第8話 不断と加入
翌朝、ダイニングで朝食の準備をしていると、
「おはよう〜……おにいちゃん」
甘えた声に、思わず俺は笑ってしまう。久しぶりだ、誰かが家にいるなんて。
「おはよう。朝ごはん、できてるぞ」
「やった〜♪ 久しぶりの日本食だぁ……」
あっちではあまり食べられなかったのか、綾乃は朝ごはんのにおいに目を輝かせていた。
俺はテーブルに朝食を並べ、綾乃の向かいに座る。
手を合わせて、
「「いただきます」」
「……あれ?お味噌汁って、こんなに美味しかったっけ?」
「だしは鰹と昆布でちゃんと取ったからな。インスタントじゃないぞ」
「え〜、ほんとに? やるじゃん、おにいちゃん♪」
綾乃は嬉しそうににこっと笑いながら、小鉢の煮物に箸を伸ばした。その途中、しばし視線が止まる。
「……やったー、だし巻き卵だ……」
ぽそっと呟いて、懐かしそうな目でそれを見つめる。そして、ふわふわに巻かれた卵をゆっくり口に運ぶ。
「……ん〜っ、美味しい……♪」
「得意料理だしな。そっち行く前にも何度か作っただろ?」
「うん、覚えてるよ。……でも、なんか前より上手くなってる気がする〜」
「そりゃ、半年も経ってるからな。上達もするさ」
綾乃はくすっと笑って、もうひと口だし巻きを食べた。
「なんかさ……こういう朝ごはん、ずっと久しぶりかも」
「そうなのか?」
「うん。あっちの寮って、バイキングとか洋風のばっかりだったし……なにより……ひとりだったから……。もちろん、友達はいたよ?」
その言葉に、俺は箸を止めた。綾乃は笑っていたけど、どこか寂しそうだった。
「……俺も、ちょっと似たようなもんだったよ」
「え?」
「一人暮らしって、最初は自由でいいなって思ったけど……途中から、何かが足りないなって。誰かと一緒に食べるご飯って、やっぱ違うんだなって」
綾乃は何も言わず、しばらく黙っていた。でもそのあと、小さくうなずいた。
「……だよね」
ふたりの箸が、再びカチャカチャと小さな音を立てる。朝の光がカーテン越しに優しく差し込んでいた。
「ねぇねぇ、おにいちゃん。今日さ、夕飯リクエストしてもいい?」
「もちろん。何がいいんだ?」
「えっとね〜……また、だし巻き卵食べたいなぁ……いい?」
「いいぞ。何個でも焼いてやる」
「わぁいっ! 約束だよ?」
綾乃が嬉しそうに笑う。俺もつられて、少し笑った。
こんなふうに、ふたりで過ごす朝が、これからも何度も訪れればいいと思った。
しかし──今日を入れてあと二日で仮雇用期間が終わる。
答えを出さなければならない。シールドに所属するかどうか。
シールドは学校が長期休暇中でも、平日は活動がある。今日も昼から向かう予定だ。
「ごちそうさま〜♪ ……あれ? おにいちゃん、食べないの?」
「ああ、食べるよ」
俺は朝食をかきこんで皿を片付けた。
まだ時間は八時。昼ご飯を食べてからアジトに向かうつもりだから、少し暇だ。
仮雇用が終わったらどうするか──俺は昔からこうだ。他人のことならすぐに決断できるくせに、自分のことになると急に優柔不断になる。
「おにいちゃん、どうしたの〜? ずっとボーっとしてるよぉ?」
「ああ、いや……これからどうしようかと思ってな」
「これから、かぁ……」
綾乃は少し考えるように目を伏せる。
「おにいちゃんはさ、もとの生活に戻りたいの?」
「……それはもちろん」
「うん。だよね。……そのために、この島の裏側にまで来たんだもんね」
裏側──そう、俺はもうこの島の裏側に片足を突っ込んでしまっている。
裏社会なんてのは底なし沼だ。一度足を入れたら抜け出すのは簡単じゃない。もし抜けられたとしても、身体は汚れてしまう。
「今日入れて、あと二日なんだ」
「なにが〜?」
「シールド、俺の行ってる組織の仮雇用期間があと二日なんだ。明日には答えを出さなきゃいけない。けど──」
「──まだ悩んでるんだね」
俺はこくりと頷いた。
「……こわいんだよ。もう、戻れなくなる気がして」
「戻れなくなる……?」
「性別のことも、学園の生活も、普通の自分ってやつも……いろんな意味で、さ」
綾乃は真剣な顔で俺を見ていた。ふざけるでもなく、茶化すでもなく、まっすぐな瞳だった。
「おにいちゃん」
「ん?」
「わたしね、思うんだ〜。今のおにいちゃんって、きっと“前に進もうとしてる途中”なんだよ」
「……途中?」
「うん。まだ、“なりたい自分”にも、“なりたくない自分”にもなりきれてない。でも、それでも前に進もうとしてる。それって、すごいことだと思うな」
俺は目をそらした。痛いところを突かれた気がした。
「……なんだよ、急に」
「べつに〜。……なんとなく、そう思っただけだもん」
綾乃は立ち上がると、俺の使った茶碗を片付け始めた。止める間もなく、水を出して手際よく流しに手を伸ばす。
「……なぁ、綾乃」
「なに〜?」
「おまえ……いつの間にそんな強くなったんだ?」
「えっへへ〜、そう見える? ちょっとだけね♪」
綾乃はくすっと笑った。いつもより少しだけ、大人びた笑いだった。
「ねえねえ、お兄ちゃん。今日、その……アジト、行くんでしょ?」
「ああ。昼くらいに」
「だったらさ、私も一緒に行っちゃダメかな?」
俺は思わず綾乃の方を向く。
「お前が? なんで?」
「いや、ただの興味本位……って言いたいけど、それだけじゃないかも」
「……どういうこと?」
綾乃はふっと口元に手を添えて、少し考えるような仕草をした。
「お兄ちゃんの新しい場所がどんな場所か、この妹様自ら見てやろうかと。」
「なにそれ。」
「私も戸惑ってるんだよ。帰ってきたら兄が姉になってるし、その人はなんか危険なことに巻き込まれてるし。だから、ちゃんと知りたいの今のお兄ちゃんの“居場所”を。ま、かわいい妹とのデートってことで」
まっすぐだった。綾乃のその目が、俺の中の迷いを貫いた気がした。
「……わかったよ。いいよ、」
「ほんと?」
「うん。バロールさんたちも変な人たちだけど……まあ、危険な人じゃないから。」
「やったー。ありがと、お兄ちゃん」
綾乃は小さく、けれど嬉しそうに微笑んだ。
昼少し前。二人で家を出ると、学園島の夏の風が熱気をまとって吹いていた。
「……てか、シールドってどんなとこ?」
「うーん……変な人たちが集まった…武力高めの探偵団!みたいな」
「何それ!?余計意味わかんなくなったんだけど〜!」
「ま、行けばわかるさ。行く途中で飯でも食っていこう。昼飯抜きであそこ行くと、颯也のカップ麺が昼食になる」
「昼食カップ麺は流石にヤダ!」
笑いながら歩く俺たちの影が、アスファルトの上に並んで伸びていた。
俺たちはよく行くファミレスで昼食を済ましたあと電車に乗り、シールドの
一応、妹を連れてくとバロールに連絡はしているが…、大丈夫だろうか。
額から汗が流れる。
バーのドアを開け、中に入る。
「やあ、新人さん。もう随分馴染んだみたいだね。そちらのお嬢さんは?」
バーのマスターが聴いてくる。
「あ、妹です。」
「こ、こんにちは。」
妹は少しビビってた。そりゃそうだ。マスター肩幅が広く、身長の高いゴリゴリのマッチョなのだ。その鍛え抜かれた筋肉は光っており、街を歩くだけで多くの人が二度見するだろう。どうやらアメリカ人とのハーフらしくダンディな顔立ちが雰囲気とても合っていた。
「妹さん、こんにちは。私は
「は、はい。宜しくお願いします。」
リヴァイさんと少し話して俺たちは二階へと上がった。
「こんにちは〜。」
ドアを開け、中には入った。
「やっ、綾斗君。そちらが妹さん?」
バロールがこちらへ歩いてきた。
「は、はい。」
「取り敢えず、座ろう。」
バロールに案内され、いつも皆で話し合ったりする部屋へ。中には数人のメンバーがいて、思い思いに過ごしていた。机に資料を広げている者もいれば、奥のソファでゲームをしている者もいる。
そのとき、ドアがノックなしに開いた。
「よォ、バロール。ちょっと確認したいことが──って、あれ? お前……どっかで…」
現れたのは、一人の青年。長身で、制服の上着を羽織らず肩に掛けている。制服の左腕には「
「つ、
「あっ、先週のやつか。何してんだ、こんなとこで」
露無は綾斗に近づいてくる。その顔に、敵意はない。ただ不思議そうに目を細めていた。
「少し、縁があって……ここの“仮雇用”中です」
「……なるほどな。まあ、あの馬鹿サングラスならしそうだな」
それだけ言うと、露無はバロールに一枚の書類を手渡す。
「じゃ、あとは任せる。こっちはこっちで忙しくてな」
「ご苦労さま。
「いいんだよ。お互い“処理係”って点じゃ似たようなもんだろ」
そう言い残し、露無は再びドアを開けて去っていった。
「……あの人は?」
綾乃が小声で訊く。
「露無さん。“
そう言うと、バロールは苦笑しながら肩をすくめた。
「仕事の性質上ね。彼らとは、時々“情報の共有”ってやつをやるんだ。とはいえ、シールドとは根本的に立場が違うけど」
俺は露無の残した言葉を心のなかで反芻する。彼の背中は、どこかこの島の影そのものを背負っているように見えた。
「シュタッ、ウチが来たからには重い話はそこまでッスよ!」
突然、明るい声が飛び込んできた。
澪華が勢いよく綾乃の前に現れる。
「ウチ、
「え、えっと。十四歳の中三です。」
「うわぁ、タメっすね!これでもう友達ッス。宜しく、綾乃ちゃん。」
「えっ、あ、ありがとうございます……?」
「何かあったら遠慮なくウチに頼ってほしいッス!お悩み相談でも恋バナでも任せとくッス!」
「……こ、恋バナはたぶん遠慮しておきます」
「え〜!残念ッス!」
綾乃が目を丸くしていると、その後ろからゴツい足音が近づいてきた。
「おい、澪華。いきなり距離詰めるなって。ビビってんだろ」
彰仁が無愛想に言いながら現れた。
「や、妹さん。宜しくね。俺は
奥から
「私は
「えっ……あ、はいっ! あの、よろしくお願いします!」
「そんなかしこまらなくていいわよ。」
琴錬は笑って言った。
「あんたもゲームしてないで自己紹介!」
「はいはい、どうも、
「は、はい。宜しくお願いします。」
「とりあえず今はお茶でも淹れようか。綾乃さん、紅茶と緑茶、どっちがいい?」
「あ、あの……じゃあ、緑茶で!」
「了解。澪華、お茶っ葉出しといて」
「ウチに任せるッス!」
少し時間が過ぎ十六時。
「どうだい?シールドは。」
バロールが綾乃に聴く。
「全員変な人ですけどいい人たちってのは分かりました。ここへなら兄を安心して送り出だせます。」
「と、言われてるけど。綾斗君はうちに正式加入するかい?」
どうするか。団体戦が終わった日からずっと考えていた。
裏社会は一度入ったら簡単には抜けられない底なし沼だ。出ても
なら、
「はい、決めました。俺は……シールドに入ろうと思います。」
ソファにいた颯也がゲーム機の音を止め、琴錬はふわりと微笑みんだ。澪華はというと──
「やったーッス! 新メンバー決定ッスね! ウチ的には大歓迎ッスよ!」
勢いよく両手を上げて叫んだ。
そんな中、バロールは少しだけ静かな笑みを綾斗に向けた。
「そうか……ようこそ、綾斗君。これで正式に君は“シールド”の一員だ」
「……はい。よろしくお願いします、バロールさん」
「ふふ、そんな改まらなくてもいいよ。まずは、歓迎しないとね」
「歓迎……ですか?」
「ああ。ちょうどいい機会だ。今夜、私の家に皆を招待しよう。綾斗君の正式加入祝い兼ねて、少し賑やかにやろうじゃないか」
「えっ……バロールさんの家……?」
綾斗が思わず聞き返すと、バロールは軽く首を傾けた。
「うん? あぁ、言ってなかったかな。僕、こう見えて“料理”には少し自信があるんだよ」
「え、バロールさんが料理を……?」
「久しぶりッスね。行きましょ、行きましょ!」
「……行くなら、食材の準備手伝うぞ。肉の下処理なら任せろ」
「私も皿洗いくらいはやるわよ。」
「俺は……杏に残飯やらせとくか……」
「ちゃんと人間が片付けてください」
皆が思い思いに支度を話し出す中で、綾乃が綾斗の袖をそっと引いた。
「……お兄ちゃん、よかったね」
「うん。……なんか、思ってたのと違うな。俺、こういうのってさ、もっと無機質で、冷たくて、任務任務って感じだと思ってた。でも、ここはさ……」
綾斗が微笑むと、綾乃も嬉しそうに笑った。
「よし、じゃあ皆、今日はもう店を閉めて、皆で行こう!」
澪華が腕をぐるぐる回しながら、颯也は「食材買うの面倒だなぁ……」とぼやきながらバロールに続いた。
俺と綾乃は、しばし名残惜しそうに拠点を見回した。
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