第7話 兄妹と帰郷

 八月十三日七時三十分。八丈島、底土港そこどこう

 銀髪の少女、綾乃あやのは船内で出港を待っていた。

 他に乗客はおらず、静寂が流れていた。

 綾乃は暇潰しに先ほど自販機で買ったカフェオレを“能力”で見る。虹彩が青く光る。

[分類]:乳飲料

[名称]:カフェオレ

[製品タイプ]:缶飲料(容量:185ml)

[成分]:牛乳、砂糖、インスタントコーヒー抽出液、香料、乳化剤、安定剤(カラギナン)

[カフェイン量]:約65mg(1缶あたり)

[保存条件]:要冷蔵(10℃以下推奨)

 etc.

 おびただしいほどの情報が脳に一気に入ってくる。

「はぁ...。」

 綾乃はため息をつき出港まで待つ。

 七時四十分。船は出港した、学園島へ向けて。


 八月十二日十四時二十分。聖珀区西治癒医院にて。

 俺たちは八重蔵に話を聞きに来ていた。

「―チッ。つまり俺たちは知らないうちに粗悪品を掴まされてたっつー訳か。」

 八重蔵やえぐらが悔しそうに言う。幸い傷も塞がり後遺症も無いそうだ。しかしさすがに消耗が激しくあと数日は入院するんだそう。

「ああ。」

 バロールが淡白に答えた。

「それで僕にとってあの薬は邪魔なんだ。だから君が知ってる限りの情報をくれ。」

 八重蔵は間を置いてから話し始めた。

「俺が薬のことを知ったのは数ヶ月前、とある男に声をかけられ話を聞くと能力の能力の出力を上げる薬があると言う。当時の俺は焦ってたんだろうな、すぐその話に乗った。結果がこのザマだ。取引相手は“ケイパビリティ”って名乗ってた。」

 ケイパビリティ、また新しいのがでてきた。いったい何個、勢力有るんだよ。

「ケイパビリティか。そいつらからはどうやって薬を得ていたんだ?」

 バロールが質問した。

「定期的に開かれるやつら主催のオークションさ。会員になると開かれる数日前に連絡が来て当日、車に乗せられて睡眠薬を飲む。そして目が覚めたらオークション会場ってわけさ。」

「薬以外に何が出されてたとか教えてください。」

 ユーゴが聴く。

「薬以外だと武器、魔術具スペルアイテムなんかが主だ。俺等はあいつらの実験協力報酬から金を出してた。」

 八重蔵は悔しそうに言った。

「一応言っとくけど、もう関わらないほうがいいよ。」

「わかってるよ、んなこと。」

 俺たちは病室を出た。

「はぁ、次はケイパビリティ...でしたっけ。とやり合うんですか?」

 俺はバロールに聴く。

「まぁ、そうなるだろうね。綾斗あやと君はまだ仮雇用だからやるかわからないし、早くとも月末辺りだと思うからそんな早くないけど。」

 そっか、まだ仮雇用なんだ。今日を入れてあと三日だ。俺はここにいていいんだろうか。


 拠点に戻ると、彰仁がソファに腰かけ、データ端末を弄っていた。

「帰ったか。」

「ただいま戻りましたー。」

「八重蔵の口から出てきたのは“ケイパビリティ”だった。新勢力だ。調査は任せてもいいか?」

「問題ない。ついでに、俺が接触した情報屋からも引っ張れるか探ってみる。」

 彰仁は端末を操作すると、即座に連絡を始めた。

颯也そうやは?」

 琴錬ことねさんが聴く。

「ああ、あいつならあっちの部屋で資料をまとめてるはず。」

 琴錬さんがその部屋に入った―

 ―ガッシャーン

 ものすごい音がして俺は向かった。

 そこにはゲーム機を持ちながら倒れる颯也と足を前に突き出している琴錬さんの姿があった。

「サボってんじゃないわよ!」

 琴錬さんの怒号が響く。

「ック、ゲームオーバーだぜ。」

「あんた、珍しくちゃんと仕事してくれるかと思ったら、ゲームしやがって。コンにゃろ...。」

「わかった、やるから、ちゃんとやるから。そのゴミを見るような目を止めて。」

「ちょっと、あんたも手伝ってくれる?」

 琴錬さんが俺に言った。

「は、はーい。」

 怖くて断るというコマンドはなかったぜ。


 仕事が終わり、俺は我が家へと帰った。

 明日、妹が帰ってくるわけだが、どう説明しようか。この姿。

 自分の兄が姉になりましたー。なんて、どう言うべきか。

 玄関の鍵を開ける。誰もいないはずの部屋。だが、妙に気が張ってしまうのは、久しぶりに家に誰かが帰ってくるからだろうか。

 鞄を置いて、洗面台の鏡を覗き込む。そこには、以前の“俺”ではない“俺”が映っていた。

 サラサラになった髪、丸くなった輪郭、低くなった身長――。

 「‥本当に、俺なんだよな。」

 軽く頬を叩いてみる。変わらない感覚に、妙な安心と奇妙な違和感が同時に湧いてくる。

 あいつ、綾乃あやのは驚くだろうな。

 いや、驚くだけで済めばいい。拒絶されたら――。

 「‥いやいや、ねえって。あいつ、そんなやつじゃないし」

 自分に言い聞かせながら、冷蔵庫から麦茶を取り出す。コップに注いで一息つくと、机の上に置いてあった一枚の手紙に目が止まった。

 《もうすぐで帰るね。》

 出発前に綾乃が送ってきたメッセージ。

 淡白過ぎる言葉だがそれを見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。

 そうだ。俺は、ちゃんと話さなきゃいけない。

 怖くても、恥ずかしくても、この姿で生きていることを、自分の言葉で伝えなきゃ――。

 「よし‥とりあえず明日は、ちゃんと笑って迎えよう」

 覚悟を決めるには少し遅いかもしれない。だけど、兄として、綾乃の前に立てるようにしよう。

 窓の外、雲ひとつない夜空に星が瞬いていた。


 私の乗ってる船は学園島へ向けて出港した。

 半年の留学から帰国してまだ二日目。今日やっと我が家に帰れる。

 お兄ちゃんは元気だろうか。留学中、あまり連絡をしていなかったから心配だ。

 そんな事を考えていると船はいつのまにか学園島の港へ着いていた。

 船を降り港へ。港は長崎の出島のようになっており違法乗船者を島内に入れないようにしているのだ。

 職員に連れられ学生証差し出し、島内へと続く門を通る。

 学園島西側、慶長けいちょう区、西港にしみなと駅。

 周環線しゅうかんせんに乗り、西多智花にしたちばな駅へ、その後数分歩いて我が家へ着いた。

 チャイム押し、数秒後、ドアが開いた。

「お、おかえりなさい。」

 ドアの向こうに立っていたのは、見知らぬ少女だった。

 黒のミディアムヘア、華奢な体つき。

 「どちら様?」

 私の声は少し固かったと思う。けれど、警戒するなって方が無理な話だ。半年ぶりの帰宅、その玄関先にいるのが知らない女の子なんて。

 「あ、綾乃、、。お、俺だよ。」

 私はその少女に見覚えはなかった。しかしなんだろうこの既視感デジャブは誰かににている気がする。

 そうだ。母だこの少女、母に似ているのだ。特に若かった頃の母の雰囲気に。目の色は綺麗な緑色で母と同じ目だ。

「取り敢えず、中に入らない?」

 少女に言われ、私は中に入る。

 少女とローテーブルを挟む形で座布団に座る。

 私は少女を見つめたまま能力を発動する。虹彩が青く変色し見え始める。

[分類]霊長目ヒト科ヒト属ヒト〈能力型〉(ホモ・ファクルターテム・サピエンス)

[名称]北条ほうじょう綾斗あやと

[性別]女性

[状態]性転換

[能力]血脈強化ヴェインブースト

 etc.

 見たのは一瞬だけだが分かって“しまった”。この少女は――お兄ちゃんだ。

「…お兄…ちゃん?」

 思わず、声が震える。目の前の人物が兄であると確信していても、それを言葉にするには勇気が要った。

「うん、、ごめん、驚いたよね。」

 俯きがちに答えた“彼女”の声は、昔と変わらない優しい響きを持っていた。ただし、以前のような低さはもうなく、どこか柔らかく、高い声に変わっていた。

「いったい何があったの?」

 お兄ちゃんはここ一週間に起きた出来事を話してくれた。

 朝目覚めたら性別が変わっていたこと、五位“銃魔術師ガンスリンガー”の率いるシールドというチームに仮雇用されていること。そこで不良チームとの戦いに巻き込まれたこと。

 あまりにも色々と起こりすぎている。たった一週間の中でこんな色々なことが起こるだろうか?

 それよりもだ。当時の兄の気持ちを考えるとどうだろう、朝目覚めたら性別が変わっていて友人に拒絶され、そんな身体のまま“異能暴走事件”に巻き込まれ、いつのまにか不良チームの抗争に巻き込まれ..。

 私は言葉が見つからず、ただ目の前の少女を見つめることしかできなかった。

 心のどこかでは「そんなバカな」と笑い飛ばしたい気持ちもある。でも自分で見た情報がそれを否定する。“彼女”は本当に、北条綾斗――私の兄だった。

「.....大丈夫?」

 ようやく、絞り出した言葉はそれだけだった。

 綾斗――いや、今は“彼女”となったお兄ちゃんは、少し目を伏せて微笑んだ。

「最初はね、パニックだったよ。鏡見ても知らない女の子がいるし、身体も声も変わってて。中身が変わらないのに外側だけ変わるなんて、どこに自分がいるのか分からなくなった。」

 穏やかに語る声の中に、隠しきれない傷があった。

「友達にも、説明できなくて.......避けられたこともあった。でも、バロールさんたちは、それでも“俺”を必要としてくれた。能力を持ってて、戦えるからってだけかもしれないけど、それでも救われたんだ。」

「....‥違うよ。」

 私は思わず言っていた。

「お兄ちゃんは、どんな姿でも“お兄ちゃん”だよ。私にとっては――たとえ、女の子の姿でも関係ない。」

 自分でも驚くほど、すっと言葉が出た。

 綾斗は、少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。

「ありがとう。綾乃がそう言ってくれるだけで、少し救われる。」

 ローテーブルの上に置かれたお兄ちゃんの手が、微かに震えているのに気づいた。迷いと、戸惑いと、恐れと、そういった感情の全てが、あの震えに詰まっている気がして――

 私はそっとその手を取った。

「大丈夫。私がついてる。お兄ちゃんがどうなっても、私はお兄ちゃんの妹だから。」

 握った指は細く、体温も少し高く感じた。けれどそれでも、あのぬくもりは、確かに私の知る“兄”のものだった。

「.......うん。ありがと。」

 泣きそうな、けれど笑った声だった。

 私は目の前の少女を見つめる。

 そこには、少し変わったけれど、優しくてまっすぐな“兄”がいた。


 綾乃の手は、あたたかかった。

 あんなふうに、まっすぐな目で「私はお兄ちゃんの妹だから」なんて言われたら、ずるいじゃないか。

 張り詰めていた何かが、ぷつんと音を立てて緩んだ気がした。

 目の前の妹は、疑わずに「お兄ちゃん」と呼んでくれた。男でも女でも、それが“俺”なら関係ないと、迷いもなく言ってくれた。

 それだけで、どれだけ心が軽くなったか。

 心の奥に沈殿していたものが、少しだけ溶けていく気がした。

 認めてもらえたのだ。姿が変わっても、声が変わっても、それでも“綾斗”であることを。

 ――怖かった。

 綾乃がこの姿を見て、否定されるんじゃないかって。

 もう二度と「お兄ちゃん」と呼ばれないんじゃないかと、家族に存在を否定されることがどれほど恐ろしかったか。

 けれど今、綾乃の目はまっすぐ俺を見てくれている。その瞳は、かつての“兄”を失った悲しみは浮かんでおらず、今ここにいる“俺”を見ている。

「ありがと、綾乃」

 もう一度、言葉にして伝えた。声が少し震えてた。

 綾乃は黙って微笑んでくれた。それだけで十分だった。

 こんなに救われた気持ちになるなんて、思ってなかった。

 ここ一週間のことで心がだいぶ滅入めいってたらしい。

 それでも黙って前を向いてきたのは、誰かに「大丈夫だ」って言ってほしかったからかもしれない。

 ようやく、その一言をもらえた気がした。

 涙は流さなかった。流さなかったけど、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。

 こうして手を繋いでくれる妹がいる。

 だったら、もう少しだけ頑張れそうな気がした。

 手を離すのが、少し惜しかった。

 けれど俺は、そっと綾乃の手を離した。

 綾乃が小さく咳払いする。「じゃ、じゃあ、荷物……部屋に置いてくるね」

「うん。部屋、ちゃんと掃除しておいたから」

「……お兄ちゃんが?」

 意外そうに綾乃が振り返る。俺は少し気恥ずかしくなって、頭をかいた。

「なんかこう……ちゃんと迎えたかったんよ。」

「ふふ、ありがとう。うれしい。」

 綾乃が廊下の奥に消えたあと、俺は少しだけ天井を見上げて息を吐いた。

 ほんの少し前までは、たったひとりの夜に、息が詰まっていたのに。

 あいつが戻ってきただけで、家の空気が全然違って感じる。

(帰ってきたんだな、綾乃)

 そう思うと、やっと“本当の意味で”俺も帰ってこれたような気がした。


「でね、食堂でナットウをもらってきて、私がそれ普通に食べてたのね。そしたらその子、目をまんまるにして『アヤノ、Are you a Samurai?』って真顔で言ってきたの!」

「いやいや、なんで納豆でサムライ認定されるんだよ」

「しかもその後“納豆=忍者の食べ物”ってどこかで聞いたとかで、私が食べるたびに“忍者は匂いに耐えるトレーニングする”とか言い始めてさ」

「勝手に忍者化されてらー。」

「しかもある日、逆にその子が本気でチャレンジし始めて、鼻つまみながら納豆一口食べて“ワサビよりキツい!”って言って泣き出して。そっから『あなたは忍者マスター』って呼ばれるようになったの。学内で!」

 晩飯を一緒に作ったあと、食卓で綾乃が笑いながら留学中の話をしてくれた。

 こうして並んで夕飯を食べるのも、半年以上ぶりだ。

 普通の食卓。普通の話題。だけど、俺にとっては特別な時間だった。

 綾乃が俺を避けるような素振りを見せないことが、本当に救いだった。

「そっちは?……なんか、その、チームのこととか」

 綾乃が少し真面目な表情になる。

 俺は箸を置いて、少し考えた。

「正直に言うと、バロールさんたちは強いし、頼れる。……けど、何処か距離を感じるんだよね。俺が仮雇用って立場だからかもしれないけど。」

「……そっか」

 綾乃が少し眉をひそめた。

「でも、少しずつは馴染めてる気もする。ユーゴとかは、話してて楽しいし」

「うん、あと颯也も、なんか妙に俺には構ってくれるし。琴錬さんは……怖い」

「そこは否定しないんだ」

 俺たちは笑った。少しだけ、今この時間がずっと続けばいいのにと思った。


 食器を洗い終えて、夜風が気持ちいいベランダで麦茶を飲んでいた。

 隣には綾乃。どちらからともなく座っていた。

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?」

「その……仮雇用、終わったらどうするの?」

 綾乃の声は、ほんの少しだけ、震えていた。

 俺は黙って、空を見上げる。

 星がまたたいていた。

「……どうするんだろうな。正直、まだ迷ってる。でも、俺……もう逃げるのはやめようって思った」

「逃げる?」

「自分の姿とか、力とか、立場とか……いろんなことから逃げようとしてた。けど、今は……綾乃がいるし。守りたい人もできたし」

「……そっか」

 綾乃は何も言わず、そっと俺の肩にもたれかかってきた。

 その体温に、また少しだけ、心がほどけていくのを感じた。

 風が優しく吹いていた。

 きっとまだ、迷う日もある。

 不安も、恐れも消えない。

 でも、もう一人じゃない。

 だから、もう少しだけ、前を向こう。

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