テナイド(二)

「誰?あんた……」

「く、ふふっふ、はは、は」


 様子のおかしい男の目は焦点が定まっていなかった。

 薬物か……すっかり溺れてしまったその表情は、口端を上げたまま固まっている。


「よぉ、兄弟。久しぶりだなぁ……」


 酒焼けした耳障りな声と共に、その後ろから派手な赤紫のスーツを身に纏った男が現れた。

 三人の部下を引き連れ、憎らしい笑みを浮かべている……面倒ごとの元凶。


「ジャック・ルッソ」


 エンツァは銃を構えたまま、敵意を剥き出しに嫌悪を込めた瞳で睨みつける。

 ルッソの手が放心状態で笑っている前の男を掴むと、後ろにいる部下へ乱雑に投げ飛ばした。


「こいつはもう使えねぇ。内臓でも売っぱらとけ」


 窪んだ目元から見えるギョロッとした瞳孔が、エンツァに向けられる。まるでトカゲのようなその眼差しは、恐怖に似た不安を煽った。


「光栄だなぁ、ポリアンカの右腕に名前を呼んでもらえるとは。だがそいつは下ろせよ、殺したくなっちまう」

「っ……馬鹿に、しやがって」


 湧き上がって来るような悔しさに顔が熱くなるのを感じた。

 ルッソが言う右腕は尊敬じゃない。能力の低いΩの女を隣に置くボスへの嘲笑だ。


「エンツァ、下がれ」


 感情を込めない冷静な声が耳に響き、殺気立った怒りを徐々に静めていく。

 グリップを強く握りしめながら、ボスの命令に腕を下ろし一歩後ろへと身を引いた。


「何か用か。ルッソ」

「いやぁ、偶々。奴隷市場に向かってたらΩくっせぇ臭いがしてなぁ、てめぇのつら見に来てやったんじゃねぇか」


 後ろで気付かれないよう銃を構えながら、オスカーはグッと奥歯を噛み締める。

 ルッソは気が狂ったβだ。発情していないΩの匂いなんて分かるはずがない。そもそも番のαを殺したボスは、ほとんどβの状態と同じだ。


 その威圧的な怒りを含んだ眼差しに当てられ、ルッソの部下たちは怯んで後ずさった。

 だがルッソは周りなど気にも留めず、まるで最初からセヴェーロしかいないかのようにずかずかと近づいてくる。


「てめぇも行くか?新しいΩの奴隷が入ったらしいぜ。ふ、ははっ!男のΩだったら安く買えるんじゃないか、ファミリーにでも入れてやったらどうだ?俺は女買ってくからよぉ」

「……好きにしろ。うちはΩを保護してるわけじゃないんだ、売り物に興味はない」


 息が詰まりそうなピリピリとした空気が流れる。

 セヴェーロの冷たい眼差しが、野良犬が急に噛みついてこないか監視するようにルッソを見ていた。


「お前に奴隷を買うだけの金があったんだな。てっきり薬物に全部使ったのかと思ったが」

「あ゙ぁ?」

「最近、Ωから薬を奪って王都で売っているだろう。しかもα相手に……この街へ軍を入れるつもりか」

「知らねえなぁ……薬なんざ。何のことだか?」


 大げさに肩をすくめて首を振る。人の苛立ちを笑うような、見下した笑みを口角に浮かべた。


「だが……俺の部下が王都で勝手にてめぇの薬を売っていたとして、偶然それを飲んだαの頭がおかしくなるっちまったら……んな危険な薬、製造元は調べられるよなぁ。αを狂わせる薬を作ってるなんて、王国からしたら大反逆者だ。そうなりゃ、今度こそてめぇはお終いだな」


 ……嫌味な奴だ。シレーナがどれだけ多くのΩの生命線になっているか、分かっている上で言っているのだから質が悪い。


「わざわざ軍がここまで来て俺だけ捕まえて帰ると?この街も、お前の縄張りも荒らされて終いだ」

「どうだろうなぁ、人間てのは珍しいものに目がない。マフィアのボスやってるΩなんざ、αからしたら最高のおもちゃじゃねぇのか。エディもそうだっただろう」


 突然出された名前に精神を逆撫でられ、自分よりも少し上にある憎らしい顔を睨み上げる。

 殺意のこもった眼差しに、ルッソは声を出して笑った。


「てめぇなら捕まっても上層部のα共に媚び売って足開けば、一人ぐらい番にしてもらえるんじゃねぇか?」

「……もし捕まるとしても、お前の腹を開いて額に穴を空けてからだ」

「言うじゃねぇか。Ω以下の家畜が、男娼上りは銃よりもaの相手してる方が得意だろ」

「試してみるか、お前相手ならどっちも早く終わりそうだ」


 笑っていたその表情が引きつり、強張った口から舌を打つ音が聞こえた。

 右に垂れていた手がスーツの下にあるホルスターへと向けられる。


「ボ、ボス。そろそろ約束の時間が……」


 後ろにいた部下達の躊躇うような声に、ルッソは動きを止めた。

 ギロッと大きく見開いた目が、声を掛けた部下を睨みつける。


「……チッ、Ωの男なんざこっちから願い下げだ。行くぞ」


 さっさと横を通り過ぎていった背中に、セヴェーロはすでに左手に取っていたグリップをホルスターへと戻した。


 誰かと会う予定だったのか。

 ……彼奴が挑発に乗ってこないなんて、余程待たせられない人物なんだろう……。


「オスカー、ルッソが誰に会うか調べてくれるか」

「分かりました。後を付けてみます」

「尾行は私が行きます。オスカーの図体じゃすぐにバレるわ」


 ルッソの通った後を睨みつけながら、エンツァが真っすぐな口調で声を上げる。確かに体格の良いオスカーの姿は、この街では目を引いた。

 だが……あの男の側にエンツァを一人で行かせることは、人手が足りなくてもしたくない。


「エンツァは俺と来てくれ。オスカーは食品街の従業員に協力してもらってルッソが会う相手を探ってほしい」

「了解しました」


 肯定するように頷いたオスカーとは反対に、エンツァは不満気に口を尖らせた。

 ジトッと物言いたげにボスを見つめるも、当の本人はどこ吹く風で器用に左手で煙草を取り出し口に咥えている。


「……彼奴は女に目がないんだ。ルッソに近づいたら薬漬けにされるぞ」


 不意に向けられた鋭い眼差しに優しさが見えたものだから、エンツァは余計ムッとして頬を膨らませた。


「さ、されません!私も役に立ちたいのに、いつもオスカーばっかり!」

「役に立たない奴を側には置かない。……銃の仕入れに行くぞ」

「えっ!?くっう、はい!」


 ――オスカーと別れ、ひび割れたレンガ敷きの上を歩いていく。

 銃弾の後が残る赤い壁。砕けた石畳の階段。割れた植木鉢から溢れる長い髪のようなツタの葉。

 戦争が始まる前は、きっとこの町も奇麗だったのだろう。今では職を失い、家を失い、人権を失い、王国や隣国で行き場を失った人たちの受け場となったごみ溜めの底――。


 都市部に住む人達は、皆口を揃えてこの街のことをこう言った。

 王国、敵国にも見捨てられた、法の存在しない無法地帯。


『テナイド』



━━━━━━━



 一日前――。



「意外と奇麗だよね……もっと汚れてるもんだと思ってたよ」


 ひび割れたレンガ道を奇麗に磨かれた黒の革靴が踏みつけた。

 ベルティはグレーのワイシャツにブラウンのジャケットと平民らしい服を身にまとい、いまだ戦争の痕が残る寂れた街並みを眺める。

 淡い金色の髪にエメラルドの輝きを帯びた瞳、貴族らしい品のある振る舞いは薄汚れた街にはあまりにも不釣り合いだった。


「ベルティ大尉。あまり変なマネはしないでくださいよ、黙ってても目立つんですから」

「ヴィラ、君だってその平民服まるで似合ってないよ。せめて髪を切ってきたらよかったのに」

「大尉に言われたくないですよ」


 ヴィラも平民服を着ていたが、頭の後ろで束ねている明るいベージュの長い髪と金縁の丸眼鏡が宝石のように派手やかだった。

 二人とも貴族のαで、王国軍に属し体も鍛えている。身長も190cm近くと長身なので目立たないわけがなかった。


 時々見かける街の住民たちも、警戒するようにチラチラとこちらを伺っては逃げるようにすぐその場から姿を消してしまう。完全に不審者扱いだ。


「まぁいいや。それじゃ行こうか……王国に徒名す、不届き者を捕まえに」


 銃弾の痕が残る赤色の外壁を横目に、砂埃とレンガの破片が混じった地面を払うように蹴った。

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