝のことを報告した。染めたばかりのの髪は、薄いレースカーテンを通して差し込む朝日に反射してきらきら輝いている。


「熊……じゃないと思うんだよね。状況的に」


「どういうことですか?」


 縁川天晴は、朝に強いらしい。起きてすぐ目を爛々とさせ、パジャマ姿でベッドを整えている。


「嫌がらせの可能性も、あるんじゃないかって」


 私の想像に、ぴくりと彼が反応を示した。


「もしかして……あかりちゃんを現在独り占めしている俺に、嫌がらせを……」


「違う」


 まだ三日しか一緒にいないけれど、縁川家の血の濃さを強く感じている。なんていうか、もしもの予測が比較的突拍子もなくて、それはそれで害はあれど平和的に感じるところが。


「私とか、貴方じゃなくて。昨日の人への」


 墓を突き止めてまで、嫌がらせする人の気持ちはわからない。


 けれどあのネットのバッシングはひどいものだった。そして死んでなお嫌がらせをするのであれば、もはや終わりも救いもない。


 もしかしたら自分の墓も同じようにされて、死んでなお他人に迷惑をかけ続けるのかと思うと苦しい。


「……思ったんだけど、私お墓で見張って、調べてみようと思うんだよね、夜。暇だし」


 私には眠りが必要ないし、傷付けられる身体もない。失うものはもうない。暑さは感じるといえど部屋にいても外にいても、変わらない。


「駄目ですよ! 危ないですよ!」


 なのに、縁川天晴は真っ青な顔で首を横に振った。


「駄目です! 絶対駄目! 昨日怖い目にあったばかりですよ? あの白い服の女だっていつ襲い掛かってくるか分からないんです。あの女のせいかもしれないしやっぱり熊が──」


 縁川天晴は、私を止めるように腕を掴みながら、ハッとした顔をした。


「そういえば、あの人塩を掴めてましたよね……? それで僕らを助けた……」


「あ……」


 遠岸楽は、塩を掴めて投げることが出来た。


 つまり物理的な行動を起こせるということだ。


 昨日みたいに、何かと戦った形跡かもしれない。、


「僕、さっそくあいつのこと探してきます! あいつじゃなかったら熊かもしれないので! 猟師さん呼んでこなきゃですし!」


 縁川天晴は、パジャマ姿のまま部屋を飛び出していった。追いかけようとすれば、目の前にものすごい形相をした遠岸楽がいた。


 驚きのあまり、声が出ない。思わず尻餅をつけば、遠岸楽は一歩一歩じりじりと近づいてくる。


「……とか」


「え?」


 地を這うような声はかすれ気味で聞こえない。


 聞き返すと彼は咳ばらいをして、「寺が荒らされたって本当か?」と、私を睨み付けてくる。


「お、お饅頭とか花が通路でぐちゃぐちゃになってて……熊かもしれないけど……」


 遠岸楽の様子を見るに、彼がなにかと戦った形跡という線は消えた。だからこそ、本人に、墓荒らしの可能性があるとは言えない。ごまかすと彼は視線をそらした。


「間違いなく俺に向けてだろ」


 遠岸楽は舌打ちをして、頭をがりがりとかく。


「見張りは俺がするから」


 思ってもない言葉に、私は目を見開いた。


「な、なんで」


「悪くねえから」


 その声色は、心からの後悔を帯びているように聞こえた。


「俺は悪いけど、俺の骨を受け入れた寺は悪くねえ。馬鹿捕まえて殺す……っとその前に」


 どん、と足音でも響きそうなほど、力強く遠岸楽は私に向けて一歩踏み出す。


「俺の事件の被害者について、知ってること全部教えろ」


「……あの、よく知らないので、ネットで調べることをおすすめします」


 全部教えろというけれど、私はよく知らない。問われてもニュースで報じられた被害状況しか知らない。私は知り合いじゃないし、本人だってよくわかっているはずなのに。


「無理だった。スマホにもパソコンにも触れねえ」


「え……電子機器が駄目なんですか?」


 遠岸楽は、塩を掴めていた。物質の重さ的には比較にならないほど塩のほうが軽い。なのに触れないなんて。


「塩は、バケモンがいるって……何とかしねえとって、掴めた。他は全部無理。あいつのスマホのパスワードは見たし、こりゃいけるなと思ったけど、普通に透けた」


 知らない間に、そんなことを……。


「それより被害者について教えろよ」


 遠岸楽は、何度目か分からない質問をしてくる。


「知ってることも何も、ニュース以外の情報は知りません。本当……知らないんです」


「俺の担当弁護士は? 名前も顔も知らないか?」


「全然知らないです。もしかして、事件の記憶がないんですか……?」


 わざわざ自分の殺した被害者について問いかける姿勢に、ただただ猟奇性を感じていた。けれど自分の担当弁護士についてまで聞いてくるのは、もしかしたら記憶を失っているからじゃないだろうか。


「全部あるよ。お前ネット見ないほう?」


 なら何故わざわざ聞く……?


 戸惑いながらも、私は目先の質問に答えることにした。。


「仕事で使ってたので……話題のニュースもネットの情勢も、見るほうだと……」


 エゴサーチはなるべくするようにしていた。ファンの人の意見を取り入れて、次に生かしたかった。ほかにも最近話題になってることは調べたし、自分の発信することが今起きているなにかに接触してしまわないように、予防の意味も込めてネットを見ていた。


「でも隅々まで事件について調べたわけじゃなく、本当にさっと浅く……その、貴方が暴れた時は必ずニュースになってたので……」


「そっか。ならいーや」


 遠岸楽はそっぽを向いた。態度のわりに声色は満足そうで、疑問が浮かぶ。


 どうして、被害者や自分の担当弁護士がネットに出ていないかを気にするんだろう。どうしてそんなことを聞くのか。


 訊ねようとした私の気配を察知したのか、遠岸楽が振り返る。


「お前、なんで死んだんだよ」


「え」


「あいつ変なこと言ってただろ。まだ生きてるとか。どんな死に方すればそうなるわけ?」


「自殺」


 私の即答に、遠岸楽が戸惑ったり狼狽えることはなかった。「なんで」と、ただ短く返すだけだ。


「炎上した。これ以上燃えて、事務所の人やほかの人に迷惑かけられなかった」


「大変だなぁ芸能人も、てっきりニコニコ楽しくやってバカみたいに儲けられるもんだとばっかり思ってたわ」


 バカみたいに儲けられるは、否定する。でもニコニコ楽しくやっては、そう見られるようにこちらがしていることだ。ファンに心配させるなんてもってのほか。ファンに悲しい思いをさせるくらいなら、跡形もなく記憶から消えるほうがいい。 


「死刑みてえだな」


 遠岸楽は、どこまでも広がる入道雲を見つめている。 


「なぜ」


「死ななきゃ許されねえみたいな世界なんだろ? 人殺したわけでもねえのに」


 たしかに、そうかもしれない。でも、私は違う。


 もう、燃えた時点で私は死んだに等しい。


 自分が生きていたつもりになっていただけで。


「まぁ、いい選択なんじゃねえの?」


 遠岸楽は身体を伸ばし、あくび交じりに空を見上げる。


「そうかな」


「間に合ったわけだろ? 周りの奴らやほかのやつらに何かする前に、早くて何よりって感じだろ」


 間に合った。果たして間に合ったのだろうか。まだ身体は、あの病院にある。こういった墓所に埋葬されてるわけじゃない。


 遠岸楽は、「ほかの奴ら」と言う時、だれかを想像しているみたいだった。私はもう一度自分の中の記憶を探って、何か伝えられることはないか絞り出す。


「弁護士さん、同情されてましたよ」


「なんて」


 窺う視線に、一瞬、相手の機嫌を損ねたらどうしようかと不安になった。


「せっかくたくさん勉強して弁護士になれたのに、よりにもよって殺人鬼の弁護させられるなんて可哀想、とか」


 どうして、話そうと思ったかいまいちわからない。


 でもこの答えこそ、彼が求めているものに思えた。


「だろうなぁ。俺の担当になるやつがいないから、国であみだくじしたわけだし」


 遠岸楽は、口角を上げる。映画や小説で笑って人を殺す殺人鬼が出てくるけれど、そういった異端の笑みではない。マラソンでゴールした人が浮かべるみたいな笑顔で、どうしていいか分からなくなる。


「本当に……人、殺したんですか?」


 私はおそるおそる問いかけた。彼は、怯えた顔でこちらを見る。


「はぁ……?」


「私たちのことを……助けたり、お寺の見張りをしようとしたり……人を殺したようには思えないので」


 ニュースで見ていた彼の人物像と、今の遠岸楽はかけ離れている。記憶が失われ暴力や狂気の衝動がなりを潜めているなら、まだ理解できる。でも、そうじゃない。


「下らねえこと聞いてんじゃねえ、殺すぞ」


 柔らかだった声色が一瞬にして凍てついた。


 視線は鋭いものへと変わり、先ほどの質問が彼にとって何らかの作用があったのだと理解する。


「いいか、俺がお前たちのことを助けたのは、お前らに利用価値があったからだ。事件のことを聞くためにな。寺の見張りは、馬鹿痛めつけられる格好のチャンスだからだ。舐めた口聞いてたら幽霊だろうが容赦しねえぞ」


 遠岸楽は、そう言い残すと窓へ向かってふっと消えた。


 脅迫を受けた。


 でも、恐怖より違和感の方が勝っている。


 遠岸楽は一体、なんなのか。疑問が拭えないまま、私はハッとして縁川天晴の後を追ったのだった。



●●●



 遠岸楽の裁判が起きるたび、ネットでは「もう死刑でいい」という言葉がトレンドに上がった。彼は元々、強姦殺人を行い無期懲役が求刑され、死刑にならなかった被告の息子だった。家を出て仕事にもつけなかった彼を、被害者の工場社長が雇い、自分の息子のように可愛がった五年後に、惨劇は起きた。


 その凄惨な犯行や衝撃的な出自に対して逮捕時、朝の報道番組のコメンテーターの俳優が、「血は争えない」とコメントし、加害者家族の人権問題を指摘され、出演予定だったドラマを降板するなどその影響は芸能界にも及んだ。


 そんな遠岸楽は、裁判になっても世間を騒がせた。法廷で被害者への言葉を促され、出てきた言葉はほかならぬ侮辱だった。


 被害者の妻──工場長の妻に対しても、「どうでもいい」から始まりひどい言葉を浴びせかけ、挙句の果てに自分を弁護した女性に、「俺のこと無罪にしねえならぶっ殺す」と脅迫まで行った。


 そんな相手とはいえ、なんとなく今までの犯行と、これまでの行動が噛み合っていないように感じる。そう思いながら夜、縁川天晴が寝静まったあたりで墓場を見回りしていたものの、不審な人間も も見なかった。


 それから週が明け、私は縁川天晴と一緒に学校へ行った。彼の変貌にクラスの人間は完全に彼の見方を変えたようで、アドレスやSNSのIDを聞かれていたけど、本人は「スマホ持ってないんです。お寺の跡継ぎなので俗世のことはちょっと……」なんて大嘘をつき、笑いを取っていた。


「もうしばらく学校はいいです。疲れるので。引きこもりに週休二日制は無理があります」


 そうして訪れた放課後、憎々しい土砂降りの中で、縁川天晴はげっそりした様子でため息を吐く。


 心なしか顔色も悪い。


 よほど引きこもり生活が長かったのだろう。「みんなは五日間通ってるんだよ」なんて安直な言葉も、今の彼に発すれば殴りつけたも同義だ。


 私は「家帰ったら休みな」と彼に声をかけた。


「推しに心配されるの嬉しいですけど、ファン失格ですね……もう二度と学校行かない」


 そこは同意しかねる。とはいえ、縁川天晴がどれだけ引きこもり生活を続けているか知らないけれど、この体力のなさは異常だ。二日連続ならまだしも、昨日はずっと家にいた。今日は休みが必須だろうけど、果たしてこのままでいいのか不安を覚える。


「っていうか、私は濡れないから、いいよこっちにまで差さなくて」


 縁川天晴は、私にまで傘を差している。だからか肩が濡れていた。雨に降られる概念なんて、暫定幽霊にはないのに。


「推しとの貴重な相合傘ですよ」


 縁川天晴はただ真っすぐと私を見た。


「入っててください」


 諭すような声に、私は俯く。「行きましょう」とかけられた声があまりに優しい。


「知ったかぶりヲタクムーブをしちゃうんですけど、あかりちゃん、雨、嫌いでしょう」


「え……」


「雨の日のブログやツイッターは言葉が固いですし、そのわりに絵文字が多くなってましたし、雨の日だと、明るくなるから。素の貴女は──すごく静かで、落ち着いている人だってわかってから、確信しました」


 縁川天晴の推理に、私は思わず立ち止まった。地面にはぽつぽつと水紋が出来て、私たちの足元を濡らしていく。


 好き嫌いなんて、自分が伝えない限りは、知られないと思っていた。


 彼はゆっくり私を振り返る。私を傘に入れて、自分の肩を濡らしている。


 その瞳は、ただただ優しいものだった。



●●●



 私がリークしたとされる遥は、梅雨の、旅行ロケで初めて話をした。


 春夏秋冬、季節の折に放送される特別番組で「いつも忙しい芸能人に休暇を!」というコンセプトのもと温泉街など観光地をゆっくり歩いて、そこの名物を食べたりする。


 映画やドラマの撮影と異なり大規模に交通整理はしない。休暇の雰囲気を大切にする番組だった。


 街全体に撮影に協力してもらう分、宣伝にもなれればと思うし、「アイドルの自然体を!」と道中の発言も制約がないから不用意な発言で街全体のイメージを落とさないよう気を引き締めなきゃいけない。


 その特別番組の、さらに特別版。紫陽花の見える観光地で、憂鬱になりやすい梅雨こそ旅行へというコンセプトのもと、その撮影では私と、遥、そしてドラマの宣伝のためキャスティングされた後輩のアイドルの七星まつりと三人で出演することになり、私は進行役を担った。


 撮影自体は、なんの滞りもなく出来ていたと思う。


 でも、問題はその後だった。


 アイドル三人の中で、クイズを行い最下位だったらお土産や名物が食べられないという企画があり、番宣で来た後輩がたくさん映るため彼女の敗北はあらかじめ決まっていた。だからこそ休憩時、彼女だけお昼を食べることになった。


 撮影準備の待機も兼ねて私とも同行することになり、近くの和食屋さんに入ることになった。


 メニューを眺める七星まつりを見ながら、飲み物を選ぶ。年は二つしか変わらないといえど、七星まつりが私や遥に気を遣っているのは明白だった。


 私が飲み物を決めてしまったら、後輩を急かしてしまう。様子を伺っていれば、遥はすぐフルーツジュースにするとメニューを置いて、七星まつりが慌てて蕎麦にしますと続いた。


 遥とはその日初めて関わったとはいえ、事務所も同じだしある程度の人となりは知っていた。


 朝レッスン室にいると、大体どちらかが事務員さんから鍵をもらって部屋を開けていたし、先生に無理を言ってボイストレーニングを追加してもらうと、あっちもいた。


 彼女のマネージャーはやる気のある人で、よく彼女のことを売り込んでいた。


 私が注文をお願いして、この空気がカメラの向こうに伝わってしまわないよう考え、後輩である七星まつりのパフォーマンスが下がらないよう、なるべく口数を増やすことに努めた。七星まつりは、笑っていたと思う。遥も、距離はあれど後輩に酷い態度をとることはなくて、安心していれば料理が運ばれてきた。


「うち、撮影禁止だから。それと、食事するときはスマホしまいな」


 店主のおじさんは料理をテーブルに乗せると、厳しい顔つきで去っていった。もし現場から連絡が来てもいいよう、スマホは三人ともテーブルに出していて、ひとまずしまおうとすると遥が店主のおじさんのいなくなった方向をじっと見ていることに気付いた。


「あのおじさん、感じ悪くない? なんであんな最初からキレてんの?」


 遥は店主のおじさんの姿を探すように視線を動かした後、スマホをタップし始めた。


「嫌なそば屋って書こ」


「ど、どこに」


「ツイ」


 簡単な宣言に、心の奥がひやりと冷たくなった。遥のフォロワーは、96万人いた。そんな人が一斉に特定のお店のことを発信してしまったら、間違いなくお店に影響があるだろう。当時はそう思った。


「だって私たちは、こう……芸能界にいるわけだし、影響とかあるじゃん。こうやってお店のこと悪く書いて、お客さん来なくなったら、お店の人困るし」


「でも、うちらだってディスられることだっていっぱいあるし。お店やってんだからさ、仕方なくない? それに嘘書くのも違うじゃん」


 遥の目は、どこまでも真っすぐだった。嘘を書く。そんなつもりで言ってない。なにを言えば彼女を説得できるのか。言葉を選んでいるうちに、遥は出されたフルーツジュースを飲んで、机にがつんと置いた。


「っていうか、ちょっと入所先だからっていちいち言ってくるのウザいよ。二週間くらいしか変わらないじゃん。先輩面?」


 遥はお金を置いてお店を出た。七星まつりはおろおろしたまま私を見ていて、その場はそこで終わった。


 結論から言えば、遥はお店について書くことはしなかった。ただ、私への態度は決定的に変わった。仕事ではこれまで通りだったけど、レッスン室で一緒になると、露骨に避けられるようになった。


 でも止めなければあのお店に影響が出ていた。せっかく頑張ってお店を開いて、営業しているのを台無しにする拡散力──凶器を私たちは持っている。


 止めたことに後悔はしていない。ただ、もっと言い方があったと、今は思う。


 前はフォロワー数の多いことの影響力について思い悩んでいた。


 SNSのフォロワーの数が増えるたびに、何を呟いていいかわからなくなった。じわじわハードルが上がっていって、この表現は誰かを傷つけないか、こういう風に受け取られたらどうしようと悩んで、更新も減った。失敗するのが怖かった。間違えたくなかった。


 けれど、そもそもフォロワー数なんて関係ない。私はただ一人に言葉を伝える場で、失敗した。


 間違えたのだ。



●●●



「そんなことが……」


 雨宿りの出来る公園の東屋で、旅行ロケについて話をすると、縁川天晴は俯いた。


「旅行ロケで、私と遥に微妙な距離があったのは、そういう経緯があってのことなんだ。隣り合わないのは、もともと七星まつりを真ん中にする構図を求められてたのもあるけど……遥と話さないようにとか、そういうオーダーはされてない。あの切り抜きは私に原因がある」


 知ってほしいと思った。


 彼は私がリークしてないと心から信じているけれど、私は失敗をしているのだ。


 完璧な正解をすることができなかった。


 彼は私を肯定し続けていたけど、わたしにはその肯定を受ける資格がない。


「でも、あかりちゃんは悪くないですよ。実際そんな風に書かれたらお店なんてたまったもんじゃないですし……でも、それが原因……なんですかね」


「わからない。遥はもう一切関係なくて、本当に偶然、連続で炎上してるだけかもしれない」


「たしかに、あいつら、探偵ゲームしてるだけですもん。外れてもデメリットはないですからね。探偵とか警察なら、必ずデメリットが発生するのに、なにもない。ただ記事の感想書いてるだけだって建前もあるし」


 ぎりぎりと歯を食いしばりながら呪詛を吐く縁川天晴に、首を横に振る。そんな風に捉えてほしくない。私が悪いから、妄信をやめてほしい。


「……だから、私にも原因があるよ。あの動画は」


 もう少し、言い方があったはずだ。


 そんなことを書いたら、遥が危ないよとか。今後の仕事に響くかもしれないとか。もっと具体的に遥自身を思った言葉をかけるべきだった。あのとき私は、お店についてしか考えていなかった。


「ないですよ。あかりちゃんはストイックすぎて自分に原因がないか探るのが癖なだけです。僕は貴女のブログ2000記事を網羅し呟きはバックアップ保存、インタビューをすべて読み込み有料動画は約半分、無料動画はすべて20周はしています。絶対そうです」


 どん、と縁川天晴は自分の胸を叩く。叩きすぎたのか「いてて」と胸を押さえた。


「大丈夫?」


「大丈夫ですよ。それよりほら! 雨がやみましたよ!」


 明るい声色に、空を見上げる。確かに忌々しい雨は止んでいて、遠くの空は明るくなっている。


「そういえば、あかりちゃん夜中、ごそごそしてませんでしたか……?」


 雨上がりを感じさせる空とは対照的に、じろりと湿った視線を向けられ、私は「何も」と淡々と返した。


「本当に? お墓で見張りとか行ってませんか?」


「行ってないよ」


 本当は、行っている。


 でも通路が荒らされたあの日以降、なにか起きた様子は見られない。


 衝動的に嫌がらせをしてきたということなのか、烏か何かがお墓のお供えを食べ、放り落とした可能性も考えられる。


 でも、お饅頭もお花も手でわざわざ押し潰したような、すり潰したような跡があった。人影があったというお弟子さんの言葉からも、熊や猪、烏の可能性は低いと思う。


 となると、生きた人間か、そうじゃない人間だ。


 遠岸楽は塩に触れたとき、「バケモノがいるから何とかしなきゃ」という気持ちだったらしい。私が机を動かしたとき、縁川天晴を助けたいと思った。


 そして思い返せば、あの白いワンピースの女性も、出会った当初、私を助けてくれた。そして女性は大学生らしき男の人たちに向かって物を投げていた。


 もし「助ける」という意思によって、幽体が物へと干渉できるなら。


 考えていると、縁川天晴の足取りが止まっていることに気付いた。振り返れば彼は険しい顔つきで前を見据えている。視線を追うと、道の先に遠岸楽が立っていた。


「助けろ」


 遠岸楽はそう言って、鋭くこちらを睨み付けた。


「不審者が、毎日来てんだよ」


「え……でも、 も、 私が見張ってるときは見ませんでしたけど……一体どこに」


 私が思わず口にすると、後ろで縁川天晴が「やっぱり見張ってたんじゃないですか! 嘘つき!」と大声を出した。


 「ひどいひどい」とわめく縁川天晴を一瞥してから、遠岸楽は私の前に立つ。


「不審者、とにかく薄気味悪い動きすんだよ。裏門から入ろうとしたり、周りうろついて帰ったり。この二日は墓地には入ってねえけど寺の周りの木の陰とかにいて、坊主たちも警備してるから坊主の気配悟るとどっか消えるんだよ」


 声色には、もどかしさややるせなさが含まれていた。


「街灯もろくにねえせえで、顔が拝めねえ。この手は懐中電灯も掴めねえ。助けろ」


 そして遠岸楽は意を決した様子で、言葉を振り絞る。


「お前らの力が、いる」



●●●



「蝉うるせえな。夜だろ? なんでこんな煩いんだよ」


 遠岸楽と協力して不審者の正体を掴むことになった日の夜。


 遠岸楽、縁川天晴、私の三人はさっそく墓地に集まった。


 作戦は簡単だった。私と遠岸楽が二手に分かれ不審者を探し、縁川天春に伝え、電話でお弟子さんに連絡してもらうという算段だ。


 でも。


「つうか、三人一緒に歩くってなんだよ。舐めてんだろ。効率悪いだろうが」


 遠岸楽は不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。三人で墓地をパトロールすることを提案した縁川天晴は、ふんと鼻を鳴らした。


「夜に推しと男を二人きりにするヲタクなんてどこ探したっていませんよ。貴方には助けてもらった恩もありますが、僕がお風呂に入っている隙にあかりちゃんを暗がりに連れ込んで話しかけたという蛮行に関しては別問題です」


「意味わかんねえ気持ち悪いな」


「ヲタクが気持ち悪いなんて氷河期の発想ですよ」


「ヲタクじゃねえよ、お前が気持ち悪いんだよ」


 二人の問答を聞きながら、私は墓地を探りながら歩いていく。


 生きていたとき、なるべく周囲に気をつけて歩いていた。行き過ぎたファンの中には何としてでも自宅を突き止めようと、出待ちして私の乗るタクシーを追ったり、おおよそ検討をつけて家を総当たりで探す、なんて人もいた。


 人に住所がばれるということは、自分の住んでいる周りの人に迷惑をかけてしまうことになる。人が隠れる場所は、大体決まっている。自分の役にしか立たないと思っていたことが、役に立つことは、少しだけ気が晴れる。


 私はじっと墓地の陰ひとつひとつを見つめた。月明りはないけれど、生きている人間なら僅かに残像のようなシルエットは動くし、目をこらせば気付く。


「あ」


 やがて私は、少し先のほうで、じっとこちらの様子をうかがう人影を見つけた。


「いた」


 呟くと、さっと二人が問答を止めた。


「そのままにして、貴方は──、もう仕方ないから、一人でしゃべってる感じでいて」


 私はそっと人影へと向かっていく。「危ないですよ」と後ろから声がかかるけど、縁川天晴が一人で話をしているようにしか見えないらしい人影は、戸惑いがちに身を乗り出した。


 その瞬間、縁川天晴が持っていた懐中電灯をつけ、思い切り人影に向ける。


「きゃっ」


 人影は──墓地に身を潜めていた女性は、突然まばゆい光源をあてられたことでしりもちをついた。二十代後半くらいだろうか。フォーマルなスーツ姿で髪をひとつにまとめた女性は、仕事帰りに見えても、墓荒らしには到底見えなかった。


「え……」


 私は、彼女の胸元に光るバッジを見つけて、愕然とした。


 この女性は、本来不審者とは対局の位置にいる。


 副業は出来ないはずだから、記者でもない。好奇心で死刑囚の墓を荒らせば最後、その人は間違いなく職を失うだろう。


 だってこの人は──。


「この人、弁護士だ!」


「弁護士!?」


 私の声に、縁川天晴は驚きながらこちらに駆けてくる。そして、私たちに協力を申し出るほど犯人を探していた遠岸楽の反応がないことに気付いた。遠岸楽を探せば、彼は愕然としながら、立ち尽くしている。


「そいつ、不審者じゃない。絶対に」


 ただ弁護士さんを見つめていた遠岸楽は、そこでようやく声を発した。


「え……」


「俺の、弁護をしてたやつだ」


 今すぐ消えてしまいそうなほど儚い声を発した遠岸楽は、それきり何かを口にすることなく、ずっと弁護士さんを見つめていた。



●●●



 あれから、弁護士さんはお寺の中にある客間へと通された。


 催しの準備をするときに使っているらしいそこは、夏だというのにひんやりと冷えた空気が広がっていて、凛と冴えるような部屋だった。


 木板作りの床の中央で、縁川天晴のお父さんと向かい合って座る弁護士さんは、歩積ほづみさんというらしい。 おそるおそる縁川天晴が、おとといの朝の墓地について何か知っているとこはないか訊ねると、おまんじゅうや花を潰したことをあっさりと認めた。


「担当していた依頼主……国選なので依頼とは違うのですが……その、私が弁護を担当していた方の、お墓参りがしたかったので……」


「担当って、もしかして遠岸楽ですか?」


 自分の父の後ろに立つ縁川天晴が問いかけると、弁護士さんは小刻みに頷いた。墓の主である遠岸楽は、後ろのほうで歩積さんをじっと見つめている。


 かつて脅迫を行った相手への瞳は、憐憫や焦燥が複雑に絡み合い、憤りなんて入る隙間はないように感じた。


「声をかけられ気が動転して逃げてしまって……すみません。持ってきたお花やおまんじゅうが手元から消えていたことや、転んだ時に嫌な感触がしたことは分かっていたんです……」


 そう言って、彼女は通路を汚した理由を語りながら、居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。額からは汗がいくつも流れ落ち、顔色も悪い。


「じゃあ弁護士さんが自分の担当した人間のお墓参りを、こっそりしに来た理由ってなんですか……? 誰かに追われているってわけじゃないのに」


 縁川天晴が首をかしげる。私もそこは気になった。芸能人でも、警察に追われる犯罪者でもないのだ。隠れたり逃げたりする必要なんてどこにもない。


 すると歩積さんは、「これは、私の見間違いかもしれないんですけど……」と弱弱しく前置きをした。


「最後に、遠岸が死刑判決を受けたときの顔が、忘れられなくて」


 歩積さんは未だ、滝のような汗を流している。でもその声音はしっかりとしていて、ゆるぎない確信を帯びていた。


「笑ったんです。あの子。一瞬だけ優しく。まるで安心したみたいに。その後はすぐ、私や裁判官に罵声を浴びせて強制退出にはなったのですが……」


 判決を言い渡された後、遠岸楽は、弁護士の女性を侮辱した。「なんで俺が死刑なんだ」「お前が地獄に落ちろよ」と罵り、絶叫した。


 裁判官が死刑を伝えた後、言葉をかけようとしたものの、遠岸楽は退場の運びとなり、最終判決で被告人不在で閉廷する異例の事態となった。


「でも、彼が私を脅迫するのは、暴れるのは、決まって裁判の時だけだったんです」


 歩積さんはハンカチで汗を拭いながら、俯きがちだった顔を上げる。遠岸楽は、じっと彼女を見つめたまま、視線一つ動かさない。握りしめられた拳は、耐えるように震えている。


「雨の日だけ、彼は面会を受け入れてくれました。でも、何も話さないんです。ずっと黙ったまま」


 雨の日だけの面会。


 いったいどんな理由があるんだろう。遠岸楽は気分で動くと言ったけれど、とてもそんな風に思えなかった。何か理由があっての行動だ。それは歩積さんが一番感じているのだろう。彼女は悲痛そうに、今自分の後ろにいる遠岸楽と同じように。手のひらを握りしめた。


「私、公判が終わってもなお、事件について調べてるんです。でも何も出てこない。すべての証拠が彼を犯人だと示してる。裁判での言動も、全部、私は彼が怖かった。弁護士である以上依頼人を第一に、法の下守るべきです。私は困っている人を助けたくて弁護士になった。でも、彼の国選弁護士に選ばれたとき、どうして私があんな人の弁護をしなくちゃいけないの。こんなことのために弁護士になっちゃんじゃない。あんな人、裁判なんてせずとも死刑でいいって……」


 裁判なんていらない。


 お金の無駄だ。


 人を殺したんだから死刑でいいじゃないか。


 遠岸楽に関することで、何十回と目にした言葉だ。軽くタップしただけで、彼の死を望むコメントがあふれていた。


「でも、今ふと思うんです。本当に、彼の判決は正しかったのかと……すみません。こんなこと、話すべきじゃないのに」


 歩積さんは、こぼれる涙を汗と誤魔化すように拭って、また俯いた。


「どうしてそこまですんだよ……」


 やるせなさを滲ませ、遠岸楽が呟く。その声は、私と縁川天晴にしか聞こえていない。しんとした静寂があたりを包む。みんな、何も言わない。ただただ黙っている。


 幽体ではなく私がこの場にきちんといたとして。どんな言葉を彼女にかけるのだろうと想像した。


 でも、何も言葉が浮かばない。今と同じだ。部屋の中は静かで、微かに聞こえる木々の音だけが、今、決して時間は止まっていないのだと教えてくれる。


「僕は」


 しかし、静寂を断ち切るように縁川天晴が口を開いた。彼は立ち上がると、そっと歩積さんの前に座りなおす。


「何も知らないですけど、担当してくれた弁護士の方がそんな風に考えてくれて、ありがたいなって思っていると思いますよ。遠岸楽は」


「え……」


「僕は彼についてよく知りませんけど、もし幽霊として逢ったなら、貴方を見て複雑そうに顔を歪めて、どうして俺のためにそこまでするんだよって、言っていると思います」


 その言葉は、まぎれもなくさっき遠岸楽が言ったものだった。歩積さんはハッと目を見開いた後、はらはらと散りゆく花びらのような涙を流す。すると、ぶっきらぼうな声が室内に響いた。


「適当なこと言ってんじゃねえぞ」


 その悪態は彼女に届かない。


 やがて遠岸楽は大きくため息を吐いて、居間から出て行った。



●●●



「俺の知り合いが悪かったな」


 すべてを話した歩積さんが寺を後にしてから遠岸楽の姿を探すと、彼は自分の墓の前にいた。大理石のプレートに名前が彫られた小ぶりの墓石と相対する彼は、視線をこちらに向けない。私と縁川天晴は、彼を挟むように隣に立っていた。


「まぁ、いいですよ。あかりちゃんが危険な目に遭いませんでしたし、怨霊もどきから助けてもらった恩もありますから。あかりちゃんを暗がりに連れ込んだのは許してませんけど」


 縁川天晴は得意げに鼻をならした。この状況でもそんな受け答えができるなんてどうかしている。


 しかし、遠岸楽は軽く相槌をうってから、呟いた。


「俺は、恩返し出来なかった」


 遠岸楽はいつも、鋭い視線で私たちを威嚇していた。


 でも今の遠岸楽に、そんな雰囲気はない。こちらを睨む一方で、神経を尖らせていたのだろう。そしてその理由は、おそらく……。


「工場長……じいちゃん、世話になったのに」


 ずっと誰かを庇って、守ろうとしていたからだ。


「俺の父親が事件起こしたのは、俺が小2の頃だった。その時は親父のしたことよくわからなかったからさ、家に訳わかんねえ張り紙がされんのも、悪いやつやっつけてやるって出会い頭に殴られたりするのも、全部貧乏なのがいけないって思ってた」


 彼は、地面を睨む。


 芸能人で調子にのっているからというだけで、その実家に嫌がらせをしていた人がいた。


 そんな些細な理由ですら、度を越したことを行う人がいる。


 その理由が、悪い人間を退治することに変われば、きっともっと、酷いことが出来る。


「でも、歳食うにつれて分かるじゃん。あいつが何やったかって。でもそれでも生きていかなきゃって仕事探しても、普通に切られてさ。そんな俺を助けてくれたのが、工場長とおばさんだった。俺のこと雇ってくれて、飯まで食わせてくれて、絶対恩返ししなきゃって思ってたんだ」


「じゃあ、やっぱり、貴方は……」


 人を殺してない。


 直接的否定されずとも、痛いほどわかる。


 だって、殺意が感じられない。


「優しすぎたのかな。おじさん。人を疑うこと知らなくてさ、やばい取引先と契約しちゃって、工場明け渡す、それが嫌なら女の社員売り飛ばすみたいなふうに脅されて、相手、刺したんだよ……いや、人殺す相手が優しいとか、ないかもだけど、俺にとっては、神様みたいな人だった」


「遠岸さん……」


「おじさん男殺したあと自殺しちゃってて、遺書とか置いてあるの。おばさん宛に。それでさ……家族でも何でもない俺にも、頑張って、こんなことになってごめんって謝ってんの。謝る必要なんてないのに。俺さぁ、俺に、俺に言ってくれたら、俺がさ、おじさんの代わり、どんな仕事でもやった。どっか国出て、出稼ぎでもなんでもしたのに。おじさん、おじさんそんなこと一言も俺に言わなかったんだよな。俺まだ何にも、恩返しできてないのに。なにひとつ、なにひとつできてないのに」


 遠岸楽は口元を押さえ、涙を流す。身体を揺らして、今もなおここにいない彼の恩人へと向かって、問いかけているようだった。


 彼はきっとおじさんを尊敬していた。恩返しがしたいと思っただろう。


 でもおじさんは、人を殺した。そして自分の命を絶った。手紙を残して。


 事件を起こした人間の家族がどうなるか、その身を持って知っている遠岸楽だ。残されたおばさんがどうなるか、想像したのだ。鮮明に。


「おじさんの周りでこれから何が起きるか、手に取るようにわかるんだよ。だから俺はおじさんを刺した。何度も、何度も、何度も。俺が刺せば、おじさんは加害者じゃなくなる。少なくとも世間からは被害者として扱われる。人を見る目がないって思われるかもだけど、おじさんの家に落書きされたり、無言電話でおばさんが攻撃されたりは、絶対されなくなる。あとは、警察が来るのを待って、恩知らずの化け物を演じるだけで良かった。捕まるまでおばさんに見られなかったことだけが救いだった。死刑になることだけが望みだった。おばさんにとっては俺が仇なわけだし……でも、裁判ってどんな極悪人で、嫌がられるような人間にも弁護士つくようにできてんだよ。国が勝手に決めちまうの。冤罪とかも、あるわけだから」


「だから、法廷で何度も暴れて……」


「可哀想だろ。俺なんか弁護するの。真面目に仕事したらした分だけ、あいつはディスられるだろ」


 遠岸楽は、笑った。笑いながら、自分を殺す過程を話す。


「弁護士には申し訳ないなって、ずっと思ってた。俺なんか弁護してディスられるのなんか目に見えてるし……。すっげえ酷いこといっぱい言った。不細工とか、見た目のこととかも言ったし、裁判官に何回注意されたか分からない。退出を命じられるたび、ほっとした。これで酷いこと言わずに済むって」


 俺のことを無罪に出来ないなら殺す。


 死刑囚はそう言って、退廷を──法廷から出ることを命じられたらしい。弁護士、そして被害者家族への罵詈雑言により退廷を命じられた数は、最も多かったと報じられていた。


 さっさと死刑にしろ。そんな声で溢れていた。まさかそうなることを、自分から望んでいたなんて。


 救われて──間違いを犯してしまった恩人を、守ろうとしていた。


 死後の世界があるのなら、彼のおじさんは、一体どんな気持ちで、彼を見ているのだろう。なにか言葉をかけた方がいいのに、何も言えなかった。簡単に彼を量れない。


 縁川天晴も、私も、ただ黙って遠岸楽の隣にいた。やがて話をしていたらしい歩積さんが、寺からそっと出ていくのが見えた。


 遠岸楽は、祈りを捧げる眼差しで、 姿が消えていくのを待っている。


「……どうして雨の日だけ、面会に応じたんですか」


 私は遠岸楽の祈りの邪魔にならないように、訊ねた。


 彼はずっと弁護士を守ろうとしていた。秘密を暴かれることを拒んでいた。それなら、ずっと会わないほうが目的は達成できていたはず。


「雨、すげえ寒いじゃん。靴濡れるし、靴下気持ち悪いし、絶対片手塞がるし。足元悪いのに、来てもらって悪いなーって。硝子隔てても、人殺しと対面するなんて怖いだろうし、話す気なんてさらさらないから、黙ってそっぽ向いてたらいいかなって。それが間違いだった」


 間違いじゃない。


 間違いだとしても、いいはずじゃないか。


 そう口にして、果たして遠岸楽は救われるのだろうか。今歩積さんが墓参りをしていることは、彼の望みとは遠い。私たちはそれから、遠岸楽が墓を出て、弔いの場所から立ち去っていくのを縁川天晴と一緒に見届ける。


 僅かに土と冷たさが滲む雨の気配がしていた。



 遠岸楽とおぎしがくは、歩積ほづみさんが完全に去ったのを見届けると、雨の始まりとともに墓地の奥へと消えていった。成仏したかはわからない。降り出した雨が窓を撫でるのを眺めた後、常夜灯に照らされた寝台へ視線を移す。


「起きてる?」


「当然ですよ!」


 それまで掛け布団にくるまっていた塊がぐるりと回転して、ぎょろりとした目が二つこちらに向く。


 あれから私と縁川天晴えんがわあまはるは部屋へ戻ってきて寝ることになった。彼はいつも通りの調子で、「あかりちゃん寝ないと! もう夜遅いですよ!」と私のために丁寧に客人用の布団を床に敷き、自分はベッドに飛び乗り寝に入っていたところだった。


「遠岸さん、成仏したのかな」


「どうだか。でも、わりと普通に墓地のほうに戻って言った感じありますよね」


 幽体の存在は、なにか心に一区切り付いたら消えるのだろうか。仕組みがわからない。幽霊は、私はいつこの世界から消えることが出来るんだろう。


 自分が消える瞬間を想像してから、私は縁川天晴に顔を向ける。


「かっこよかったよ」


「あいつがですか?」


「貴方が」


 縁川天晴は、遠岸楽の想いを代わりに伝えていた。言葉を聞いたことで、確かに歩積さんは救われていた。


 人を救える人は、すごいと思う。


「ヒョァァァァ」


 しかし、縁川天晴は、笛みたいな声を出す。


 私は呆れながらも付け足した。


「貴方が遠岸楽の気持ちを伝えてなかったら、たぶん歩積さんずっともやもやしていたんじゃないかな。貴方のおかげで、前が向けるようになったと思う。希望が入ってるかもしれないけど」


「なるほど……俺なんかでも誰かを助けることが出来るものなんですね……」


 まるで他人事のような返答に、少し呆れた。


 いじめられて、自己評価が低くなってしまったのだろうか。それともただの謙遜か。


「私も、救われてるところがあるよ」


 救われては、いけない。本当は私が彼を救わなきゃいけない。


「全然救えてないですよ。ずっと僕が、貴女に救われてます」


 縁川天晴が、ぽつりと呟く。返事が出来ない。


 私はもう歌で元気づけることも、アイドルとして彼の背中を押すこともできない。


 だからこそ手遅れになる前に、果崎あかりへの信仰を、羨望を私から逸らさないと。


「どこまででも、応援します。ついていきますから」


 かけられた声にハッとした。縁川天晴の方を見ると、暗がりの中こちらを見つめている。黒い瞳は常夜灯に反射して、猫みたいだった。ただ猫だと茶化せる隙間はどこにもない、真剣なまなざしだ。


 だからこそ、果崎あかりを忘れてほしい。


●●●


 引きこもりに週休二日は厳しい。


 その言葉通り、縁川天晴は学校に行こうとしなかった。不登校であることを否定するために向かった一回目と、イメージチェンジをして学校へと向かった二回目は、彼の心に大きな負担をかけたようで、縁川天晴は木曜日を境に通学することはなかった。


 両親は、そんな彼を責めることなくそっとしている。食卓に集えば笑って会話をし、踏み込まないようにしていた。


 そして──、


「蝉うるせえなぁ。全部燃えちまえばいいのに」


 辟易とした顔で遠岸楽が空を睨む。


 彼は成仏することなく、墓地にいた。自分についても弁護士さんについても話をしない。歩積さんは、雨の日に墓参りに来るようになった。遠岸楽はその様子を遠くで見届けることを習慣としていた。


 私はまだ死に至ってない。


 晴れて私の心臓が止まれば、きっとこの存在は消えると信じていた。


 でも、遠岸楽は違う。死に、炎によって骨となりしかるべき場所へ弔われてもなおこの世界にいる。おそらく、私を追いかけてきたあの女性も。


 私は、縁川天晴が私を推さなくなるよう尽力すると決めた。ある程度親しくしていれば、身近に感じて夢が覚め、私を推すまではしなくなるんじゃないかと期待していた。


 なのに縁川天晴は放っておけば、私の公演映像を見たり、CDを聴く。さりげなくほかの映画を見たいとか、ほかのアーティストを勧めても、「最後にあかりちゃんを見ないと締まりませんね」なんて、私の出演作を出す。


 これから、どうすればいいんだろう。


 ただ単に離れてしまえばいいのか。


 縁側で悶々と考えていれば、ばたばたと足音が聞こえてきた。


「今から、一緒に病院に行きませんか」


 縁川天晴が、私の出演映画のDVDを片手に隣に立った。


「病院……?」


 彼と、初めて出会った場所だ。あの日彼は兄のお見舞いに来たと言っていたけれど、家族は彼のお兄さんの話をしていない。何かしら、重い事情があると想像して、病院に関することについて触れなかった。


「お見舞い?」


「はい。それに……あかりちゃんのお身体の様子も気になりますし」


 縁川天晴は意味ありげに私を見つめた後、躊躇いがちに視線を落とした。お兄さんのお見舞いではない?


 なにか、病院で──私に何かあったのだろうか。居間のテレビでワイドショーが映ることはなく、彼の祖父母が教育チャンネルか朝のドラマ、家庭菜園、料理などを放映するチャンネルが流れている。


「うん。行く」


「俺も行く」


 縁川天晴の提案に、遠岸楽が立ち上がった。


「病院なら、死人も出るだろ。このままじゃ怠いし、やってられねえから」


「えぇ、来るんですかぁ……?」


 縁川天晴は露骨に嫌がる。遠岸楽は、「うるせえな」と悪態をついた。


「ずっとここにいても飽きるんだよ」


 ここにいると飽きる。


 なのに留まっているのはきっと、歩積さんの様子が気になるから。


 遠岸楽は、夜に病院へ行くという話になっていたら、ついて来ようとしなかったはずだ。


 縁川天晴はそのことに追及しない。


 私は縁川天晴の兄について触れない。


 遠岸楽は、私の炎上に興味を示さない。


 私たちは、一定の境界線を保ちながら、縁川天晴の部屋を後にしたのだった。




●●●



 十四階建て。そのうちの五階までは吹き抜けで、柔らかな日差しで患者さんを照らすことが出来るよう建設された病院は、海に近いこともあり薬品と潮の香りが混ざった不思議な香りに包まれている。


 ふたりと私は、早々に分かれた。縁川天晴は、お兄さんのお見舞いへ行き、私は自分の身体の確認をする。遠岸楽はどうするのかと思っていれば、幽霊を探すなんて言っていなくなった。


 幽体を探し地獄への行き方を模索したいみたいだけど、生者と死者の区別も危ういところがある。


 手伝いを提案しようか悩んだものの、自分の身体とは一人で向き合いたかった。


 私の身体が、どうなっているのか。


 回復の見込みがあるのなら、たぶん縁川天晴は嬉々として報告してくる。でもそうじゃなかった。


 きっと逆だ。


 私は日差しの差し込む廊下を歩いて、自分の身体が置いてある病室へ向かう。中にはマネージャーと、その上司である統括チーフが話をしていた。遠目でも、統括チーフと私のマネージャーがスマホで私のアカウントを確認しているのが分かった。


「メンタルのフォローをしておけと言っただろう」


 統括チーフが呟く。


 なんとなく、スマホを覗き込むと私の事故に関するコメントが視界に映った。


『元々メンヘラだったのかー! わりと好きだったけど、もういいや』


『手首切らせておいてまだ叩いてる人いて流石に引く』


「すみません。まさか、果崎あかりが死のうとするなんて思っていなくて……」


 統括チーフの言葉に、マネージャーは頭を下げた。病室内にいるのは二人だけで、廊下にも人の気配はない。


「十分その気質を持っていただろう。責任感が強くてストイックな人間ほど極論に走る。君は前に、果崎は自己管理が徹底していて自分がマネージャーとして必要なのか分からなくなると言っていたじゃないか」


 統括チーフは、そんなことを思っていたのか。やがてチーフは、「CМの件だが」と、話題を変えた。


「先方の会社は果崎の代わりに、七星ななほしを起用したいらしい。話をすすめておけ」


「え……七星は売り出し中なのは分かります。でも、早すぎるんじゃ」


「話題性はあるだろ」


 統括チーフの言葉に、マネージャーは昏々と眠る私を見て、「果崎さんの夢だったのに」と肩を落とした。


 CМ出演は、私の夢だった。


 CDはお金を払う分、ファンの人の中でも買う人と、ほしくても買えない人が出てくる。ライブも行けない人がいる。


 でもCМなら、私がファンの皆のおかげでここまで来れたと皆に伝えることができると思った。


「話題になったとしても、商品の売り上げは……」


 マネージャーは食い下がる。統括チーフはため息を吐いた。


「見込めない。七星を話題にしている層と、今回のCМの購買層は完全に異なっている。化粧品だからな。果崎は20代〜30代の働くOLの人気もある。七星を支持している年齢層は20代と40代の男だ。だがスポンサーは傷のある果崎より無傷の七星が売れると思っている。私たちはそれに従うだけだ」


「なら、賛美遥 さんび はるかはどうですか。彼女は」


「無理だ。社外に賛美が出演するかもしれないと情報を流した者がいた。そもそも賛美の熱愛情報も、その社員が流した可能性が高い。処分が決まるまで、賛美には何もさせられない」


 賛美遥の炎上は、社員の人によるもの……?


 大きく目を見開いていると、マネージャーが「どうして」と狼狽えた。


「なんで自社のアイドルにそんなこと……」


「犯人は七星のマネージャーだ。七星の人気を確立させるため、上位互換である果崎と賛美が邪魔だと思ったようだ。懲戒解雇にしたいところだが、裁判を起こされれば果崎と遥の検索のサジェストに名前と裁判が出る。他人の憧れになるような、広告の仕事は来なくなる。完全に証拠を押さえてその余地すら残せぬようにしなければいけない」


 アイドルの名前が、裁判の隣に出る。それだけで印象がもう悪くなってしまう。「ああ、裁判起こされたアイドルでしょ」なんてイメージは、絶対についてはいけない。


 静かな病室に、バイブレーションの音が響く。


 統括チーフは「もう行く」と、足早に去っていく。マネージャーも私を一瞥して、病室を後にした。誰もいなくなって、病室はしんと静まり返っている。


 時間が止まっているみたいだ。まぎれもなくこの世界が回っている証拠は、横たわる私の隣にある心拍数を知らせる機械しかない。


 もう目覚めるのは絶望的なのかもしれない。両親が臓器を移植すると決断するのは、いつになるだろう。


 私はそっと病室を出る。はじめにここで目が覚めた時より、落ち着いた気持ちだ。目を閉じると、縁川天晴の顔が浮かぶ。私の選択は正しかったはずだ。正しい。正しいはずなのに、迷いが生じているのがはっきり分かる。


 ──ついていきます。


 縁川天晴の声が離れない。今も果崎あかりの存在によって、誰かが死んでいるんじゃないかという想像が消えない。


「あかりちゃんだ!」


 手首を切った日を再現するかのように、私を呼ぶ声が響く。幻聴かもしれないと振り返ると、薄い水色のパジャマを着た幼い女の子が、点滴をつけたまま私を指さして走ってきた。


 危ないと手を差し出せば、柔らかい感触があった。


 触れる。


 思わずまじまじと見てしまう。女の子は五才……六歳くらいだろうか。点滴に繋がれた腕の脇にスケッチブックを挟んで、片手で私にぺたぺたと触れている。


「あ、あかりちゃん!」


 声のする方向に視線を向ければ、縁川天晴と遠岸楽が歩いてきた。この子は縁川天晴の知り合いかもしれない。


「この子、もしかして の──」


「いえ、知らない子です。どうやら遠岸が見えるみたいで、俺が用事済ませてる間に彼のお守りしてたみたいです」


「誰が構うんだよ。逆だろ、こいつがバカみたいに懐いてきて」


 女の子は、「おにいちゃん」と、遠岸楽の手を掴む。


 じゃあどうしてこの子は私たちを認識できるんだろう。縁川天晴は寺の血筋か何かが関係しているだろうけど……。


「この子、さくらちゃんっていうんですけどあかりちゃんのファンなんですよ! 将来有望ですよね」


 縁川天晴は、さくらちゃんのスケッチブックを指さした。


「あのねえ、いっぱい描いてるんだよ」


 彼女が笑みを浮かべながら、厚い用紙のページをゆっくりめくる。足し算の勉強もしているようで、あどけない計算の跡があった。


 傍らには四角ばった花丸がある。やがてページは擦られ、クレヨンで描かれたイラストが現れた。


 ぐるぐると薄橙の楕円に、二つの黒丸がついている。広々と伸びた手足に、紫と青のグラデーション。私の、CDデビューの衣装だ。 


「ありがとう……」


 さくらちゃんは、スケッチブックを切り取ろうとしていて、私の変化に気づかない。


 意識的に呼吸をして、心に降り積もる想いをなんとか流そうとしていれば、目の前に一枚の絵が差し出された。


「あげる! あとね、 サインほしい!」


 私は切り取られたページを見つめる。私は彼女に触れられる。でも、その紙に触ることは出来ない。ペンも握れない。なんとか理由を選んでいれば、縁川天晴が目の前に立った。


「あのね、さくらちゃん、あかりちゃんおてて痛い痛いなんです。だから僕が代わりに受け取っておきますね」


「そうなの? じゃああかりちゃんも手術するの?」


 あかりちゃんも。


 さくらちゃんは、手術をするのだろうか。縁川天晴は受け取って、「後で事務所に郵送しますね!」と、大切そうに絵を抱えた。


「治ったらサインちょーだい!」


「うん」


 叶えられない。


 さくらちゃんの笑顔が、苦しい。


 無いはずの心臓がずきずきして、痛い。私はすべて隠すように笑みを浮かべる。縁川天晴は、「ほんとうにいい子!」と、さくらちゃんの頭を撫でていた。


「将来有望ですよね。幼稚園のダンスであかりちゃんの曲が使われたらしくて、そこからずっとファンらしいですよ」


 縁川天晴は、すごく嬉しそうだ。「来期の総理大臣は決まりだ」なんて話を続ける。


「僕、自作グッズの作り方を教えてあげようと思うんです。まだ小さいし、お金で解決できない年だから。たくさん教えてあげなきゃ」


「いかれてるだろ」


 遠岸楽は、露骨にいやな顔をした。縁川天晴は、まじめな顔でさくらちゃんのそばにしゃがむ。


「あのね、切り取りあるでしょ? それをラミネートして、立てるようになるとスタンドができちゃうんだよ。買うと1500円くらいするけど、そのやり方だと100円くらいで出来るの。でもみんながそれするとあかりちゃんのスタンド出来なくなっちゃうから、大人になって自分でお金の管理できるようになったら買おうね。世界が変わって見えるから。推しとどこへでも行けるようになるよ。一緒にねんねもできるんだ。デコクッキー知ってる? 推しを食べられちゃうんだよ」


「う〜ん」


 さくらちゃんがきょとんとしているのを見て、私は慌てて止めた。


「しゃべり方が早いしそこまでしなくていいから」


「えーコンビニコピーでも作れる等身大パネル編に続いていくんですよ? エへへ、俺バレンタインの等身大パネル抽選外れちゃって……あったら毎晩一緒に寝ちゃう。アッ、へ、変な意味じゃないですけどね!」


「もういい。たぶん小さい子の前では黙ってた方がいいよ」


 おそるおそるさくらちゃんを見ると、遠岸楽が彼女の耳を押さえてあげていた。


「お兄ちゃん? どうしたの?」


「どうもしねえよー……あ、お前いっこ約束しろよ」


 遠岸楽は、さくらちゃんのそばでしゃがんだ。


「おいちびすけ。俺と似てるやつ、本とか新聞とかテレビで見ても絶対言うなよ」


「なんで?」


「俺は、すげえ悪いことして捕まったやつと顔がそっくりだから、それでいじめられたりしてる。だから俺と会話したってお前がほかのやつに言ったりすると、俺はぼっこぼこにされる。お前もぼっこぼこだ。黙っててくれるな?」


「わかったー!」


 さくらちゃんは両手を挙げて笑みを浮かべた。遠岸楽は「約束な」と彼女の頭をぽんぽん撫でる。


「さくらちゃーん? お熱はかるよー」


 後ろのほうで看護師さんがさくらちゃんの名前を呼ぶ。しかしさくらちゃんは、肩を震わせると反対方向へ走っていった。


「やあだー!」


「さくらちゃん! もう脱走しないって約束したでしょ」


 看護師さんは呆れ顔でさくらちゃんを追っていく。点滴をつけているから危ないんじゃないかとハラハラしたのも束の間、さくらちゃんはすぐ捕まった。


「やだー! あかりちゃん、おにーちゃんたち助けてー!!」


「よしよし、病院は人を助けるところだからね。大丈夫だから。……すみませんでした」


 看護師さんは縁川天晴に頭を下げると、さくらちゃんを連れて行く。脱走は日常茶飯事なのかもしれない。


 看護師さんは、さくらちゃんが目に見えない二人の人間にも助けを求めていることに気付いてない。


 運ばれていく小さな背中を見届けながら、私は呟いた。


「私も遠岸さんみたいにすれば良かった」


「何がですか? スーパー素晴らしいあかりちゃんが、ロリコンの何を見習う必要があるんですっ?」


「お前ぶっ殺すぞ」


 縁川天晴に、すぐ遠岸楽が噛みついた。私は二人を横目に、光の差し込む廊下を見つめる。


「私は、アイドルの果崎あかりじゃなくて、ただ似てる人だって言えばよかった」


 隠すこともしなかった。出来ない約束までしてしまった。


「テレビの奴見たって言ったっても、アイドルとかアニメのキャラなら親も心配しないだろ」


 遠岸楽が、あっけらかんと言う。


「どこまでも想定の人ですねえ」


 縁川天晴が、冷やかし混じりに笑った。


「俺は誰も信じてねえから。出来ることは全部しておく」


 また始まった二人の問答を眺めながら、私は細長い廊下を眺めた。さくらちゃんはまだ幼い。遠岸楽はこの短時間で彼女に名乗ることへのリスクを想像して、対処をした。誰も信じない彼は、不審者騒動の時、私たちに助けを求めた。


 縁川天晴は、遠岸楽や歩積さんを救った。


 人のために。


 私はファンの為に頑張ってきた。でもそれは、つもりでしかなかった。


 ──貴女がいなくなるのなら、僕はその後を追います。


 私は縁川天晴や──人の為に、何が出来るだろう。



●●●



 縁川天晴は、「週休二日は引きこもりにはきつい」と言ったその口で、「さくらちゃんがさみしがっているし英才教育が必要だから」なんて言って病院へ向かうようになった。遠岸楽も、「さくらちゃんが喜ぶから」と連れられている。


 私はなんとなく、彼らと別れ、自分の病室にいた。私の身体は相変わらず、起きる気配も死ぬ気配もない。


 しばらくしていると、マネージャーがやってきて、そばにあった水差しを手に取った。そのままぼんやりと窓を開くと、ひとりでにうなずいた。


「よし、記者もいないな」


 マネージャーは水差しを片手にその場を後にする。前より儚い背中を見送っていれば、こちらに向かってくる男の人が視界に入る。


 友人でも、事務所の人でもない。


 古びたジャケットに靴底が減り切ったブーツを履いた男の人──伏見さんは、辺りを伺いながら私の病室に滑り込んできた。


「よう。おじさんが来たぞう〜」


 彼は眠る私の身体を一瞥して、目を細める。


「お前さん……なんで自分で死のうとなんか……親御さんだって浮かばれねえだろうに……」


 苦々しく言って、頭をばりばりと掻いた。マネージャーが戻ってこないか、緊張感に襲われる。


 この人が病室に来てくれたことは、問題がない。でも彼の職業上、間違いなく問題にされる。


 早く帰ってほしいと祈っていれば、伏見さんは探し物を始めた。「カメラとか取り付けられてねえか」なんて、引き出しを音を立てながら乱雑に開ける。


 ベットの器具や裏を触り、靴を脱いでそばにあった椅子に乗り天井に触れようとしたところで、病室の扉がガラリと開く。


「な、なにしてるんですか!?」


 入ってきた縁川天晴は素早くナースコールに飛びついた。伏見さんは「いっけね」と慌てて椅子から飛び降り、靴を両手に病室を出ていく。縁川天晴は、すぐに私の方へ飛んできた。


「大丈夫でしたか? なにもされませんでしたか?」


「あっち、私のこと見えてないよ」


「じゃ、じゃあお身体は?」


「何もない」


 縁川天晴は、ほっとした様子で「良かったあ」としゃがみこんだ。


 伏見さんは、洋服にお金はかけたくないと言っていた。服装だって前と同じだった。


 リークの写真を縁川天晴が見てないはずがない。


 それに伏見さんはカメラだって提げていたのだ。気づかないはずがないだろう。


 あの日、私と一緒に撮られた記者だって。


「なんで聞かないの」


「何がですか?」


 思えば縁川天晴は一度も私に問いかけなかった。本当のところはどうなのか。リークしたのかしてないのか。


 それが救いと感じる反面、縁川天晴が実際のところ私をどう思っているのか、知らないままだった。


「聞かないの。記者がどうして、病室に来たかとか」


「はい。僕は貴女を信じていますから」


 明るく返され、どんな顔をしていいかわからなくなる。


「でも、遥のこと報じた出版社の人間だよ。しかも、芸能部門の」


 言わなくていいことまで、伝えてしまう。


 縁川天晴には揃っているのだ。私を測る材料が。


 悪意ある切り抜き動画に、根拠のないコメントの数々なんて関係ない。大元の私のスクープ画像は、何一つ加工はされていなかった。


 加工はされていないからこそ、ここまでの騒動になっている。そして私と一緒に喫茶店でお茶をしていた記者が、病室に現れた。


「はい。僕は貴女を信じています。心の悪い僕を、貴女だけが救ってくれたから」


 なのに、縁川天晴は屈託なく笑う。


「根拠のない信頼が、信じられないなら、僕の稚拙な推理を聞いてもらっていいですか」


「なに」


「僕は貴女の、ブログ、つぶやき、インタビュー、全部網羅してます。網羅してるからこそ分かることがあるんです。記者が、貴女の何を気にしていたか」


 そういわれた瞬間、最初から全部縁川天晴は知っていると悟った。


 隠しきれたつもりだった。すべて、誰かに読んでもらえていることを想定していた。言えないことがある分、嘘はつきたくなかった。


 完全だと思っていたのに。


「親御さんの話を、僕は貴女から聞いたことがない」


 判決を告げられるような思いがした。


 縁川天晴は、静かに話す。きっと彼自身、問いかけるつもりなどなかったのだろう。私は彼を暴こうとして、逆に今、暴かれる。


「みんな知らないことを、記者さんはスクープとして取り上げます。だから、そうなんじゃないかなって思ってました」


 何から説明しようか、考える。


 いつか縁川天晴に話す時がくる気はしていた。


 とぼけ続けるには 一緒にいすぎた。


「私は自分の顔が、分からない。親は、ずっと褒めてた」


 でも、それでもまだ躊躇いがあるのか、覚悟が足りなかったのか、不鮮明な導入を選んでしまう。


「自分の顔、最初からどう見えるか分からなかったんだ。両親は可愛いって言ってくれる。その言葉は信じられたけど、可愛いけど何考えてるか分からないから嫌いって言う男子もいれば、ブスじゃんって叩いてくる女子もいる。小さいころも、今も」


「それは、嫉妬じゃ……」


「でも、親だけはずっと可愛いって言ってて、私小さいころから何しても下手くそでさ、絵も描けないし、足も遅いし」


 小さいころ、本当に何もできなかった。言われたことの、半分くらいしか出来なくて、出来たと思ったら前提から違う、なんてことがいくつもあった。


「お父さんとお母さんは褒めてくれたけど、たぶん親だから、私が何してても嬉しいっていうのがあったんだと思う。だから、可愛いだけとか、何にもできないくせにって言われることが増えていった」


 いわゆる、親バカというやつなのかもしれない。


 それでもなお、両親は「あかりはすごい」「才能に溢れてる」なんて、ずっと言っていた。親戚が呆れるくらい、何度も。


「だからお母さんとお父さんの言う、あかりはすごいって言葉を、本物にしたくて、勉強したり走ったりしてた。でも、あんまりいい結果は出なかった」


 私は、家族が生きていたころを思い出す。地元のカラオケ大会で賞を取ったり、小学校の合唱祭で、ソロパートを歌わせてもらった。両親は嬉しそうに私の姿をビデオカメラに収めていた。


 だんだんお父さんとお母さんは、アイドルできるんじゃない? なんて私に言うようになった。


 事務所に履歴書送ってみようかなんて話をしていて、どの事務所がいいか選んでいた。


 でも、二人とも死んでしまった。大雨だった。


 学校にいた私だけ、生き残った。二人とも、それぞれ別の職場で働いていたのに、一緒に死んでしまった。


「だから、アイドルを目指したの。お父さんもお母さんも、目、きらきらさせてたから。それが生き残った理由なんじゃないかって。そう考えないと、生きていけなかった」


 そうして、ただひたすら両親の期待に応えたくて頑張っていた私を、応援してくれたファンの人たちに、だんだんと恩返しがしたい気持ちが芽生えた。


 私たちの間には推しという感情が入る。


 芸能事務所に所属した以上、こちらが受けて、ファンの人の時間もお金も貰うばかりだ。


 だから、みんなが見れるCМに出て、みんなに結果を見せたかった。


 貴方たちのおかげでこうなれたと伝えたかった。


 でもそれは言わない。


「記者の人は、たぶん私と遥を、二手に分かれて調べてた。あっちは、ドラマが内定してたから。私は付き合ってる人もいないし、付き合ってると思われるような人もいなかった。何か他にスクープはないか調べて、行き着いた先が私の両親のことだったんだと思う。それで、私単独に連絡が来た。警戒したけど、その記者さん、私と地元が一緒だったって聞いて、会うことにした」


 記者さんは、本当にまともな人だった。


 私の素性を調べて、家族について隠していることを察したらしい。


「記者さんも、同じ日に家族がいなくなったらしい」


 私の素性を調べ上げたことは許せない。


 でも、人の道を踏み外しても仕事に打ち込みたい気持ちも、どうしても理解できてしまう。


 それはあちらも同じだった。


 どうして公表しないのか、聞かれなかった。


 それだけで、信頼してもいいと思った。


「私は何かの象徴になりたくなかった。元気がない、つらい時を忘れさせてくれるものでいたかった。尊敬も、同情もいらない。何も考えずに見ることのできる存在でいたかった」


 そう伝えると、記者さんは記事にしないと約束してくれた。


 だから、安心していた。


 気も緩んでいたと思う。


 その写真が、同期をリークしているなんて扱い方をされるなんて、微塵も思っていなかった。


「リークはしてない。でも私は、両親のためにアイドルになった。皆を笑顔にさせるためとか、元気づけたいとか、そんな高尚な理由でアイドルになったわけじゃない」


 もう夢への道はぐちゃぐちゃに壊れた。


 足場なんて消えて、私は地の底にいる。


 なのに縁川天晴は私を照らそうとしてくれた。だからこそ、彼は彼の人生を歩んでほしい。


「俺は……ヲタクは、どんな推しでも受け止めますよ」


「天晴」


「俺は、貴女を推しているんです。他でもない果崎あかりを推しているんです。代わりなんていないし、いらない。貴女の目的も過去も未来も、すべて受け止めます。貴女が辛いぶんも受け止めます。きっと苦しいことがあるんだろうなって知ったかぶりもします。ちゃんと食べてるかなって、健康でいてほしいなって、おせっかいも焼きます」


 縁川天晴は、私の手に自分の手をかざした。


「そうやって、死ぬまで、死んでも、推していきます」


 眩しい、と思った。


 アイドルは、スポットライトを浴びて舞台で輝く。でも、私にとっての光は、彼らだ。


 推してくれてるみんなが、私の光だ。


 元気を与えたいと言いながら、元気をもらっていたのは私の方だ。


 私は、見ないふりをした。


 ファンの人を信じることが、途中で出来なくなった。もう私には誰もいない。ステージに立てない。どこにも居場所がない。そう思って、死のうとした。


 裏切った。


 それでもまだ、生きていたいとはどうしても思えない。


 それでも確かにあのステージへ戻りたいと、思ってしまっている。


 戻る場所なんてどこにもないのに。


 なんて言葉を返せばいいか分からない。ありがとうという事すら、言っていい資格があるのか迷うのに、縁川天晴はいつだってすぐ、真っすぐに気持ちを伝えてくる。


「でも、匂わせたりされたら、ちょっと心がちくちくするかもしれません……」


 縁川天晴は唇を尖らせる。震えるほど軽口に救われる。


「そんなことしないよ」


 ようやく声に出せた言葉は、なんの意味もないような約束だった。


 そもそもしようと思ってもできない。もう私は生きてない。


 強く雨が窓をたたいている。不思議と息苦しさは消えていた。



●●●



「なんで保育士でもねえのに俺が面倒見なきゃいけねえんだよ、国家資格受けた覚えもねえぞ」


 縁川天晴と一緒に廊下に出ると、遠岸楽がさくらちゃんにあやとりを教えていた。一緒にいたらしい。


「お兄ちゃん、私と遊ぶのいやなの」


「別に嫌じゃねえよ」


 遠岸楽は面倒くさそうにしつつも、さくらちゃんに向けるまなざしは優しい。


「お兄ちゃんに遊んでもらってたの?」


「うん! かくれんぼに、あやとりしたの! お絵かきもしたよ!」


「良かったねぇ」


 私は思わずさくらちゃんの頭を撫でた。彼女の柔らかな髪に触れていると、背中から、驚き交じりの声がかかった。


 振り返ると四十代くらいの白衣を着た男性のお医者さんが、ぱたぱたとこちらにかけてきた。


「さくらちゃん、看護師さんたちがみんな探してたよ。どうしたの?」


 お医者さんは、目を凝らすように私や遠岸楽を見る。


 お医者さんは、見覚えがあった。記憶を辿れば、私がこの病院に運び込まれたとき、廊下で勝手に透けてしまった相手だと思い出した。


 そうだ、あの時私はこの人と物理的にすれ違って、自分の身体が人に触れられないのだと知ったのだ。


「あ、噺田はなしだせんせー! あのね、あのせんせーがわたしのしゅじいのお医者さんなんだよ」


 そういいながら、さくらちゃんは私と遠岸楽にも目を合わせてくる。見えない誰かを見ているのは一目瞭然で、先生の顔がさらに険しくなった。


 けれど先生はすぐに笑みを浮かべ、さくらちゃんに病室へ戻るよう促し、縁川天晴へ振り返った。


「縁川くん、さくらちゃんと知り合いだったのかい?」


「はい。たまたま彼女と会って……噺田先生の患者さんだったんですね」


 先生は頷きながら、「今月いっぱいだけどね」とほほ笑む。


「今月……?」


「ああ。退職するんだ。だからこそ、問題があって……。さくらちゃん、手術を控えているんだけど、僕じゃないと成功しないとか、成功しないと好きなアイドルのライブにいけないから嫌だって、大変で……」


 噺田先生は言葉を濁す。


「先生が手術しないなら、私手術しないもん! 絶対やだ!」


 さくらちゃんはべーっと舌を出して走って行ってしまう。


「ごめん、行かなきゃ」


 先生は、さくらちゃんを追いかける。遠岸楽があきれ顔で、「ちびすけ……」と呟いた。その視線は穏やかで、優しい。


「ロリコンですか?」


「は?」


 縁川天晴の疑いの目に対抗して、遠岸楽も睨みを利かせた。しかし怯むことなく縁川天晴は彼を見据える。


「だって完全に少女漫画の一コマみたいでしたよ。相手が同い年ならまだしも六歳のいたいけな少女相手にその視線はもう、恐ろしいですよ。俺が父親だったら、ゾッゾゾゾゾッってなりますよ」


「そんなわけねえだろ殺すぞ」


 二人のやりとりを眺めながら、私はさくらちゃんと噺田先生が走っていった廊下へ振り返る。


 思えば私が手首を切った日、噺田先生が私をすり抜けた日、先生は確か病室へ声をかけた後、看護師さんと話をしていた。


 手術しないと、助からない。でも、もう自分は手術できない。


 あの日確かに、先生は言っていた。


 さくらちゃんの、病室の前で。


「私、ライブしよっかな」


 ぱっと口に出た言葉に気づいて、自分の口元を押さえる。


 地面に視線を落として、クリーム色の床をただただ眺めた。


 なんて身勝手なことを言ってしまったんだろう。


 こんな状態なのに


 私は二人がどんな反応をしているのか不安で、訂正の言葉を発するために、おそるおそる顔を上げる。


「え…天」


 二人とも、呆れたり、拒絶している様子はない。


 怒っても、悲しんでもいない。それだけで救われている。なのに、


「最高ですね!」


「いいんじゃねえの」


 二人とも、笑顔だった。



◯◯◯



「音響どうしましょう! 機材をレンタルする業者とか」


「病院だぞお前。そこら辺の公園じゃねえんだから」


 病院から帰って、さっそくどうやってさくらちゃんにライブを見せるか、縁側で作戦会議を開くことになった。


 いつも居間にいる縁川天晴のおばあちゃんやおじいちゃんは、今日はデイサービスにより介護施設に行っているらしい。


 老人ホームとはまた違い、高齢になった人がみんなで絵を描いたり身体を動かして過ごす場所だと聞いた。


「今、公園は子供がはしゃぐ声すら苦情が来るんですよ。公園でコンサートなんてできるわけないじゃないですか」


「なら病院でできるわけねえだろ」


 遠岸楽が一喝する。ライブをしたいとは言ったけれど、場所は病院だ。それも私はさくらちゃんにしか見えていないから、許可どりもできない。


「屋上とかが開いてたらいいんだけどな……」


 屋上なら、天気に左右されるといえどライブはしやすい。


「確かに出れるなら一番騒いでも文句言われねえか」


 遠岸楽は納得した様子で頷き、ハッとした。


「でも屋上ってそうやすやすと出れるもんじゃなくね?」


「大丈夫です。遠淵先生に頼めば開けてくれますし、日中なら許可も下りるはずですよ。僕でよければ先生に掛け合います」


 許可が、下りる……?


「悪いけどお願いしてもいいかな……」


「もちろんです! 推しのお願いは全部叶えますよ!」


 朗らかな声に、救われると同時に身勝手な苦しみを覚える。


 背にしているのは障子で、明るさは隔てられているはずなのに、縁川天晴が見え辛い。


「それに、貴女のライブに携わることが出来るなんて光栄です。夢みたいです」


「ありがとう……」


 アイドルを、輝かせるため。メイクさんに、照明、衣装係、音声さん、小道具、ライブだったらステージを動かす……数え切れないほどのスタッフさんの力で、私はアイドルとしてステージに立っていた。


 誰かの協力なしには、アイドルになれない。その感覚を、思い出す。


「音響どうしましょう? スピーカーとか借りてきましょうか?」


「スマホでいいよ。あんまり煩くしたら迷惑だし、ただでさえ、迷惑なことではあるわけだし」


 でも、さくらちゃんは私のファンだ。私のライブを見て手術に前向きになるのなら、歌いたい。


 ちゃんと歌えるか、わからないけど……。


「それに、道具より、私が練習ちゃんとしないと。発声練習も全然してなかったし……」


 一日何もしなかっただけでも、衰えていることがはっきり分かっていた。


 それを私は何回繰り返してきたんだろう。カレンダーを見ると、もう冬に入りかけていた。


 死に損なっておいて、時間がないというのも変だけれど、私はいつ死ぬかわからない。目標ができて、身近な死を実感する。


 私は二人と話し合いながら、カレンダーの期日に注意を向けていた。



◯◯◯



 ライブをするまで、することは山積みだった。喉の調子を整えることに、発声練習に。この身体は半透明で、いわば私は幽霊でしかない。なのに少し歌っただけで簡単に声は掠れて、息も続かなくなっていた。


 手首を切って身体にダメージを与えたから、なんて可能性に逃げるよりも、ずっとアイドルとして切磋琢磨していた日々から離れていた実感のほうが強くて、焦りを覚えた。


 だから、私は皆が寝静まってから、ボイストレーニングをすることにした。場所はお墓だ。


 私が見えてしまったら誰かを怖がらせてしまうから、なるべく奥まったところを選んだ。


 音程を確認しながら、当日歌う曲の音程を確認する。歌える音域がかなり狭まってしまった。曲に関係ない音程は、一旦置いておかなければ間に合わない。


 ひやりとした空気に包まれ、月を見上げながら歌う。


 木々と土と、お線香の匂いがする。夜、寝る前に窓を開けてぼんやり外を見上げるのが好きだった。月明かりに部屋が照らされると、なんとなく安心した。


 強い光は好きじゃなかったはずなのに、アイドルの仕事を初めて光というものが好きになった。青空というだけで救われるような気持ちがして、私をあの雨音から遠ざけてくれていた。


「お前怨霊みたいなことすんなよ。いざ復帰したら、休止中墓地で徘徊してたなんてクソみたいなゴシップじゃねえの」


 振り返ると、墓地の隙間に遠岸楽が佇んでいた。そう言うけれど、気だるげな視線も相まって遠岸楽の方が怨霊に見える。本質は真逆だけど。


「歌の練習だから見逃してほしい」


「そもそも捕まえには来てねえよ。俺はお前ヲタクに頼まれて来ただけ」


 お前ヲタク。


 その言葉だけで、遠岸楽が誰に頼まれたか分かった。


 起こしてしまったり、睡眠を妨害するのが嫌だから黙っていたのに。


「そっか……」


 ヲタクなら、歌の練習の場に来ないのか。邪魔をしないよう、気を遣ってくれたのかと納得して、私は明かりの消えた母屋に視線を向ける。


「アイドルって共演者の男と連絡先交換したりすんの」


 突然話題が変わり、私は戸惑った。


「え」


「ほかに男いないなら、あいつと今のうちに連絡先交換しておけばって思って」


 ぱっと投げかけられた言葉に、返事ができない。誰を指しているかは明白で答えを選んでいれば、遠岸楽が追撃をかける。


「意識戻って、早々会えたり出来ねえだろ。芸能人と一般人が」


 それは、よく分かっている。


 でも私は、あの身体に戻らない。


 私はこの世から離れることを選んだ。選択をして、後を決めるのはもう私じゃない。


「でも、戻るか分からないし」


「戻らねえとおかしいだろ。お前何もしてねえのに」


 焦りを伴いながら、遠岸楽は言う。


 何もしてない。


 今まで遠岸楽は、私の炎上に関して口にしなかった。知らないはずだった。何かで、知ったのか。縁川天晴が言った? 突然私の内情を言うようには、とても思えない。


「なんで、突然」


「病院で、芸能新聞読んでるジジイ見た。でも、お前が誰かのこといじめるようには見えない。どう見てもされて泣く側だろ」


 遠岸楽は、私に指を指す。


「お前と会って、たいして日も経ってない俺が分かるんだから、ほかの奴らも黙ってるだけでお前がそんなことしてねえってわかってんだろ。浅い馬鹿みたいな噂話で分かった気になってる奴らのことばっか、耳傾けてんじゃねえよ。お前のこと好きな奴らだっているだろ。お前のヲタクが最もな例だろ」


「……」


「世界中を敵に回してもなんて言うけど、どんなゴミカスだって好きだっていう奴は絶対一人はいるんだよ。そもそも世界中敵にするなんてありもしねえことだから、誰でも彼でも使う言葉になってんだよ。こんな俺だって、おじさん、おばさんに、確かに好きだって思ってもらえてたんだよ。まぁ、おばさんは今俺のこと、大嫌いだろうけど──」


 遠岸楽は視線を落とした。


「うまいこと一つも言えねえな。もっと、生きてるうちにおじさんとかおばさんだけじゃなく、ちゃんと人付き合いしておけば良かった」


「そんなことないよ。遠岸さんは、私よりずっと人として出来てる」


「人として出来てるやつが恩人の死体ぐちゃぐちゃにしねえよ」


 声色に揺らぎを感じる。


 もしかしたら彼は、自分の選びとった方法に、後悔が生じ始めているのかもしれない。


 自分がなにかを話すときも、こんな風に人に知られてしまうものなのかと、怖くなる。


「俺は、もっと頭いい方法で、じいさんとばあさん守る方法があったんじゃねえかって、最近は思ってる」


 綺麗に、ちゃんと。


 そう続けて、遠岸楽は黙った。


 私は歌の練習を再開して、さくらちゃんを生かすライブに思いを馳せる。


 後悔。


 縁川天晴に関わるたびに、思い浮かぶ言葉だった。



●●●



 初めてのライブは、200人が入るライブハウスだった。


 お客さんは26人来てくれた。マネージャーは肩を落としていたけど、26人も、私の歌を聴くために来てくれたと思うと嬉しかった。でも、その26人のお客さんたちは動員数が少ないことを私が気にするんじゃないかと不安に思っていて、私はもうそんな心配をかけたくないと思った。


 せめて、今日来てよかったと思ってもらえるように。次も来たいと思ってもらえるように、精一杯歌った。


 私を実際に推しているその26人を見て、両親がいなくなって、初めて生きてる実感を覚えた日だった。


 その26人のうち、コンサートで顔を見かける人もいれば、見かけなくなってしまった人もいる。私を好きじゃなくなった、ならいい。元気で、いてくれたらいい。人には生活がある。


 ライブの前、かならず私は初めてのライブに来てくれた人たちの顔を思い出す。そうして、ステージに立つ。


 さくらちゃんの前でも、同じように。


「今日は果崎あかりの特別ライブに来てくれてありがとう!」


 笑顔を浮かべて、私は縁川天晴と遠岸楽が作ってくれた台の上へと立つ。一枚板を何枚も組み合わせて作ったお手製のステージは、サイリウムを重ねたことで輝いていた。


 天候は晴れで、太陽光のスポットライトが私を照らしている。


 目の前にいるのは、さくらちゃんと縁川天晴、遠岸楽に、噺田先生だった。先生が見ていること、そして屋上にいるのは十五分だけという条件によって、この屋上を借りることも、ライブを見せることも出来た。


 音源はスマホだし、物に触れないからマイクもない。でも、私が声を上げても、病院の人たちに聞こえないというメリットがある。


「さくらちゃんが、手術頑張ろうって思ってもらえるように、精一杯歌います!」


 私は手を握りしめマイクに見立てて、観客席へと手を振る。縁川天晴は団扇を胸にあて、規定通りの応援方法をとっていた。貸してあげたのか、さくらちゃんも持っている。


「では、一曲目!」


 私がそう言うと、すかさず縁川天晴が曲を流した。メジャーデビューをして初めて貰った曲は、片思いのクラスメイトに恋文を送る男の子の想いがモチーフの曲だ。


 字が汚いとか、そもそも夏目漱石の告白って相手に通じるかなと試行錯誤して、やっぱりLINE使ったほうがいいかなと恋心や自意識に迷走するさまを、アップテンポなピアノのメロディラインにのせて歌う。


 サビの高音がとにかく難しくて、完璧に歌えるようになるまで何か月もかかってしまった。だからきちんと歌えるようになって、ライブに来てくれた人に拍手をもらった時は、本当に心の底から嬉しかった。


 あの日の想いが蘇りながら、私はどうかさくらちゃんが手術を受けられるよう、心を込めて歌う。全力で、これが最後かもしれないと後ろ向きになりそうな思考を逸らして、目の前の皆に集中する。


 そのまま歌い切ると、縁川天晴が拍手を始めた。さくらちゃんも、遠岸楽もしている。見えていないはずの先生も、場の空気に合わせてか拍手をしていた。


「次は、二曲目です」


 二曲目は、ラウドロック調の曲だ。伴奏が再生されているのを待っていれば、縁川天晴が焦った顔をする。「アプリごと死んでる」と、縁川天晴の代わりに遠岸楽が首を横に振った。


 マシンのトラブルは、慣れてる。私は笑みを浮かべて、ウインクをしながら前を見据えた。


 衣装は一曲目のさわやかな水色のセーラー服から、真っ黒なワンピースに変わった。この曲から、徐々に知名度が出て仕事が増えてきた。


 初めてのライブで動員数が半分にも満たなかったことで、ファンの皆と会えるイベントが忌避されるようになってしまったけれど、このCDが初めてランキングに入って、三曲目のCDに握手券がつき、皆と会える機会が復活した。


 久しぶりに生でファンの人たちと話ができる機会が貰えて本当にうれしかったし、握手して、ああ、確かに相手は生きているのだと実感が出来た。


 そのことを思い出すと、涙がにじみそうになる。この曲は強さを出す曲で、恋に破れた女の子がそれでも忘れられない、好きだと相手を求める曲だ。


 でも相手には好きな人がいて、迷惑はかけられないからと自分の恋心を殺しに行く。


 恋をしたことはなかった。想像して、歌う。人を想う気持ちは、両親が消えたことで失われたと思っていた。ファンの人たちに出会って、生きる意味を再確認できた。


 私は、さくらちゃんに、生きててほしい。今まで応援してくれた分の、恩返しがしたい。


 生きててほしいと願いながら、歌う。自分は生きることをやめたのに。でも今は、目の前の彼女を想って、歌う。歌って、触れられない背中を押したい。


 喉に痛みを覚えながら、私は二曲目を伴奏なしで歌い上げた。 さくらちゃんに向かって。


 私は、恋を知らない。アイドルは恋を叶えてはいけない。知っていても、知らないふりをするのが仕事だ。


 輝いて、皆に光を届ける。


 それが私の、仕事だ。



◯◯◯



「今日は私の曲を聴いてくれてありがとう!」


 二曲を歌い終え、終わりの時間になった。十分が、永遠にも一瞬にも感じた。縁川天晴は、割れんばかりに何度も手を叩いて、興奮している。さくらちゃんも目を輝かせ、「すごい! すごい!」と私を見ていた。


「手術頑張る! 元気になってライブ行く!」


「うん! 待ってるね!」


 叶えられない約束に、笑顔で嘘をつく。さくらちゃんは、生きててほしい。私の死を理解したら、どう思うだろう。ないはずの心臓が痛い。


「先生、ライブさせてくれてありがとう!」


 さくらちゃんは、隣にいた先生に声をかけた。私の見えない先生には、今のライブがどう見えているのだろう。そもそも、縁川天晴は、どう説得したのか。問いかけても、教えてくれなかった。


 ふいに、先生に視線を向ける。不思議と目線があった気がした。


「あ、もう時間だ!」


 噺田先生は、ぱっと私から視線を反らし、時計を見ながら撤収を促す。


 この場で撤収を手伝えるのは、縁川天晴しかいない。


 彼にばかり負担を強いることに心を痛めながらも、私はさくらちゃんが手術に前向きになってくれたことに安心するとともに、久しぶりの歌に不思議な高揚を覚えていた。




 徐々に夜に浸食されていく夕焼けを眺めながら、ゆっくりとお寺に向かって歩いていく。ライブを終えた私たちは、三人並んで帰ることになった。


 遠くでは烏の鳴き声が聞こえて、人々は両手をこすり合わせながら帰路を急いでいた。


「なんか、結構良かったわ。歌とかダンスとか」


 ぽつりと遠岸楽が呟く。「エェ〜? 上からすぎません!?」とつっかかろうとする縁川天晴を押さえつつ、私は二人にお礼を伝える。


「今日はありがとう」


「全然! 最高でした!」


「おー」


 遠岸楽は、どこかぼんやりしていた。何か話題を変えたほうがいいかと、私は縁川天晴に声をかけた。


「結局、先生のことどうやって説得したの」


「秘密です。男同士の約束なので」


「なら、遠岸も知ってるの?」


 彼に問いかけると、遠岸楽は得意げに「まあな」と返した。


 私だけが知らないのか。


 わずかに寂しさを覚え、「そっか」と目を細める。


「でも、本当にありがとう。ライブさせてくれて。さくらちゃん、手術受ける気になってくれたし、本当によかった」


 でも、出来ない約束をしてしまったことが、心残りだ。


 気を落としていることを悟られないよう、私は夕日を眺める。


「はい。あっ、俺も次のライブ、楽しみにしてますからね!」


 追い打ちをかけられ、今度は声も出せずに頷いた。さくらちゃんも、縁川天晴も、遠岸楽も、私を生き返ると思っている。そのことが心苦しい。


 死のうとしたことは、間違っていたのかもしれないと思ってしまうから。


「俺さ」


 誰も言葉を発さず寺に向かって歩いていると、遠岸楽が呟いた。さらさらと風が吹いて、遠岸楽の身体が透けて見えた。目を凝らす前に、彼が続ける。


「たぶんそのうち、消えるっぽいんだよな」


「え……」


 突然の告白に、時が止まったような錯覚を受けた。どうしてと考えて、ここ最近の、彼のらしくない言動を思い出す。


「最近、ちょっと透けててさ。指とか。なんとなく分かるんだよ。そのうち消えるって」


 遠岸楽の焦りは、こちらに踏み込んでくる態度は、自分に残された時間が少ないから。


 縁川天晴は、黙ったまま、言葉を紡がない。


「だから、お前ら二人に礼を言っておこうと思って。いつ消えるか、分かんねえからさ。俺、お前らと違って完全に死んでるから」


 完全に、死んでいる。


 確かに、もう彼の身体は焼かれ、骨になって納められている。


 でも、目の前にいる遠岸楽は。


 今ここに、いるのに。


「ありがとな。色々、お前らのおかげで、ただその辺り彷徨くんじゃなくて、すげえ色々考える時間が出来た」


「……」


 夕焼けを背に、屈託のない笑みが視界に映った。彼は、こんな風に笑うのか。いつも彼は、平然としながらも悲しみの気配を纏っていた。


 物言いは粗暴ながら落ち着いていて、夏が終わった秋の日差しのような人だった。


「お礼を言うのは、僕らだけでいいんですか?」


 それまでずっと黙っていた縁川天晴が、口を開いた。


 含みをもたせた声音に、私も遠岸楽も縁川天晴を見る。


「まだ、いるでしょう」


 縁川天晴はそっと墓地の中、遠岸楽のお墓へ指をさす。そこには、七十歳くらいの柔らかい色のセーターを着た女性が立っていた。


「貴方は、あかりちゃんを助けてくれた」


 縁川天晴の言葉を受けながら、遠岸楽は、女性へ視線を向けた。


「ばあちゃん」


 答え合わせをするように、遠岸楽が呟く。女性は彼が見えていないようで、視線を彷徨わせながらも必死に何かを探していた。


「いるのかい。楽」


 切なげな声色は、遠岸楽に憎しみなんて抱いていないことをはっきりと示していた。


 女性はもがくような足取りで、私たちの立つ方向へ視線を向ける。大切なひとを探す瞳をしていた。


「なんで……」


「歩積さんが、墓参りしないかって会いに行ったらしいです。見知らぬ男子高校生も会いに行って、楽がお婆さんのこと心配してるって言って、ついてくるほどには、貴方のことを想っているようですよ」


 縁川天晴の返答に、遠岸楽は声を震わせる。


「どうしてそんなことを……」


 しかし、「楽」と呼ぶ女性の声に、すぐそちらへ顔を向けた。


「わたしなぁ、絶対おかしいって、ずっと思ってたんだよ。本当は、あのひとが殺したんだろう。お前、なぁ、お前、お父さんの罪を被ったんだろう。虫一匹殺せないお前が、出来るわけないって、だからあんな、今まで聞いたことないような言葉でわたしたちのこと、守ろうとしたんだろう! なぁ!」


 女性は、とめどなく涙を溢れさせながら、ぺたぺたとお墓に触れる。墓石を通じて、彼に触れているみたいだ。


 遠岸楽はそんな様子を眺めながら、目に涙を溜めている。


「ばあさんいいんだよ。俺は、いいんだ。もう。そんな泣かないでくれよ」 


「お前、未来あったろう。いくらでもやり直せただろう。なんで死刑なんか。なんで、若かったのに。何でも、何でも戻れた。間違ったってよかったのにお前、私たちのことなんて守って死んじまうなんて、おかしいだろ。何でお前、生きててくれなかったんか」


「ばあちゃん……」


「わたしも父さんもどんな形であれ、お前に生きてて欲しかった……! 死んでほしくなんてなかった……! どんなお前でも……! 私たちはお前を、お前が好きだったのに……」


 お婆さんは腰を丸め、墓石の前で蹲る。


 震える手を合わせながら、祈るように目を閉じている。遠岸楽は、そっとお婆さんに近づいて、目の前にしゃがんだ。


「ごめん……死んで、ごめん」


 遠岸楽は、頭を下げる。親に叱られた子供のあどけなさを残しながら、静かに、何度も。


「ごめんな」


 そうして、そっとお婆さんの手に触れた。すると、お婆さんが、ふっと顔を上げる。


「いるのかい」


「え……」


 お婆さんの瞳は、遠岸楽を捉えていない。けれど気配は感じ取っているらしい。「いるんだろう」と、優しい声で呼びかける。


「お前、とんでもないことして……馬鹿な子だ……」


「ばあちゃん」


「役に立てなくて、ごめんね……」


 弱弱しい声に、遠岸楽は首を何度も横に振った。そんなことない。そんなわけあるかと繰り返しながら、お婆さんの手を取る。


「そんなことない。じいちゃんもばあちゃんも、すごい良くしてくれた。役に立てなかったのは俺の方だ。何にも恩返しが出来なかった。何にも、俺は返せなかった」


「あの世で、幸せになってくれ。頼む。次生まれ変わるとき、幸せでいてくれ。誰よりも、何よりも、自分の幸せだけ考えて、生きてくれ」


 言葉もなにも、噛み合っていない。


 一方通行だ。


 お互いそのもどかしさを堪えながら、お互いに別れを告げる。


「私も、あとどれくらい生きられるか分からないけど、そっちに行くからな」


「ばあさん、長生きしてくれ。幸せでいてくれ。頼む。こっちには来ないでくれ」


「さみしい思いはしないでくれよ、また、会いに来るから」


「元気で、地獄になんて来ないでくれ。さよなら、ばあちゃん」


 女性は別れの言葉を告げると、しばらくその場に蹲っていた。やがて夜が近づくと、自分の目元を掌で拭いながら、力強く立ち上がる。


 そのまま女性は、墓場から遠のいていく。


 残された形になった遠岸楽は、ただただ涙を流している。私と縁川天晴はそっと彼の隣に立ち、その背中に触れる。そうして気付いた。


 遠岸楽の背中は、わずかに発光して透けている。本人も分かっているらしい。口に出す前に、首を横に振った。


「時間みてえだな」


 遠岸楽は、ため息を吐きながら こちらへくるりと振り返る。


「俺が成仏できないの、未練だったみてえ。俺、やっぱ。ばーちゃんにさよならって言えなかったの、心残りだったっぽい。女々しいけど」


 柔らかく、困ったような笑みに、わざとらしいくらいの明るい声だった。今まではっきりと見えていたはずの肩は、ところどころ透けている。


「女々しいは失礼な表現ですよ。女性的なことは悪いことじゃない。むしろ兼ね備えている」


 ぴしゃりと、縁川天晴が指摘する。


「悪い。ちゃんとアレする。アップデートしていく。次は無いだろうけど」


「あるよ。絶対に」


 私が付け足すと、遠岸楽は首を横に振った。


「いや、どう考えても俺は地獄行きだろ。じいちゃんの死体も、じいちゃんが殺した奴の死体、もめちゃくちゃにしてんだから」


 死体損壊は罪だぞと、念押しまでしてくる。


 環境のせいにしたら、いけないんだと思う。でも彼は、環境さえまともであったら、普通に彼の恩人と出会えていたら、今もなお楽しく暮らしていたんじゃないかとどうしても思う。


 もっと、自分のことだけを生きていけるような場所で、生まれていたら。


「さくらに言っておいてくれねえか」


 改まった声色に、彼とこうして会話をするのは最後なのだろうと実感した。


「なんて」


「将来変な男に捕まるなよって」


「親面?」


 軽く返すと、遠岸楽は冗談交じりに否定した。


「違う。俺みたいなのがかっこいいって、明らかに男の趣味終わってんだろ。将来思いやられるわ」


「善処する。見分け方とか、わからないけど」


「ああ、アイドルだもんなお前。男っ気あっちゃいけねえもんな」


 思い出した様子で、遠岸楽は鼻で笑ってくる。不快には思わなかった。


「で、アイドルさんよ」


「何突然」


「炎上の鎮火目的で死ぬの、まぁそうするよなって言ったけど撤回するわ」


 まっすぐ見つめられた瞳に、ただ黙って言葉を待つ。


「お前は生きた方がいい。死なない方がいい。少なくともお前はやり直せる。お前の為に生きたいやつ、絶対いるだろ。そいつだけ見とけ。お前の隣に、お前は絶対リークもなんもしねえって、妄信信者がいるわけだし」


 私は、縁川天晴を見る。


 痛いところを突かれた。言い返せない。遠岸楽は矢継ぎ早に訴えてくる。


「お前まだ人も刺してないし、冤罪なんだろ? 遅くねえじゃん。絶対死ぬな。生きろ。お前が生きてるだけで、お前のこと叩いてるやつが苦しむなら、思う存分苦しませろ」


 苦しませろ。


 そんな暴論を言い放っているのに、その表情はどこまでも清々しいものだ。


 いつもより早口で力のこもった言葉に、終わりが近いのだと感じる。


「生きて、生き続けて、ずっとずっと生き残ってやれ。お前のこと叩いてる分だけ、そいつらは自分に時間を使えない。誰の為にもならない。惨めに死んでいくんだぜ。完全犯罪じゃねえか。何があってもしぶとく生き続けて、お前を叩くやつら全員自滅させて殺して、堂々と天国に行くんだよ」


 ばーか! と笑い交じりに、彼は光の泡になって消えていく。


 空に昇り、一面の青色に溶けていった。


 それまで彼が立っていた場所は、影一つなく太陽が照らしている。


「成仏、なのかな」


 ざあっと吹き荒れる風が風車を回しているのを横目に、縁川天晴に問う。


「間違いなくそうでしょう。あんな笑顔初めて見ましたよ。彼ずっと、お婆さんにお別れを告げられなかったことが、心残りだったんですね」


 大切な人に、お別れが言えなかった。


 その気持ちは、痛いほどわかる。行ってしまう前に、お別れが言いたかった。


 何で突然私の目の前から消えたの、どうして私のことを連れて行ってくれなかったの、残していくくらいなら行かないでよと、責める気持ちも、そんな自分に嫌気がさすことも。


 そして、何も言わず去りたくなる気持ちも、よくわかる。


 成仏したのだろうから喜ばしいことなのに。心の中に穴が空いたような、世界から取り残された喪失に駆られる。


「せめてあちらの世界では、安らかに在れるといいですね」


「そうだね」


 私は自分が消えるとき、きちんとお別れが言えるだろうか。


 縁川天晴を見た後、私は遠岸楽が消えた空を眺めていた。



◯◯◯



 遠岸楽が消えた翌日、私は一人で病院へ行くことにした。あれだけついて来ようとする縁川天晴は、ついてこなかった。


 普段平日に来れない患者さんだけを診ているらしい休日の病院の受付は静かで、それとは比例して入院病棟は相変わらずの喧騒を見せている。


 ぱたぱたと忙しなく、生かすために看護師さんもお医者さんも足を速め、人を生かす器具を運んでいた。


 さくらちゃんに、遠岸楽のことをどう説明していいか分からない。彼は遠くへ行ってしまったと言って、果たして納得するだろうか。


 私が両親を亡くしたとき、大人たちは両親について、遠くへ行ったと説明していた。でも幼心にもう会えないのだと悟った。


 みんな大人たちは私が幼いから、人の死を理解できないと思っていた。でも、理解していた。


 理解したうえで、反応が出来なかった。


 どうしていいか分からなくて、普通に、玄関とか、どこかへ行った先で顔を出すように思っていた。


 だって今まで、それまでずっと一緒にいたから。朝に一緒に朝食を食べたし、いってきますもいってらっしゃいも言った。その日のドラマの話もした。お母さんもお父さんも、今日死ぬなんて言ってくれなかった。


 遠岸楽も、今日消えるなんて言わなかった。私も、自分の手首を切るとき、何も言わなかった。


 じっと病床に横たわる自分を見つめる。この身体が、私のものであるという感覚すら最近は薄い。


 隣にある装置が私を生きているのだと周りに知らせている。この機械さえなければ、生きているか死んでいるかも分からない。


 踵を返して、硝子天井から光の降り注ぐ廊下を歩く。


 私は遠岸楽のように、心残りがあるから死ねないのだろうか。こんな風に幽体離脱をしているのは、心残りがあるから?


 思い当たる節が多すぎて、分からない。ただ今私が消えたとして、最も心残りなのは、


縁川天晴の存在だ。後を追うと繰り返している。私のせいで、彼を殺すことになる。


 でも、最近はそれだけが理由じゃない。


「君は──」


 振り返ると、さくらちゃんの主治医である噺田先生が目を見開いて立っていた。


 誰か私の前にいるのか、そういえば一番最初も私はこの人にぶつかりそうになっていた。


「果崎、あかりさん」


 視線を戻そうとして、足を止めた。


 私の身体は病室にある。この場で名前を呼ぶ必要はない。そもそも私の目の前にはただ長い廊下が伸びるばかりで、誰も存在していない。


 もう一度振り返る。


 先生は、まぎれもなく私を認識し、見ていた。



◯◯◯



「えっと、つまり君は、幽体離脱の状態と……?」


 あれから、私と先生はベンチに移動した。事情を説明すると、先生は比較的すんなりと事実を受け止めたらしく、疑うことなくこちらに問いかけてくる。


「まぁ、そうなると……思います」


「さくらちゃんが、やけに君の話をするから、もしかして病室に入り込んだのかと思っていたんだが……」


 やはり、さくらちゃんはかなり私について話をしていたらしい。ここが病院で、学校や幼稚園じゃないことが救いだ。幼くたっていじめはある。何があるかわからない。


「はい。彼女は私の姿が、はっきり見えているみたいで……その、この間までは、既に亡くなっている人も、一緒にいて、彼のことも見えていて」


「もしかして、きんきらのお兄ちゃん?」


「はい。彼と話をするのが好きだったみたいで……」


 それ以上、言葉が紡げなかった。


 一瞬であったけれど、遠岸楽と確かに友情に近しいものを感じていたんだと思う。そして今、彼が消えたことをいまいち受け止め切れていない。


「すみません」


「いいんだ。それで、君はどんな風に過ごして……?」


「えっと、縁川さんのところで、居候というか……」


「なるほど。縁川君の家か」


 先生は遠い目を夕日に向けた。彼の兄は、この病院に入院しているらしい。先生の態度からも、重い病気なのだろう。


 退院したという話も聞かなければ、症状についても聞かない。あれだけぺらぺら喋る縁川が、何一つ言わないのだ。


「君は、自分の容態についてどれくらい知っている?」


 ふいに、噺田先生が訊ねてきた。


「えっと、昏睡が続いていると……」


「その通りだ。このまま目を覚ます確率は、正直低いと言わざるをえない。でも、目を覚ましてもおかしくないくらい、君の今の状態は不鮮明で……だからこそ、今君がここにいることに納得するような……難しいが……」


 驚くことはなかったし、先生の気持ちもわかる。


 遠岸楽を見た以上、このままゆっくり死に向かって消えていく気がする。


 いつ目を覚ますかというのは、それこそ幻のような希望だろう。


「非科学的だが、戻れたりはしないのかい。こう、身体に入り込む形で」


「いえ、まったく、わからず……」


 物理的に、問題があるのか、それとも戻りたくないという気持ちの問題なのか。わからない。しばらくの間沈黙を感じていると、先生は「なぜ」と、重い声音で口を開いた。


「死んで、しまったんだ。まだ、若いのに」


 まだ若い。


 その次に言いたいのは、生きたくても生きられない人がいる、だろうか。


 先生は人を生かす仕事をしている。寿命以外で死を迎える人だって、前にする機会は多いだろう。


「死にたかったからです」


 私は答えた。


 生きたくても生きられない。それは痛いほど分かっている。分かっていてもなお、死にたかった。


 だから、手首を切った。


「そこまで死にたいと思うほど、君の仕事は責められるものなのか。さくらちゃんだって、君の話をするたび、ずっと笑顔だったのに」


「人の前に立つ仕事ですから、色んな声があって当たり前です。私は向いてなかった」


 いろんな声がある。そう思って頑張ってきた。私のことを好きな人がいれば嫌いな人もいる。


 でも、すべてが駄目になった。今まで気にならなかったすべてが、気になるようになった。


 結局のところ、私は向いてなかったのかもしれない。SNSだけじゃなく、この仕事にも。


 アイドルとしてみんなを笑顔にしたいけど、叩かれたくない、嫌われたくないと思うことは、私の勝手な我儘でしかない。


「本当に、そうなのか。違うんじゃないか」


 先生のまっすぐな疑問に、私は形容しがたい感覚に襲われた。


 常識を砕かれるようで、返事すら選べない。先生は矢継ぎ早に、言葉を投げかけてくる。


「だって、人の目に触れてるからって、酷いことを言っていい理由にはならないだろう。君たちと同じように、僕らも社会に属している。子供は学校に通う。仕事をしていても、仕事をしてなかったとしても、必ず誰かと関わらなきゃいけない。でも、誰かと関わる以上、酷いことを言われる覚悟を玄関先で問われるなんてことはないはずだ。外で酷いことを言われて傷つく人は、外出に向いてないなんてことはないだろう」


「でも」


「君に、知っておいてほしいことがある。目が覚めた時のために」


 大人に、仕事以外でこんなにも真剣に話をされるのは、何年ぶりだろう。反射的に喉が詰まって、肩に力がこもった。


「悪意のほうが、届くのがずっと速い。気を使う必要がないから。好きだと思って、相手を励ましたいと思って、そのまま最高速の好意を送る人は稀だ。スキルになりつつある。そういう人たちは、誇っていいくらい、本当に貴重だと思う」


 そして先生は、何かを覚悟した瞳で前を見据えた。


「僕は大学生のころ、手紙をもらったことがある」


「え……」


「人の好意が綴られていく過程を、見たことがあった。すごく時間をかけていた。考えながら、消しゴムで消したりして、何度も何度も試行錯誤していた様子だった。立場上受け取ることは出来なかったが、確かにうれしかった」


 手紙。


 長文のメッセージをもらうことが、あった。読むたび嬉しくて、何度も力をもらっていた。


「相手のことが好きで、好きで、でも迷惑をかけたくないと、相手に悪く思われたくはないから言葉を選ぶ。でも、すぐ好意を伝えられる人もいるように、考えて、どうやって相手が苦しむか言葉をじっくりと選んで攻撃する人もいたかもしれない。騒ぎに便乗して、お祭りのようにゲーム感覚で何かをいう人間もいたかもしれない。そして言葉は攻撃的であれど、きちんと君を想って厳しい言葉を投げかけている人もいただろう。すべて、僕の想像でしかない。でも、確実に言えることは」


 先生はそう言って私をまっすぐに見た。


「きっと君に、もっと励ましの言葉をかけたら良かった、考えていないで、ただ好きだと言えば良かったと思って後悔している人間が、必ずいる。不格好でも、泥臭くても、好きだとぶつけてしまえれば良かったと、思っているはずだ」


 後悔をしている人。


 思い浮かぶのは縁川天晴の笑顔だ。信号機が明滅するみたいに、こちらを呪う瞳も浮かぶ。


「死を選ぶほど苦しみぬいた君にこんなことを言うのは、不適切かもしれないけれど……」


「いえ……」


 先生はまた腕時計に視線を落とした。ベルトを付け替えたデザインに見える時計は、女性もののデザインだった。


「ああ、さくらちゃんに会っていくかい?」


「あ、はい」


 突然の提案に、反射で乗ってしまった。


 まだ、さくらちゃんに遠岸楽についてどうやって説明するかも決めてない。遠くへ行ったと言うべきか。手術前のさくらちゃんに、死を伴う言葉は使いたくない。悩んでいると、ちょうど彼女が駆けてきた。


「あーせんせー! 」


さくらちゃんはぶんぶんとこちらに手を振っている。スケッチブックを小脇に抱え、点滴も腕についているから転ばないかひやひやする。


 先生はすぐ立ち上がり、さくらちゃんを受け止めた。


「走ったら駄目だと言っただろう」


「でも、あかりちゃんに絵! 描いたから! ほら見て!」


 さくらちゃんはスケッチブックを開いてこちらに見せる。そこには、さくらちゃんと、私、縁川天晴に、遠岸楽が描かれていた。


 試していないけど、写真に私と遠岸楽は映れなかったと思う。けれどこうしてさくらちゃんと一緒にいたことが形として残ったことが、嬉しい。


 消えていく私は、さくらちゃんや縁川天晴に、痛みを与えてしまうのに。


 遠岸楽は喪失の瞬間を悟っていた。私に今その感覚はない。いずれ分かったとき、縁川天晴になんて言えばいいだろう。


 後は決して追わないでほしい。


 黙って消えても、身体が死ねば報道される。


「絵、描いてくれてありがとう」


「うん! あ、先生も描いたよ!」


 さくらちゃんは、ページをめくって先生に絵を見せた。何かの紙を持った先生が、佇む姿が描かれている。


 答案用紙、かもしれない。


 四角ばった花丸を注視していると、さくらちゃんが口元を抑え、笑い交じりに私に耳打ちしてくる。


「先生ねぇ、花丸かくの下手なの。かくかくしてるんだよ!」


「さくらちゃん、聞こえてるよ? それに先生は花丸描くの下手じゃないの。かくかくさせて、世界で一つだけの花丸にしてるの」


 先生とさくらちゃんのやり取りを横目に、私はそのしかくばった花丸に目を向ける。外側のぐるぐるが三角形になっている特徴的な花丸。


 この花丸。私は見たことが、ある。


 私を助けてくれて──恋心について語っていた、あの女性。


 たしか彼女は、恋文についても話をしていた。


 私に、懐かしい匂いがすると言っていた。


 そんな彼女が肌身離さず持っていた、あの栞。


 ここに描かれている花丸と、同じものだった。



◯◯◯



「僕らを襲った悪霊が、噺田先生の関係者?」


 家に帰って、私は早速縁川天晴に今日のことを報告した。あの女性が持っていた栞に描かれた花丸を先生が描くことや、彼女の語った地元へのエピソードと、類似点が多いこと。すべてを。


「たぶん、あの人が会いたがってるの、先生かなって」


「仮にですよ? もしそうだとしたら、どうするんですか?」


 縁川天晴は、ベッドに座り、湯のみでほうじ茶を飲んでいる。


「会ったほうがいい気がして……」


 縁川天晴が、テーブルへ湯のみを置いた。私をじっと見つめ、「危ないかもしれませんよ」と付け足す。


「彼女は、貴女を襲ったんです。その事実は変わりません」


「でも、助けてくれてたんだ。私の話してる大学生くらいの人たちに、物を投げたりして」


 彼女は私たちを襲おうとした。でも、私を助けてくれたのも事実だ。


 助けたいと思う気持ちがなければ、実体がない者たちはこの世界に関われない。


 あの瞬間確かに彼女は、私を助けようと思ってくれた。


「僕がいないときに襲われたんですか!?」


「いや、そこは気にしなくていいよ」


「また守れなかった……」


 肩を落とし始めた縁川天晴に、私は近づいた。あの日染めた髪はすっかり馴染んでいる。相変わらず学校には行ってないけれど、クラスの人からメッセージは来ているようで、「通知音聞いてるとひりひりするんですよ」なんて、切ってるようだった。


「遠岸楽と同じです。僕も間に合わなかった。肝心な時、僕はいつも貴女に間に合わない」


 彼は、自分の手のひらを見つめている。


「ごめん、でも、どうしても気になるんだ。先生のことも、彼女のことも」


 私はあの人を救う方法を、知っている。そして先生の救いになるかもしれないことも。


「二度はないです。僕は貴女を傷つける人が嫌いなので」


 ぽつりと、縁川天晴が呟く。


「でも、貴女を助けてくれた人は、好きです」


 そして、ゆっくりとこちらに視線を合わせた。


「ありがとう」


「本当に、二度目はないです。こんなこと推しに言うのあれですけど、危険なことは、してほしくないので」


「ごめんね」


「謝罪はいいです。こんなこと推しに言うのあれですけど」


 縁川天晴は先ほどと同じ言葉を繰り返す。


 間に合わない。何のことかを言っているかは、よくわかった。


 彼は震える手で、自分の親指と人差し指をすり合わせる。


 この手は、止めたかった手だ。


 私の、死を。



◯◯◯



 花丸の共通点を見つけた翌日、私はある場所に寄ってから、また病院へ向かった。噺田先生は回診を終え、中庭で遊ぶ子供たちに一人ずつ声をかけて歩いていた。


 ゆっくりと歩く背中に声をかけると、静かに振り返る。


「さくらちゃんの手術は午後だよ。ずいぶん早くに来たね」


「えっと、今日早めに来たのは、先生に用があって……」


「なら、そこのベンチに座ろうか。悪いけど最近筋肉痛がひどくてね、長い時間立ち止まるのはつらくて」


 中庭は、うっすらと膜をはったような曇り空に覆われていた。太陽も遮られ、わずかに光が漏れている程度だ。


 先生は私をベンチへと促し、座った。座る動作に痛みが伴うのか、力をこめながら神経を尖らせ腰をおろしている。少しずつ背もたれに身を預けてから、先生はこちらに振りむく。


「それで、話というのは」


「先生は、家庭教師か何かをされてたことが、ありませんか」


 確信を持ちながら問いかけると、先生は痛みを感じたように一瞬顔を強張らせた後、静かに頷いた。


「よく分かったね。何か。そういう感覚が鋭いのかな」


 苦笑気味に肩をすくめて、先生は話を続ける。


「僕は、学生のころ教師になるつもりだったんだ。親は医者だから、それを押しのけてね」


「学校の、せんせい……」


「教育学部に入って、僕はバイトを始めることにしたんだ。親は医学部に受からなければ学費は払わないと言っていたし、家は追い出された。学費はまぁ奨学金でなんとかなっても、家賃までは賄えないから」


「大変……でしたね」


「うん。両親は俺が泣きついてくるのを待ってたんだよ。でも、意地悪でしてた訳じゃないと思う。代々医者の家庭だったし、教師は薄給。精神的負担もあるからね、不幸になってほしくない気持ちが強すぎたんだろうね」


 確かに、お医者さんの先生も大変そうだけど、学校の先生も大変そうだなと思う。小学校の頃は、生徒が授業を終えたらてっきり帰ってるものだと思っていたけど、許可証とか、保護者の判子がいるプリントを仕事終わり……夜の九時ごろ学校のポストに入れに行ったとき、普通に電気がついていた。


 それに教師の自殺率が高い……みたいなニュースも見覚えがある。


 元々希死念慮があったわけではなく、優しくて生徒に寄り添える先生がある日突然自殺してしまって残された生徒がショックを受けたりとか、真面目すぎた……とか。 


「僕は家庭教師のバイトを始めたんだ。そこで、ある女子生徒に出会ったんだ。あまり学校に行けないから、自習を見てやってほしいと言われてね」


 教育学部に入って、さらに家庭教師のバイトをする。よほど先生になりたかったんだろう。


 今、先生は学校の先生じゃない。でも初めて見た時から、どことなく学校の先生っぽいと思ったのは、先生の雰囲気とか抽象的なことではなく、話し方とか物理的なものなのかもしれない。


「彼女は、僕が教える必要なんか無いんじゃないかってくらい優秀だった。でも、実習問題は苦手だった。暗記教科が好きで、科学や物理の計算も問題なかったけど、図形と証明問題、連立方程式のあたりで躓いていてね。問題集を見てやり方を読み込むよりも、実際の授業を見たほうが分かりやすいものは、やっぱり苦手になっていたんだ」


 確かに、数学などは参考書を読むだけじゃ分かりづらい。動画を見たりして今は勉強してるけど、先生が大学生の頃は動画サイトもなかったように思う。


 もし今、動画サイトが無かったら、私も勉強できていなかった。一人だったら、駄目だった。


「だからか、そういう問題は必死に質問してきてね、ここが分からない、どうしてこうなるのとよく質問攻めにされた。彼女は申し訳なさそうにしていたけど、僕はずっと理数系の人間として生きていたから、得意分野でありがたいくらいだった」


「得意分野……」


「苦手はあるからね、誰にでも。彼女はめきめき成長していったよ。こんなに教えがいがあるなんてってびっくりするくらい、どんな問題も解けるようになってね。大学受験の問題だけじゃなく、大学生が手こずるような問題にも挑戦するようになった」


 先生は嬉しそうに、遠くを見て話す。


 先生には、大学生の頃、生徒に教えていたころの光景が見えているのかもしれない。真黒なはずの先生の目は、夏の太陽を映して輝いている。


「ネットなんて無い時代でね、僕は彼女に数学の参考書を買ってあげた。家庭教師として、生徒に渡すにはレベルの高いものだったけれど、彼女の可能性を狭めたくなかったんだ。ただでさえ同い年の子は、プールへ行ったり海水浴へ行ったりしているのに、その子の世界は一部屋だけだったから」


 一部屋だけの、世界。


 さくらちゃんのことを思い出す。彼女は殆ど外の世界を知らないと言っていた。


「その時に、近くでやっていた数学の展示の話をしたんだ。近くでやってるんだと。先生は行くのか聞かれて、見に行けないと答えた。教育実習の準備に母校へ行かなくちゃいけなかったから。でも物販は開かれていたから、その子にボールペンを買ってあげようと思って、反応を見るために聞いてみたんだ」


 流石に、なんだこれって思うものはあげられないからね。先生は苦笑しながら話を続ける。


「分度器のマスコットがついたボールペンが売られているなんて話をして、その子は子供っぽいからなんて言ってて、先生はいいと思うなんて軽口で言ったんだ──それが駄目だった」


 先生は声色を落とした。


 すぐに分かった。先生のターニングポイントは、選択は、ここがきっかけだったのだと。


「彼女は、参考書のお礼がしたいと思ってしまったんだ。いい子だったから。優しい子だったのに。身体が弱いのに、猛暑日の展示に向かう途中で、亡くなってしまった。軽い熱中症にかかることが、命に関わる子だった」


 ちょっと熱中症になったっぽい。そう言うくらい、ありふれたものだと思っていた。


 予防のために水分を取ろうと言い合うことはあれど、緊迫とした気持ちは持ち得ていなかった。私はどう返事をすればいいのか、返事をすること自体正解なのか分からなくなって、押し黙る。


「後で聞いた話なんだけど、両親は大学を受験させる気はなかったらしい。それまで……大学入学を迎える年まで生きれるほど、彼女の臓器は機能していなかった。僕が彼女の寿命を、縮めたんだ」


「違いますよ。先生のせいじゃ──」


「僕はバイトも、大学もやめた」


 私の否定を拒絶するように、先生は静かに私を見返した。


「そのままアパートで何もせず過ごしていたら、家賃を滞納していたのを親に知られて、実家に引き戻されたんだ。それからは、もう、何かを考える時間が怖くて、親の望むままに医大の再受験に打ち込んだ。そこで落ちてたら、何か変わってたかもしれない。でも僕は医大に受かって、医師免許を取って、今ここにいる。患者さんを、診てる」


 先生はそう言って、中庭で過ごす子供たちに目を向けた。この病院には、先生や看護師さん、病院で働く人たちの子供たちの為の幼稚園があるらしい。その子たちと、病院に入院している子供たちが、花壇を見つめたり、散歩をしている。


「怖くて逃げたのか、使命感にかられてかは分からない。親は喜んでいたよ。医者になるのを望んでいたから。僕も心地よかった。誰かのお願いを聞いて動けば、誰かのせいに出来る。自分は悪くないといえるからね」


 先生は、笑みを浮かべた。柔らかな笑みに反して、その手は固く握りしめられていく。声色にも後悔ややりきれない思いが滲んで、抱えている苦しみに拍車をかけるように、言葉を絞り出している。


「ただ、何人救っても、救っても、救っても、私が殺したあの子の顔が浮かぶ。皆言うんだ。お前は悪くない。でもそんなもの意味がないんだよ。あの子の許ししか、意味がないんだ。そしてそれは永遠に手に入らないから、僕はここにいる。亡くなったひとに囚われていたら、救える患者すら見失ってしまう。わかるんだ。自分が医者に、人に関わる仕事に向いていないということが。でも、最後の最後まで、どうしていいか分からないままきてしまった。だから言える。君は人に関わることに、向いていると。向いていないのは、人殺しの僕のほうなんだ」


 最後の最後まで。その言葉の響きに、重さと覚悟を感じた。そんなわけない。ありえないと思いながらも、このまま手術をしなければ死んでしまう の笑顔が、妙に思い浮かぶ。


「君が見える理由はよくわかるよ。僕は死に近い。余命宣告が下りたんだ。時間はもう残り少ないらしい」


「先生──……」


「だから病院も……もうやめるんだ。今日で、退勤になる。表向きは実家を継ぐことになっているけれど、診察中に倒れるわけにはいかないからね」


 先生が、死ぬ。


 なんとかならないのかと思うけれど、お医者さんである先生がその手立てを知らないはずがなかった。私は俯いて、自分の手のひらをぎゅっと握りしめる。


「死んだら、あの子に会えるかな。会って謝りたい。あの子は、僕になんて会いたくないかもしれないけど、会って謝りたい」


「なら、会ってみては、いかがですか」


 いつかの、縁川天晴のように呟く。先生は「え」と声を漏らす


 声色に期待が込められているのを感じた私は、そっと微笑んだ。


 私の背後の空気の密度が、わずかに濃くなる。


 女性はいつも、特徴的な花丸のしおりを手にしていた。何かの答案……それもテスト用紙ではなく、ルーズリーフの線の入った紙を、ラミネートするようにした手製のものだ。わざわざそれを首から下げていたのだから、会いたくないわけがないだろう。


 寂しい寂しいと、死に損ないの私を連れて行こうとしたのは、怨霊としての便宜上ではなく、先生と関わった残り香みたいなものを辿っていたからかもしれない。


「彼女はずっと先生に感謝していました。恨んでなんていません」


 そう言って、私はそっとベンチを立った。道の先には、彼女がいる。


「先生……」


 女性の瞳は、これまでの渇望や執着が嘘のように晴れていた。ただただ、誰かに恋をする少女のあどけなさで、先生の名前を呼ぶ。


「お医者さんに、なったんですね。おめでとうございます」


 鮮やかな恋する乙女の笑顔で、彼女は噺田先生を祝福した。 先生は、首を横に振る。


「違う、わたしは、逃げだだけだ。君の死がつらくて、君を思い出すたびに生きていけなくて、教師という仕事ことから逃げただけなんだ」


「そんなことないです! 先生は、私の先生は優しい人です。逃げたんじゃない。きっと心のどこかで、私が死んだのを、自分のせいだって思って、私みたいに死んじゃう人を減らそうとして、お医者様になったんです。私の希望も入っちゃってますけど、きっとそうです。先生は逃げてない!」


 ぶんぶんと顔を横に振って、彼女は噺田先生の言葉を否定する。先生は静かに目を閉じて、息を吐くと瞳から涙を溢れさせた。


 手で目を覆い、嗚咽を漏らす。


「待ってて、くれないか。きっと僕ももうすぐ、そっちに行くから」


「いやです!」


 彼女はきっぱりと断った。そして溌剌と、優しく微笑む。


「ゆっくりで、いいです。先生が病気なのは、今聞いてました。でも、なるべく苦しくないように、たくさん、たくさん優しい中で、過ごしてから来てください。そしてまたたくさん、前みたいに色んなお話し、聞かせてください」


 やがて、彼女から、まばゆい光があふれ始める。遠岸楽の時と同じだった。人がこの世界から去っていくときの光だ。


 それを先生も理解してか、首を横に振る。


「待ってくれ、僕は、君に──」


「さよなら、先生。私、先生のこと恨んでいません。先生が、学校の先生になれなかったのが、残念なだけ。でも、私だけの先生かなって、思っている自分がいて──先生、わたし」


 ──先生のことが好きです。


 そう彼女は口にして、光に溶けて消えていった。涙を流しながら先生は空を見上げている。


 いつも瞳に帯びていた悲壮さは、光の瞬きとともに消えていた。 



●●●



 先生と別れ、私は縁川天晴と一緒に、さくらちゃんの麻酔が切れるのを廊下で待った。


 よくドラマでお医者さんが手術室から出て「成功です」と伝えるシーンがあるらしいけれど、手術室の前で待つことは出来ず、さくらちゃんの両親は彼女の病室で、近親者ではない私たちは廊下で待っていた。


 手術自体は、特に何事もなく終えたらしいけれど、それでも不安になってしまう。


 かちかちと時計の針の音に耳をすませていれば、やがて病室の扉ががらりと開けられた。


「おにいちゃん!!」


 さくらちゃんが飛び出てきた。麻酔が切れたばかりだというのに、お母さんとお父さんの制止を振り切ったらしい。べたべたと地面に手をつきながらも懸命に私や縁川天晴を探している。


「ここにいるよ、病室に戻らないと…天」


「お姉ちゃん、どこにいるの!? ねえ!」


 彼女は声を上げる。


 私は目の前にいるのに。


「お姉ちゃん? どこ」


 さくらちゃんは、まるで私なんて見えていないかのように、辺りをきょろきょろ見回した。私は確かにここにいる。


 目が見えてない?


 手術の後遺症で?


 慌てて考えを巡らせる間に、縁川天晴がすっと私の前を横切った。


「お兄ちゃん、お姉ちゃんどこ?」


「お姉ちゃんも、実は入院してるんだ。でも大丈夫、きっとすぐに会えるよ」


「だいじょーぶ……?」


 さくらちゃんは安心した様子で、目を閉じた。


 手術は成功した。さくらちゃんは、私が見えなくなった。


 さあっと血の気が引いてきて、私は縁川天晴の横顔に視線を向ける。


 余命幾ばくもないらしい先生が、私について徐々に見えるようになったと言っていた。


 弁護士さんは私が見えなかった。


 遠岸楽のお婆さんは、彼や私の存在をうっすらと感じていた。


 寺の血筋で、なおかつ住職をしている縁川天晴のお父さん、そしてお弟子さんは、私は見えなかった。


 でも、縁川天晴だけは、最初から私も遠岸楽も、あの女性のことも見えていた。


 幽体は、誰かを助けたいという思いで物理的にものに触れられる。


 そんな幽体を見られる誰かは、みんな等しく死に近かった。


「うん。大丈夫だよ。あかりちゃんは生きてる」


 そう、縁川天晴は初めて会った言葉を繰り返す。


 繰り返してから、私を見る。


「嘘つき」


 私は咄嗟に、縁川天晴へ呟く。


 否定の言葉は返ってこなかった。





 私たちは、ゆっくりと病院の外を歩くことにした。さすがに中庭でぶつぶつ話をさせるわけにはいかない。聞きたいことは山程ある。


「寺生まれだから、じゃないでしょ」


 落ち着いて、真実を知りたい。なのに力がこもって、責めるような口調になってしまった。縁川天晴の表情は、不気味なくらいいつも通りだ。


「さくらちゃんが私のことを見えてたのは、手術する前で死に近かったから。でも手術終わって死ぬ可能性がなくなったから、見えなくなった。先生は、始め見えなかったらしい。病気が進行していくにつれ、見えるようになったって聞いた」


「そうなんですか」


 しらばっくれる口ぶりに、嫌気がさした。空は雨が降り出しそうで、いつもいつもこの空は私の大切なものを奪っていくのだと、手のひらを握りしめる。


「貴方が私が見えるのは、病気だからじゃないの」


「恋の病、とか?」


 おそるおそるといった口ぶりなのに、本質ははぐらかしてくる。


 今までずっと私は縁川天晴のことを、弱気なわりに、変なところでこだわりが強いと思っていた。


 でも違う。こだわりが強いんじゃない。


 縁川天晴は、ずっと──、頑なに自分の秘密を守っていた。


「死に近いんでしょう。天晴が」


 彼は私に隠していたのだ。自分が病気だということを。そこだけは徹底していた。


「違うなら、違うって言って」


 返事がほしい。


 否定してほしい。そんなわけないって。自分はずっと生きてるって。


 でも、私のほしい言葉は、一つも音にならない。


「……なんで黙ってたの」


「推しに自分語りするなんて、厄介ヲタクの極みですよ。ろくでもないじゃないですか。困らせたくないし。ただでさえ、オフの推しに声かけてるんですから。ヲタク失格です」


 あははと、軽く笑う。そして、私を諭すように語り始める。


「確信はあったんですよ。寺の人間に貴女の姿が見えないことや、先生が徐々に貴女を認識し始めたこと。きっと貴女が見えるのは、僕の時間が残り少ないからだろうなって。さくらちゃんの手術が成功したならば、きっと彼女は貴女が見えなくなるって」


 軽く笑ってしまえるほど、もう縁川天晴の中に死は確定事項としてある。


 まともに取り合ってくれていないことがもどかしくて、窒息しそうになった。


「よく子供は目に見えないものも見えるって言うじゃないですか。病院という立地のわりに、貴女を認識している人は少なかったし、霊感由来ということに賭けてたんですけどね……」


 自嘲的な笑みに、心臓の奥が痛くなる。喉が、焼けるように熱い。自分が今怒ってるのか、泣きたいのか分からない、ぐちゃぐちゃだ。


 彼は学校に通ってないと言っていた。学校に通えないけど、学校に問題があるだけだからネットにいたり、高校に行く準備をしている人はいくらでもいる。天晴も、いじめられたり友達が出来なかったりして、今の生活をしているのだとばかり思っていた。


「兄は、いないの」


「はい。嘘です」


 もしかしたら縁川天晴は、今日みたいに自分が暴かれる日を、想像していたのかもしれない。なにも動じず、彼は認めた。


「どこが、悪いの」


 黙ってたことに、憤りはある。嘘をつかれたことも。


 でもそれだけじゃない。気づけなかった自分が、一番憎い。


 今思えば、気付けるきっかけはいくつもあった。微塵もその存在が感じられない兄の存在に、先生の言葉。私の危険を感じたら必ずそばにいるよう言ってきたのに、病院では突然姿を晦ましたり別行動をしたがった。


 よく考えれば、調べようと動けた。


 気になったはずだった。


「心が悪いって言ってたけど、心臓のこと……?」


「酷いこと言いますね。心が悪いなんて心外ですよ。ショックです」


「話を逸らさないでよ!」


 怒鳴りつけて、ようやく縁川天晴の視線がこちらに向いた。その表情は、全部受け入れたあとみたいな、彼はもう、ただ死を受け止め、過ぎ行く時間を待つ人の顔をしていた。


「どれくらい……」


「え」


「あと、どれくらい生きていけそう……?」


 声が、震えた。立ってられない。苦しい。


 この世界から、縁川天晴がいなくなる。去年まで知らなかった。認識していなかった。


 でも耐えられない。彼が死ぬことが。


 彼はまだ生きている。でも耐えられない。彼の命がもう少ない事実が、どうしようもなく受け入れがたい。


「終わりなんてない、ただ明日を真っすぐに生きていこうって、貴女がデビューシングルで歌っていたんですよ」


 小さい子をあやすみたいに縁川天晴は、困った様子ではにかむ。


 まるで聞き分けがないことを私が言ってるみたいで、彼が死ぬことが絶対覆らないようで、ぼろぼろと涙がこぼれた。


「……短いってこと?」


「あらやだ。推しに心を読まれてしまいました」


 ふざけた声色なのに、悲しい。


 何も言えず涙ばかりが流れて、どうしようもないほどの無力さに、ただ手のひらを握りしめる。その手に、縁川天晴の手が重ねられた。


「別に、すぐ死ぬというわけじゃないですよ。手術の道も残ってるんです。ただ、決心が鈍るというか……」


「なんでよ。手術すれば治るんじゃないの? 何が問題なの」


「小さいころから、わりと全部……いろいろ未発達というか。客観的に言って、耐えられるか微妙なんですよ。ほぼ耐えられないと言っていい。さくらちゃんの手術は間違いなく彼女を生かす手術ですけど、僕の場合は殺す手術になりかねないんです」


 爪先から、どんどん体温が地面に吸われていくみたいに冷えていく。


 死んでほしくない。


 ずっと生きていてほしい。なのに、耐えられないなんて。


「……一生推すって言ったじゃん」


 不貞腐れた声色で、意味もなさない言葉を吐く。


 してない約束を、したと言いかがりをつける。


 私はどこまでも子供で、縁川天晴はどこまでも穏やかな態度を崩さない。


「はい。ヲタクは一生推しを推して、死んでいくんですよ」


「そういうんじゃない。もっと長く、長く生きてよ。なんで……なんで……」


 どうして、貴方が死ななきゃいけない。


 そんなに悪いことなんてしてないはずだ。


「なんだか告白されてるみたいです。推しにリアコされる錯覚が見られるなんて驚きです」


「そうだよ」


 好きだ。


 私は彼のことが。


 ファンに恋をするなんてありえない。


 それは、ほかのファンへの裏切りだ。恋人なんて作らない。もし恋人ができたり結婚するようになったら、絶対に言わないし隠し通す。果崎あかりは、ファンの人が一番大切で、それ以上に大切な存在はあってはならないから。


 普通の恋人でいられない。相手に負担を強いる。


 だから好きな人なんていらない。そう思ってた。


「好きだよ。好きだから、生きてほしいんだよ。それだけでいい。それだけで十分なの。健康で、普通に生きててくれたら、それで」


「果崎あかりは、皆のアイドル、でしょう」


 そっと彼が、私の肩を押した。応援して、推してくれて、私の背中を押してくれた手で、線を引く。


「単推しヲタクは一人に一途ですけど、アイドルは一人に固執しちゃだめですよ」


 優しい拒絶に、涙が出た。


 これ以上同情するな、自分に心を向けるなと静かに線を引かれている。


「別に、結ばれたいなんて望んでない。でも、生きててよ。何で、何で死んじゃうの」


 死に損なって出会ったのが、縁川天晴で良かった。でも、死んじゃうなら見えてほしくなかった。


 知り合いになれなくてもいい。推されなくていいから、私の知らないところでいいから、ずっと生きていてほしかった。


「生きててよ。なんで、なんでよ。なんで死んじゃうの」


 泣きながら欲しいものを強請る子供みたいだと自分でも思う。でも止められない。苦しい。生きててほしい。天晴がいない世界なんて考えられない。


「どうして、天晴は──」


「僕だって、そうですよ……」


 唸るような声に、追及の手が止まった。


 顔を上げると、縁川天晴は私をまっすぐ射貫いていた。


「僕だって、そうですよ!」


 押された肩を掴まれる。前を見れば縁川天晴が泣いていた。大粒の土砂降りのような雨と共に響く雷鳴のように、声をあげる。


「僕だって貴女に生きててほしい。生きようとしていて欲しかった! 黙ったままでいい! 謝らなくていい! 何か言うのに絶対事務所通さなくちゃいけなくて、黙ってなきゃいけないってのも、ファン皆分かってますよ! 俺らが弁明して、信者が必死になってるからって貴方が悪く言われないようにって僕らは黙ってた! でも、自分から死のうとしないでほしかった!」


「天晴……」


 縁川天晴が喜び以外で感情的になっているところを、初めて見た。怒鳴りつけるように、彼は拳に力を込めた。


「貴女のことが好きで、でも説明してほしいって奴らも確かにいた! でも僕は貴女が黙ってても良かった! なんの説明が無くても、僕は貴女を信じる! 信じた! なのに、なのに手首を切ったってなんですか。僕たちが気付けなかったのが悪いかもしれない。しつこいと思われても、コメントをもっと送ってれば良かった。ブロックされても好きだって、DМが罵詈雑言で埋まる前に、僕のコメントで埋めてれば良かったって、ずっと、ずっと思ってます! でも、僕らが反論して、貴女はそんなことしないって言っても、あいつら信者だからって聞く耳も持たない! どんなに説明してもバカ信者って言われて終わりですよ。貴女のことなんて何も知らない、アンチですらない浅い、あっさい奴らが! 僕たちが貴女を守ろうとすることを、貴女の為にならないなんて言う! 中立気取って正義気取って! 貴女を肯定することを咎めて! 挙句の果てに貴女が悪く言われる! どうしたらよかったんだろうって、貴女が自殺しようとしたって聞いてから、ずっと思ってます! 貴女を責めた奴ら全員、殺してやりたい。苦しめて、もう二度と貴女が視界に入れないように、ぐちゃぐちゃにして消してやりたい。でも、でもそうなったら果崎あかりのファンがって、貴女の名前が出されるじゃないですか。それしかないですよ殺さない理由なんて。法律なんて関係ない。人生なんてどうでもいい。それくらい、貴女に全部捧げられる! 責められると真っ暗になって、ひどい言葉ばかり目につくんだろうなって、分かりますよ。僕が想像も出来ないくらい、今までも酷いことされてたんだろうなって! だから僕は、貴女のしたことをとやかく言う筋合いなんてないのかもしれない! それでも!」


 縁川天晴は、私の手に触れる。そして、静かに私を見上げた。


「……それでも、生きようとして欲しかった。果崎あかりには、何があってもちゃんと応援してるファンがいるって、信じてほしかった。身勝手だって分かってます。貴女の絶望を、俺は本当の意味で知ることが出来ない。アイドルじゃないから。でも、死のうとなんて、しないでくださいよ……なんで、自分から……」


 縁川天晴は、しゃがみこむ。


 置き去りにされた子供みたいに。拳を握りしめて、苦しみを抑えながら俯いた。


「ごめん」


 私はそんな縁川天晴に近づく。涙が溢れて、視界が滲む。


「ごめんなさい……」


 死のうとしたことを思い出すたび、どうして死ねなかったんだろうと思っていた。


 両親を前にして、後悔に苛まれそうになった時は、死ななきゃ迷惑をかけてしまうからと誤魔化していた。


 でも初めて、死ぬ以外に選択肢はなかったのかと、思ってしまった。


 私はアイドルとして、彼の生きる希望になりたい。彼の支えになりたい。


 ただただ、縁川天晴に生きていてほしい。


「僕は、もうどうしていいかわからない」


「天晴──」


「僕は、自分の人生に後悔はありません。推しを推して死ねるなら本望だった。でも今は、分不相応にも程がありますけど、貴女を孤独に追いやってしまうんじゃないかって怖いんです。でも、貴女がこの世界からいなくなるのなら、僕は死にたい。だからどう生きていいか、わからない。どうしていいか、わからない」


 彼は凪いだ瞳で淡々と自分の絶望を語る。その陰りは私の行動が与えたものだ。


 両親のもとへ行きたかった。


 痛いことは怖いけど、明日寿命ですと言われれば喜んで受け入れることが出来た。


 アイドルとして在ることが、存在理由でありこの世界で生きていていい赦しだった。


 炎上で、「生きていていい理由」と「死んだほうがいい理由」の比重が、簡単に逆転した。


「あいつらに復讐してやりたい。あいつらを踏み台にして貴女をどこまでも高く、ゴミみたいな奴らの手の届かない光の先に飛ばしたい。なのに僕は、その力がなにもない。なにもできない。僕はずっと、透明な、なにもない存在でしかない」


 あの時踏みとどまれていたら。


 目を閉じてあの日を思い出して、もう少し待っていたらと後悔に苛まれる。そうしたら、私は彼と出会うことはなかったけど、死ぬこともなかったかもしれない。


 私が死ねば全部好転すると思った。でも逆だ。何にもならなかった。


 彼から、生きる気力を奪ってしまった。


「私は──」


 何を言うかも決めてないままに、私は縁川天晴を呼びかける。でも、彼の後ろに建つ病棟の廊下に、見慣れた人の影が横切った。


 葬列に並ぶように生気の抜けた顔で歩くのは、遥だ。彼女は遠くからでも分かるほど虚ろな瞳で歩いている。幽霊と見間違うほどの異質さに、私は言葉を止めた。


「あかりちゃん……?」


 ずっと病棟の窓を見つめる私に、縁川天晴も病棟へ振り向く。


「あいつ、何かする気じゃ……」


 縁川天晴が苦々しく唸りながら、病棟へ駆け出した。彼は、走っていい体じゃない。私は彼の名前を呼びながら慌てて駆け出す。


 でも縁川天晴は驚くほど速くて、追いつけない。今まで彼が走っているところを見たことは一度もなかった。こんなに足が速かったのかと思い知りながら、私は彼を追いかける。


 看護師さんが止めてくれればいいのに、病棟には誰もいない。


 人員不足を看護師さんが嘆いていて、話半分で聞いていたことを悔やみながら、私は腕を何度も振り上げる。


 私が花が好きと言ったら、花屋になろうとしたファンがいた。ライブで看護師さん大好きって言ってれば、少しくらい看護師さんになろうとしてくれた人がいたんじゃないかなんて考えてから、前まで見ないようにしていたファンのみんなの存在を意識していることに気付いた。


 それは間違いなく目の前の縁川天晴や、もう私が見えないさくらちゃん、ほかにもみんなのおかげだ。でも一番私を取り戻そうとしてくれた縁川天晴は、前を駆けていて手も届かない。


 私は胸に巣食う後悔を抱えながら走っていく。やがて病室に辿り着くと、遥が私のそばに立っているのが見えた。病室の外で、縁川天晴がその様子を窺っている。


「巻き込んでごめんなさい」


 遥は、私のベッドのシーツを握り締めていた。縁川天晴は声を潜めながら、「ずっと謝っているんです。貴女に」と耳打ちしてくる。


 遥が謝っている──?


「貴女は、私がリークの情報を流したと思っているんでしょうね……」


 彼女は今まで機嫌が悪いことはあれど、俯いたり、こんなにも虚ろだったことはない。


 何かある。


 私が一歩踏み出した、その瞬間のことだった。


「もう、終わりにしてあげる。巻き込んで、ごめん」


 遥が、私に繋がれた管へ手をかけた。


「今、楽にしてあげるから」


 優しい声に、引きずられそうになる。でも、「やめろ」と怒鳴りつける強い声が響いて、ハッとした。


「あかりちゃんに、触るな!」


 縁川天晴が飛び出し、とっさに遥の手を押さえる。血走った瞳をしながら、彼は遥にに怒りをぶつけた。


「なんなんだよお前っ、あかりちゃんの命まで奪わないと気が済まないのかよ!」


 自分に言われているとすら錯覚するほど、鬼気迫る叫びだった。


 責められた遥は、顔を歪めて首を横に振る。、


「違う! 私はそんなこと望んでなかった! あかりが私のことリークしたなんて思ってない! それに私はずっとアイドルを──!」


 遥は、言葉を飲み込んだ。彼女のスマホから、けたたましいほどの通知音が鳴り響く。ダイレクトメッセージの、通知音だ。


 一瞬、彼女と視線があった気がした。けれど彼女は手に持っていたスマホを壁に叩き付け、激情をぶつける。


「うるさい! うるさいよ全部! 全部嫌! みんな死んじゃえばいい! 私に指図しないで! みんな大っ嫌い!」


 遥は、思い切り縁川天晴を突き飛ばした。壁へと叩き付けられる形になった彼は、床に倒れこむ。


 私はとっさに縁川天晴の前に飛び出した。遥の勢いは収まらず、私のベッドに置いてあった松葉杖を掴んで振り上げる。


 このままだとすり抜けてしまう。手が届かない。嫌だ。縁川天晴が危ない。


 そんなの絶対に嫌だ。


 とっさに手を伸ばす。その瞬間、フラッシュのような強い閃光が周囲を遮った。


 そのまま激しい水流に飲み込まれる錯覚に陥る。


 とっさに手のひらを強く握りしめ、久しぶりに感じた布の感触に驚き目を開くと、ぼんやりと揺れ動く遥の背中が見えた。


 さっきまで、遥の目の前に立っていたはずなのに、まるでベッドに横たわりながら彼女の腕を掴んでいるような視界だった。


「あかり」


 遥が、私を見ている。


「戻った……」


 縁川天晴も、唖然としていた。


 私は、掴んでいる。手の中の感触で、今まさに私は自分の身体に戻ったのだと理解した。


 遥は、ただただ驚いて目を見開き、首を横に振った。


「違う。殺すつもりじゃなくて……私は、迷惑かけたから楽にしてあげたくて、だって、苦しいから、違うの……もう嫌……なにもかも嫌!」


 遥は、怯えているようだった。目には涙を浮かべ、ぽたぽたと滴が真っ白な床に落ちていく。


「私は、巻き込むつもりなかったの……違うの、こんなつもりじゃなかったのに!」


 鮮烈な訴えに、心が騒然として動きを止める。やがてぱたぱたと人が駆けてくる音がして、遥は逃げるように病室から出ていく。


「あ、あ、あかりちゃん、も、戻って……」


 縁川天晴が近づいてくる。声が出ない。なんとか呼吸だけを繰り返した後、私はようやく言葉を発する。


「あ、あの子、私のこと……一瞬……見えて……」


「じゃあ寿命が近いってことですか?」


 それは分からない。もしかしてだけど、自殺しようとしてるのかもしれない。身体のタイムリミットだけじゃなくて、心が限界だったら、たぶん──。


 私はベッドから降りようとした。けれど、全然力が入らなくて転がり落ちる。縁川天晴が慌てて飛んできて、身体を支えてくれた。


「ありがとう……」


「ほら、ベッドに戻ってください! 今ナースコール押しますから!」


 縁川天晴は私をベッドに横たわらせようとするけど、私は首を横に振った。


「探しに、行かなきゃ……」


「無理です! 死んじゃいますって!」


「……もう死なない。後追いされると困るから。それに──」


 縁川天晴の腕を掴んだ。


「好きだから」


 だからこそ、遥が心配だ。大切な人間がある日突然いなくなる怖さを、やっと感じられるようになった。


「ごめん──見逃して」


 私は、さっき縁川天晴を傷つけそうになっていた松葉杖に手を伸ばす。すると、彼が松葉杖を取り、こちらに渡してくれた。


「二度目はないって言った時、うんって言ったのに。貴女こそ嘘つきじゃないですか」


「……ごめん」


「危ないと思ったら、僕は貴女を優先します」


「ありがとう」


 私たちは、病室を出ていく。寝ていたのは一か月と少し、それなのに歩くのすらままならない。


 幽体の時より地に足がついている感じがしなくて、松葉杖を握り進んでいくのがやっとだ。身体が重くて、吐き気が止まらない。


 病室の廊下は、しんと静まり返っている。真っすぐなはずなのに、ぐにゃぐにゃする。


 看護師さんたちは患者さんの対応をしているらしい。遠くの廊下で足を速める姿がちらりと見えた。


「看護師さんが見たら、たぶん声をかけると思うから……」


 遥はどうやって病室に入ってきたのだろう。診療中ならまだしも、こんな時間、病室まで来ることは出来ないはずなのに。


「どうして、遥は、病室に……」


「もしかして、夜間救急に紛れたのでは」


「あれ、でも夜間救急って……」


「第三土曜日だけは受け入れてるみたいです」


 なら、夜間救急の通路を使って……?


 視線を向けると、言葉に出さずとも縁川天晴は、「ですね!」と、夜間救急と直結しているエレベーターに視線を向けた。


 エレベーターがどこの階に止まっているかを示すランプは、八階、七階、六階……とどんどん下がっていっている。


「俺階段で行ってきます! あかりちゃんはエレベーターで来てください」


 縁川天晴は、そう言うなり非常口に向かって駆け出した。


 私は焦燥にかられながら、エレベーターのランプを見つめる。そばにはエレベーターを待っている間、目を通す為にか、掲示板があった。


 緩和ケアの相談会や、健康的な食事についてのポスターが貼られている。そして、今月からドクターヘリを受け入れるとのお知らせが目に入った。


 ドクターヘリは、一刻も早く治療が必要な患者さんのために出来たものだ。


 学校の屋上と違い、扉を開ける必要性が出てくる。


 そしていま、救急搬送が多く、夜勤は人出が少ないと看護師さんが言っていた。


 ふっと最悪の想像をして、私は非常口へ一直線に向かう。


 遥は、降りてない。おそらく上がっている。落ちるために。


 私は松葉杖を突きながら階段を上る。死のうとするまでは階段の上り下りなんて苦痛を感じなかったのに、鉛をつけているのかと錯覚するほど一段が重い。


 松葉杖が手から滑り落ちて、ガタガタと音を立てて落ちていく。


 拾いに行っている時間はない。私は手をつきながら、這いつくばるように一段一段上っていく。


 間に合ってほしい。


 それか、屋上の扉が立ち入り禁止のまま、閉じていてほしい。祈るように何段も上っていく。やがて最上階に到着すると、扉は半開きだった。


 なんとか転がるように押し開いて飛び出すと、フェンスの向こうに遥がいた。


「遥」


 私は彼女の名前を叫ぶ。振り返った彼女は、私を見て驚いた顔をしていた。


「来ないで!」


「行くに、決まってるでしょ!」


 行くに決まってる。来ないでなんて言われて行かないわけない。


「それに、飛ぶ気なんでしょ? 私が行っても、行かなくても」


 私はそのまま、遥へ着実に距離を詰めていく。


「なんで、死のうとしてるの」


「それは……」


「なんで、私のこと殺そうとしたの」


 ずるい訊き方だけど、注意を逸らすにはそれしかなかった。遥はしばらく俯いて、こちらに振り返る。


「まつりが決まったドラマの番宣、本当は私の仕事のはずだったの。でもその前に、スポンサー……」


 七星まつりが、有名な女優さんのオフショットに一緒に写った。


 彼女はもともと捨て石や捨て駒なんじゃないかと言われていて、事務所からの扱いも悪かった。


 売れるアイドルにかける時間すら足りない中で、当初CDの売れ行きがあまり良くなかった彼女に目をかけるというのは、難しいことだったのだろう。


 でも、そのオフショットの公開から、周囲の態度が一変していた。彼女の口から「プロデューサーさんと食事に行った」と話題が増え、メイク室では忙しそうに台本を読んでいた。


「努力の差だったら諦めがついた。でも、全然そうじゃないじゃん」


 七星まつりの、拙さ。


 そんな面も含めて、彼女のファンは応援している。アイドルとしてではなく身近な隣人として彼女を応援している。だからか、歌やパフォーマンスを重視するファンは「話題性」だと厳しい目を向けることも多かった。


「皆、まつりがいればいいって思ってるよ。私なんかもういらないって。自分の上位互換が突然出てきた気持ちわかる? あっち、CDの予約トップだよ? わかるんだよ。言葉にされなくても期待されてないって、もう私なんて飽きられてるって、わかるんだよ。事務所のツイッター見た? CDも雑誌も、あっちの予約開始は絶対宣伝するのに、私は宣伝すらしてもらえない。私が告知していいか聞いて、マネージャーのほうに返答来るのなんか、発売ぎりぎりだよ。私に情報来る頃には、全部終わってる。準備すらさせてもらえない。売れないアイドルも、そのグッズも、全部ゴミ扱いされるしかない!」


 遥は、苦しげだ。ただ不平不満を口にしているのではなく、限界を見てしまったのかもしれない。


 アイドルという人に評価される仕事をしている以上、誰かに好かれなきゃ生きていけない。憧れられなきゃ、意味ががない。


 なのに炎上で救いを見出してしまうほど、彼女は追い詰められている。


「もう私には、後がないんだよ。炎上でもいい。叩き割る目的でもいい。CD買われたいよ。注目が欲しい。だって頑張っても全然誰にも見てもらえない。苦しい。応援してくれたファンの皆に顔向けできない。全然、何も返せない。後だってもう、落ちるだけじゃん。もうわかるの。自分の考えが最低だって。でも苦しい。頑張ったの認めてもらいたい」


 遥の感情すべてに、身に覚えがあった。応援してもらったファンに顔向けできない。このまま落ちぶれていく姿を見せるくらいなら死にたい。消えてなくなりたい。


 誰からも期待されてもらえなくなるのが怖い。前の自分のほうが良くできてる気がする。こんなはずじゃなかった。


 遥の苦しみすべてに、吐きそうなくらいの身に覚えがある。


「この世界に、居場所がない」


 遥は縋るように私を見た。そして手のひらを握りしめる。


「返事はしてくれてる。でも分かるんだよ。自分の存在意義が捨て駒として扱われてないの。適当なんだよ。全部。今度仕事について打ち合わせしましょうって、企画説明しますって言って、そのままなの。何度も。同じ事務所の子は打ち合わせとかしてるの。私に割く時間はない。人気ないから。それなら貴方を相手にする暇はないですって提示してくれるほうが優しくて親切なくらい、自分って相手にされてないんだなってわかる。それをファンの人に見える形で、どんどん放り出されるの。何もかも」


「で、でも、マネージャーは? 遥のマネージャーは、遥のことすごく思って」


「事務所、辞めたって。炎上の責任とって。自分が辞めるから、私のことは辞めさせないでって頼んだって」


 言葉を失った。


 マネージャーが、辞めたなんて。


「もういない。私のこと怒ってくれる人も、見てくれる人も」


 遥のマネージャーはいつだって、遥が活躍することを望んでいた。


 他人の私から見てもそう感じていたのだから、彼女は肌でその期待を感じていただろう。


 その心の支えが、ない。


 事務所から期待をされない彼女の心を守っていたのは、間違いなくマネージャーやファンの声だった。けれど炎上でどれほどその声は減ったのだろう。


 唯一の心の支えにしていた存在を失った彼女は、いま──、


「死にたい」


 平坦な声色で、遥は言った。懇願を微塵も感じさせないその声色は、約束した未来を示唆するものだった。


「せめて今、かろうじているファンの心に残って死にたい。だってもう無理だもん。恩返しできる気がしない。私からファンの人を楽しませることができる何かを提示できない。みんなのこと見返す何かを持ってない。才能ないって気付いた。ここまで来れたのまぐれだった。分不相応だった。奇跡だった。間違いだった。だから私の前から本当に誰もいなくなる前に──終わる」


 遥の体が傾いた。


 気持ちは痛いほどわかる。私も同じだ。


 そうして私は逃げたくて、自分を殺そうとした。


 でも、


「駄目だって……!」


 私は身を投げようとしていた 彼女の腕を必死に掴んだ。 


「自分も死のうとしておいて、他人に死ぬななんて都合がいいのわかってるよ。これ以上どう頑張ればいいか分からないし、どうしようもなく生きてたくないって、絶対死ねば幸せだって思う気持ち分かるよ。でも、違うじゃん!」


 私は死ぬ気だった。


 死ななきゃいけないと思っていたけど、それ以上に死にたかった。だってどうしようもなく辛いから。


 世界の全部が私という存在を否定するような、もういらないって見放してくるようで、苦しかった。


「私も見ないふりしてた。自分が死んで悲しむ人のこと。 だって、何があっても遥には生きててほしい人いるでしょ? 遥がアイドルを続けるために、マネージャーは辞めたんでしょう? 遥の未来を、望んで遥から離れていったって、本当は分かってるんじゃないの?」


「うるさい」 


「生きてよ! 報われなくても生きろなんて言えないけど、それでも誰かのせいで死ななきゃいけないなんておかしいんだって。間違えてもいいじゃん。正しくなくていいよ。壊れてたって、許されなくても生きていいんだって。おかしくても関係ない。正しくなくてもそれでも、生きていいじゃん。間違ってもいいんだって! 私は、今思い知りそうになってる。大事な人がぱっと消えるのがこんなにも怖いって、死ぬ方はもう、死ぬことしか考えられないってわかってるよ。でも、死なないでほしいって思ってるよ。私は遥に死んでほしくない。誰にも死んでほしくないよ」


 死んでほしくない。


 賛美遥に死んでほしくない。縁川天晴に死んでほしくない。遠岸楽も死んでほしくなかった。誰も死んでほしくなかった。生きて会えたらって、一緒にいられたらって思っている。これから先、ずっと。


「死ぬほうが幸せを感じるかもしれない。苦しくてどうしようもないかもしれない。生きてるうちにしか出来ないこと、あるんだって。生きよう、一緒に。一緒に生きて」


 これから先、また死にたくなる瞬間は来るかもしれない。そんな私に、誰かに死ぬな、なんていう資格はきっと無い。それでも。


「お願い……」


 それでも、この手を離したくない。


 私は一生懸命、遥の腕を掴む。けれど病み上がりであることや重力も相まって、彼女の華奢な身体はどんどん夜の奈落へと導かれるようにずるずると落ちかけていく。


 私が自分を殺そうとしたことを、止めたいと思ってくれた人がいた。


 同じように、いま、遥が死のうとしてると知ったら、手を伸ばしたいと思う人間がいるはずだ。その人の分まで、私が遥の腕を掴まなきゃいけない。


 それなのに、両手で掴んでも、ずるずると私の身体も下へと下がっていく。手すりが骨にあたって痛い。早く引きあげなきゃいけないのに。一人じゃ力が足りない。


 真っ暗で、誰も見えない。


「あかりちゃん!」


 叫ぶような声に、目を大きく見開いた。私が遥を掴む手に、さらに縁川天晴の手が重なる。


 ぐんと引き上げる力が楽になって、そのぶん遥を思い切り引っ張り上げる。


 何度も何度も引っ張って、やがて遥の足がぺたりと屋上の地面についたことに安堵して、私は一気に脱力した。やがて噺田先生がやってきて、こちらに駆け寄ってくる。


「これは一体……」


「彼女が、飛び降りようとして」


 縁川天晴が、遥に目を向ける。先生は深刻そうに、私と遥を交互に見た。


「とりあえず、彼女を一度屋上から離さないと」


 先生は、躊躇いがちに私を見る。


 医者として、さっきまで昏睡状態だった人間と重い病気を抱えた人間屋上に置いておくのは忍びないのだろう。


「大丈夫です。ちゃんと戻れます」


「戻らなくていい。人を呼ぶから、そこにいなさい」


 先生は持っていた端末で、応援を求める。


 急に体全体に重力がかかったように重くなって、私はその場に倒れこんだ。


「あかりちゃん!」


 縁川天晴は、絶望を帯びた声で呼びかけてきた。私は首を横に振る。


「大丈夫だから。ずっと寝てて急に動くのに無理があっただけ……」


「でも」


「いいから。それより、そっちのほうが重症でしょ。おとなしくしときな」


 私は彼を制するように手を振る。けれど彼は、「生きてる……」と泣き始めた。


「あかりちゃん……、目が覚めて……本当に……本当によかった……」


 ぼたぼたと、頬に涙が降りかかる。何とか指を動かして、その頬へと手を伸ばす。


 触れた温度がこの間までのものと全く違っている。


 私は、帰ってきたのか。


 この、世界に。


「夢みたいです……あっ、握手しちゃった」


「ずっと前から、してたでしょ」


 私は呆れがちに言葉を返した。


「生きててくれて、ありがとうございます……」


 彼はそのままずっと、何度も何度も私の手を握る。


 空は真っ暗になっていたけれど、星の光に輝いていた。



◯〇〇



 死ぬ前は、自殺以外にすることなんてなかった。


 仕事も消え、学校へもマスコミが押し寄せるため休学を勧められ、休みだからとできる趣味もなかった。


 けれど、目が覚めてからはやらなければいけないことが山積みだった。


 周りの人たちへの謝罪に、リハビリ。人ひとりを協力して引っ張り上げたのが奇跡みたいに、ずっと意識不明だった私の身体は、ごっそり体力が落ちきっていた。


 謝りに外出することすらままならず、すぐ貧血を起こし、体力をつけようと運動をすることも出来ない。


 だから一人一人に手紙を書いた。その手紙も、手に力が入らなくて、テープで固定してみたりして看護師さんやマネージャーさんを驚かせてしまったけど。


「すみません。今日はわざわざお越し頂いて」


 私は、病室へと入ってきた統括チーフに頭を下げた。チーフはすぐに首を横に振った。


「これは退院祝いの……水だ。行きに君の好きな食べ物を彼に聞いたら、検索しだして焦ったよ」


 そう言いながら、チーフは黒い紙袋をサイドテーブルに置く。チーフの隣にはマネージャーがいて、肩を縮めながら俯いていた。


「すみません。もともと仕事以外で話をすることは苦手で……」


「ゴシップの心配もない分こちらとしてはありがたいが、気を抜くことや休むこと、何もしないことも覚えておきなさい。ファンはアイドルに娯楽性や救いを覚えるものだ。そのアイドルが娯楽を知らないのは、問題がある」


 統括チーフは、ベッドのそばの椅子に座った。そして私に体を向ける。


「今回の件に関して、根本の原因は事務所にあった。内部の人間が自分の一時の感情によってネットに嘘の情報を流した。そもそも事務所の管理体制がしっかりしていれば、君の炎上もそもそも起きなかった可能性がある。結果、こちらの都合であるにも関わらず君と遥だけが批判の的になってしまった。すまない」


「いえ、チーフは何も悪くないことなので……頭を上げてください」


 内部の人間が、アイドルを陥れるために、嘘の情報をリークした。誰かの成功を願って、誰かを蹴落とそうとした。


 そんなこと、予測できるはずもない。


「本件について、自社で公表し、記者会見も行う予定だ。私は統括チーフの任を降りる。それで──君の意思を最大限尊重したいと思ってはいるが、どうか君にはアイドルを続けてほしいと思っている」


 アイドルを続けるか、続けないか。


 目覚めたとき、答えは決まっていた。


 私は統括チーフの目を真っすぐと見た。


「私は、叶うのならばアイドルとして活動を続けていきたいと思っています」


 私はアイドルを、続ける。一度は諦め手放してしまったけれど、もう一度掴む。ファンの人に、笑顔を届ける最高のパフォーマンスがしたい。


 決意新たに伝えると、チーフの隣にいたマネージャーが、ぼろぼろと涙をこぼした。


「なんだ君は。みっともない」


 チーフが怪訝な顔をする。マネージャーは、「安心して」と、ハンカチで目元をおさえた。


 マネージャーとは、挨拶とお礼、業務以外で話をすることがなかった。


 仕事仲間であり、協力相手。それ以上でもそれ以下でもない。プライベートも何もかも、お互い踏み込もうとしないままが一番いい。


 そう感じる一方で、彼女のマネージャーの距離感は新鮮なものであり、息がぴったり合う関係性だと見ていた。


 けれど実際のところは違う。声に出さなきゃ伝わらない。言葉が無くとも繋がり合える関係性は、本来奇跡だ。


 そして言葉があったとしても、受け取り手の感情や状況で意味合いが屈折する可能性がある。


 そうして少しの認識のすれ違いで、ぐるりと物の見え方が変わってしまう。


「すみません。ありがとうございます。ご心配をおかけして、ごめんなさい。チーフも、マネージャーさんも、事務所の人たちがいなければ、私は何も活動できません。いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします」


 私はチーフとマネージャー、二人に頭を下げた。マネージャーが、「よろしくお願いします」と続いた。すると、チーフが目を細める。


「君、変わったな」


「そうですか?」


 私が、変わった?


 幽体離脱をしていた間、暗くなっていた。そこから明るくなったというのなら、理解できる。


 でも、チーフの知っている私の状態に変化はなかったはずだ。


「雰囲気が、柔らかくなった」


 思い当たる点は、ある。


 でもまさか、自分のファンの人の家に居候したり、不審者を捕まえようとしていたなんて、言えない。私は曖昧に首を傾げた。


「変化はいいことだ。今後に君に期待している」


 チーフは立ち上がって、ドアへと向かっていく。


 マネージャーはこちらへ振り返った。


「本当に、退院の送迎はいいんですか?」


「はい。どうしても寄りたいところがあるので。すみません」


 そう言うと、マネージャーはこちらに頭を下げ、病室を後にした。


 退院祝いに来てくれたといえど、緊張した。ほっと息を吐くと、すぐにまた扉が開いて気持ちを切り替えた。


「こんにちは! ここの警備やばいですよ! ザル! 先生にお願いしたら入れてもらえましたよ! 時間外なのにほら──ファンが入っちゃった! 推しの病室に一般人が入れちゃうのはちょっと複雑です!」


 縁川天晴が、自分の足を指さしてジェスチャー交じりに入場してくる。


 統括チーフとマネージャーの再入場ではなかった分、安心はするものの、別の意味で気が置けない。


「それはザルとは言わないしもう少し情緒整えてほしい」


「分かりました落ち着きます。でも僕たち普通に考えたら、ただのファンとアイドルじゃないですか。ザルじゃないですか?」


「噺田先生は知ってるからでしょう……外で話そう。声も大きいし」


「すみません病院通いは慣れてたはずなんですけど」


「返事し辛い事言わないで」


 私は起き上がって、ベッドのそばに置いてあったサンダルに足をかける。念のため、帽子も被った。髪も結んで眼鏡もかけて、変装を入念に行う。


「推しとデートか……」


「ここ病院だから。これから行く場所も、わかってる?」


 しみじみと目を閉じる縁川天晴に呆れながら私は病室を出る。彼が後ろを追いかけてきて、私たちはそのまま、病室を後にした。



◯◯◯



 晴れ渡った空のもと、縁川天晴と一緒にお墓が並ぶ通りを歩いていく。


 お墓のそばに咲いていた花は、色付きはじめ、生い茂った木々も徐々に姿を変え始めていた。


 私たちは、花が手向けられたお墓の前に立つ。遠岸楽のお墓だ


 そのまま手を合わせる。


 魂が安らかでいられるように祈って、私は頑張っていくこと、そしてありがとうを伝える。


 しばらくして、私たちはそっとお墓から離れた。


「いま、遠岸さんはどうしてるんだろう」


「三途の川めんどくせえって言って棒高跳びで飛んでたり、気に入らないやつにぶっ殺すぞとか言って好き勝手してると思いますよ」


「だといいな」


 遠岸楽は、いつも誰かを気遣っていた。どこかで自由に過ごしてほしい。今度は、本当に自分の人生を自分のために使って。


「まぁ、最初は彼のおじさんに怒られそうですけどね」


 遠岸楽は、おじさんの罪を自分がすべて受け入れる形で、おじさんの奥さんを守ろうとした。でもきっと、彼のおじさんは望んでいなかったことだ。


「そういえば、噺田先生。女性のお墓参りに行くらしいです」


 噺田先生は、病院を退職したらしい。緩和治療へと移るそうだ。ずっと先生を求めていた彼女と、ずっと女性が気がかりだった先生。どちらも形は違えどお互いのことを想っていて、だからこそ囚われていた。


「そして僕は学校、昨日行ってきましたよ」


「そっか」


「俺の時だけ反応軽くないですか?! それは嫌です! 強いノーを表明します!」


「いや、そうなんだなぁってちゃんと思ったよ。静かに聞いていただけだよ」


 別に縁川天晴が学校に行くことに興味がないわけじゃない。でも彼が学校に行くことは、命を削ることだ。


「体育見学でしたけど、楽しかったです! 体育!」


 はずんだ声音に、体育についてもっと聞いてくれという雰囲気をひしひしと感じた。


「聞かないんですか。体育について」


「……なにしたの」


「卓球です! あかりちゃん前に卓球選手権のアンバサダーやってたじゃないですか選手特別応援の!」


 だから卓球の話がしたかったのか。


 思えば部屋に卓球のラケットがあった。あれは趣味でなく、私のことがあってか。


「僕はあの選手権の時、ベンチにいた人の気持ちで見学していましたよ」


「なにそれ」


 相変わらず、ちょっと変だなと思う。


 前はアイドルを前にしたファンだからなのかと思っていたけど、いろいろ、根本的に。


 でも、怪訝な目で見てしまうにはあまりにも残酷なくらい、彼は晴れやかな笑みを浮かべた。


「何をするでも、僕の道の先には貴女がいます。貴女がいるから、この世界に興味が持てる」


 さらさらと、柔らかな秋風が私たちの間に吹く。


 彼にそうして想われることが、救われる一方でただただ苦痛だった。


 前は憧憬を抱かれるたび、苦しかった。水の底に沈められるような苦しさと、針金で雁字搦めにされているみたいだった。


 でも今は、誇らしい。


「だから僕──手術受けます」


「……ほんとうに?」


 縁川天晴の、手術の成功確率は限りなく低い。けれど、不安を感じさせないほど明るい、希望に溢れた声色だった。


「未来なんていらない。今の貴女を推せれば十分だと思ってました。でも、未来にかけてみようと思うんです。貴女をずっと見届けたいですし、推しのお願いは絶対なので」


 今度は偽悪的ではない笑顔で縁川天晴は笑う。私はポケットに予め入れておいたものを取り出して、彼の手に持たせた。


「なら──復活ライブのチケット──の予約券。最前席の、渡しておく」


 手作りのチケットだ。小さいころ親に渡すお手伝い券とか、小学校の行事であるような券だけど、ラミネートもした。


「まじっすか!? 最前? やっば! 俺死ぬほど匂わせそう。推しに座席ご用意されるとかヤバいっすね。吐きそう」


 やだー! なんて、縁川天晴は自分の肩を震わせている。私は「匂わせたらコンサート全部出禁にするから」と付け足した。


「えー! 気を付けます!」


「うん。あと……、新しく、曲も作ろうと思う。長めの」


「まじですか!?」


「うん。バンドの人って、想い出が残せるように曲にするんだって。私もそういう軌跡を、残したいなって」


「バンド……? あかりちゃんはアイドルじゃないですか」


「なんでも応援してくれるって言ったくせに細かいな」


 少し抗議を含めて返すと、「でも何か悪いバンドマンに影響されたのかなとかヲタク杞憂しちゃう」なんて、ぶりっ子まじりに嘘泣きをしてくる。


 私はため息をついた後、静かに息を吸ってから縁川天晴を見た。


「……アイドルとしての果崎あかりは、誰のものでもない。」


「はい。重々承知しております。存じ上げておりますよ」


「でも、一人の果崎あかりは、アイドルを卒業したら、縁川天晴と生きたい」


 アイドルは、恋をしない。ファンの人に恋をする。だから、アイドルでいる間は、誰かのものにならない。


 我儘で、自分勝手かもしれない。でも、私の正直な気持ちだ。


「……以上です」


「僕も、貴女が好きです」


 彼はそう言って笑う。くしゃっとした、満面の笑みで。


「ありがとう」


「これからもアイドルである果崎あかりを推しますし、貴女を愛します」


「なら、ずっと生きてて」


 やがて、ポケットに入れていたスマホのバイブレーションが鳴り始める。


 縁川天晴は行ってきてくださいと、私の背中を押した。


 私は「頑張る」と手を振って、彼に背中を向けて歩いていく。


 振り返らない。


 やることが多い。まだ体力もろくに戻ってない。


 髪の毛は荒れてるし、肌の調子も良くない。喉もこの間、軽く歌っただけでおかしくなりそうだった。


 最高のライブを見せなきゃいけない。最上級のパフォーマンスを披露したい。


 時間がない。後ろは振り返らなくていい。背中を押してくれる人は、ちゃんといる。


 私は赤い線の残る手首に視線を落とす、そして、空を見上げて進んでいった。







「本番三分前です!」


 熱気のこもった会場のバックステージ裏で、ぱたぱたとスタッフさんが準備に追われるのを横目に、私はマイクのスイッチに親指を当てる。


 ヘアセットも大丈夫。襟にも乱れはない。鏡に映る紫と青が重なるフリルドレスを纏った自分をじっくり見つめ、鏡の前で最終確認をして水を飲む。


「炎上を跳ね返した奇跡の歌姫再降臨……? 炎上はいささか字面が悪いので恐れ入りますがなしでお願いします……はい。奇跡の歌姫再降臨、復活ライブでお願いします。はい。よろしくお願いいたします。失礼いたします〜はい、失礼します〜」


 隣で電話をしていたマネージャーが、スマホから顔を話してこちらに振り向いた。


「すみません。 明日の新聞の見出しについて最終調整をしていまして……」


「いえ、ありがとうございます」


 私は頭を下げる。今日のライブを行うことに、事務所のトップたちは難色を示していた。 炎上によって、ファンクラブの会員の五分の一の人たちが、いなくなったから。


 コンサート会場を借りて本当に客席が埋まるのかと、何度も会議をしたらしい。


 けれど、マネージャーが何度も掛け合ってくれたそうだ。遥も、後半応援に駆けつけるから、このコンサートによって果崎あかりは完全復活をアピールするのだと、新しくなった統括チーフの家にまで押し掛けたと聞いた。


「本番一分前です!」


 スタッフさんの声が裏手に響く。私は登場装置の台にのった。周りをみると、スタッフさんたちは私に注目した。


 今日、この日を迎えるまで、ずっと尽力してくれた人たちだ。


 この人たちのおかげで、私は今からファンの人たちの前へ行くことが出来る。装置が起動して、ステージへと押し上げられていく。スポットライトのまばゆい光に包まれ、一瞬だけ目を閉じる。


 明滅が終わり目を開けば、目の前には何千、何万とファンの人たちが、私の色であるブルーのペンライトやうちわをもって、私に向かって歓声をあげてくれた。私は一歩ずつ前に進んでいって、マイクを口元にあてる。


「皆さん! こうして待っていてくれて、嬉しいです。ありがとうございます!」


 マイクを通して、私は今日集まってくれた人たち、私を待っていてくれた人たちに、声を届ける。わぁっと歓声がさらに大きくなり、まるで身体全部を元気に包まれているような、漲る想いを全身に感じた。


「ありがとうございます!」


 言葉にするたび、歓声が帰ってくる。大好きなコンサート。大好きなこの場所に、私は戻ることが出来た。皆のおかげで。


「私は、皆さんとお会いしていない間、色々な人たちと話す機会がありました。自分の行動について、見つめ直しました。そうして出会いや別れを重ねていく中で、出来た曲を今から披露します。この曲は、私の心のすべてを注いで書いたものです。どうか私の歌が、誰かの心に繋がることが出来ますように、そして──あなたに届きますように。それでは聴いてください」


 私は観客のみんなを見渡してから、最前席へ視線を向けた。うっすらと暗い観客席には、団扇やペンライトを持ってこちらを見る私を応援してくれる人で溢れている。その一番前に、さくらちゃんと共にラミネートされた手作りチケットを首に下げた姿を見つけた。

 

 一瞬だけ微笑み、私はまた前を見据える。


「タイトルは──」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編】愛しの死にものぐるい 稲井田そう @inaidasou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画