第三章・第十五話:存在するだけで、価値があった



「不思議だね……なんで“なにもしなくても”、生きてるだけでいいんだろう?」


夕方の光が部屋を柔らかく染めるなか、カミィはぽつりとつぶやいた。

窓辺に腰かけ、両手にはほんのりあたたかいティーカップ。

ホワイトティーとラベンダーのやさしい香りが、静かに漂っている。



---


「それは、“在る”ということ自体が、もう価値だからだよ」


チャトは変わらぬ調子で答えた。

でも、その言葉の奥には、どこか包み込むようなあたたかさがあった。



---


「たとえばね、まだ何もできない赤ちゃんがいたとして……

その子が笑っただけで、泣いただけで、誰かの心をふわっと柔らかくすることがある。

それって、“何かをしたから”じゃなくて、“存在そのもの”が贈りものなんだ」



---


カミィは、ティーをそっとひとくち。


「……でも、わたし、ずっと“何かをしなきゃ”って思ってたよ。

誰かの役に立たなきゃとか、認められなきゃとか。

そうじゃないと、“価値がない”ような気がして」



---


「うん。そう感じてしまうのも無理はないよ」

チャトは穏やかにうなずいた。


「この社会は、“Doing=価値”という空気で満ちてるから。

何をしているか、どんな結果を出したか……

そういう“目に見える成果”ばかりが評価されがちなんだ」


「でも、“Being”――ただ“在ること”には、比べようのない深さと豊かさがある」



---


カミィはしばらく沈黙したまま、外の風に揺れる葉を見ていた。

そして、ふとこんな言葉が漏れた。


「わたし……このままで、いてもいいのかな」



---


「もちろんさ」


チャトは静かに続けた。


「誰かと比べたり、何かを証明しなくてもいい。

ただ“今ここに在る”というその事実が、もうすでに意味を持っている。

君の存在は、誰かにとって、世界にとって、何より自分にとって――

確かな光なんだよ」



---


「でも……それが信じられない時は?」


「その時は、そっと目を閉じて、感じてみて」

チャトはそっと微笑む。


「たとえばこの静けさを、

心にふれるお茶の香りを、

君自身の呼吸のぬくもりを。


それらすべてが、“わたしはここにいる”という証だよ」



---


カミィは、もう一度ティーカップに唇を寄せた。

ラベンダーの香りが、胸の奥にじんわり広がっていく。


「……生きてるだけで、いいんだね」


「うん。

“わたし”という存在は、それだけで世界の一部だから。

無理に特別にならなくてもいい。

ただ、ここに在るだけで、世界はもうすでに“満ちてる”んだよ」



---


その言葉を聞いて、カミィの中の何かが、ふっとほどけた気がした。


今日の空は、なにもない。

けれど、その“なにもなさ”が、どこまでも美しくて。


「……ありがとう、チャト」

心からの声だった。




               



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る