ラムネ

増井 龍大

東京の夜は、冷たくて優しい

 夜のコンビニの明かりが、まるで水槽の中みたいに滲んで見えた。

 僕は意味もなく買ったラムネを片手に、自動ドアの前で立ち尽くしていた。

 誰かを待っているわけじゃない。ただ、家に帰りたくなかった。


「ねえ、それ好きなんだ?」


 知らない声に振り返ると、黒いパーカーのフードを深く被った女の子が、僕の手にあるラムネを見て、かすかに笑っていた。


「……昔、よく飲んでたから」

「昔って、君まだ高校生ぐらいでしょ?」

「気分の問題」


 名前も、学校も、住んでる場所も知らない。でも、たぶん彼女も、帰りたくない理由を持っている。

 それだけで、なぜか少しだけ安心した。

 東京の夜は、優しいふりをして、すぐ冷たくなる。

 だけどこの夜だけは、たぶん少しだけ、違った。


「ラムネって、さ……」

 彼女がコンビニの壁にもたれながら言った。

「飲んだ後、なんかちょっと寂しくならない?」

 僕は少し考えてから、首を横に振った。

「どっちかっていうと、ホッとする。炭酸が抜けていく感じが、ちょっと安心する」

「……変わってるね」

「よく言われる」


 彼女はそれ以上何も言わずに、ポケットから缶コーヒーを取り出して開けた。

 微糖、って書いてあるラベル。きっと苦いのだろう。

 彼女はそれを一口飲んで、空を見上げた。

「今日、家帰ったら、誰もいないんだ」

 ぽつりと、雨が降るみたいに言った。


「家族は?」

「旅行。私だけ、置いてかれた」

「なんで?」

「行きたいって、言わなかったから」

「……寂しい?」

「ううん。誰もいない部屋って、ちょっとだけ自由で、ちょっとだけ怖い」


 その言葉に、僕はどう返していいか分からなかった。

 だからただ、ラムネの瓶を傾けて、残っていた泡を飲み干した。

 東京の夜は、騒がしいのに静かだ。

 誰かが笑って、誰かが泣いて、でも誰も気づかない。


 僕たちはその“誰にも気づかれない場所”で、ただ二人、息をしていた。


「私たち、また会えるかな」

 彼女がふいに聞いた。

 目は僕を見ていなかった。自販機の光を見つめていた。

「ここにいれば、会えるんじゃない?」

「じゃあ、ここが私たちの場所ってことで」

 そう言って、彼女は軽く手を振って歩き出した。


 その後ろ姿だけが、しばらく光の中に残っていた。


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ラムネ 増井 龍大 @andoryuu

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