テナイド
ひび割れたコンクリートの壁が続く狭い裏路地を、小太りの男が息を荒げながら走っていく。
人通りもなく、水捌けも悪い地面には苔が生え、走るにはあまりにも適していなかった。
道を変えようにも猫が通れそうな細道さえない。どこか登れる場所はないかと塀を見上げていると、足元の瓦礫に気が付かず怒声を上げながらその場で転げ倒れた。
廃墟であろう家の錆付いたトタン壁が、嘲笑うようにガシャガシャと音を立てる。
痛みに呻いていると、後ろから湿った地面を歩いてくる二人の足音に額の上を大量の冷たい汗が流れた。
「やーっと止まったぁ!おじさん逃げすぎだって!」
小柄な短い黒髪の女が、まるで鬼ごっこでもしていたかのように清々しい笑みを浮かべる。その整った顔には、右頬から首にかけてツタのトライバルが彫られていた。
更にその後ろをガタイのいい長身の男が、逃げ場をなくすように立ち塞がっている。威圧的なその男の鋭い目付きは、獲物を仕留める熊のようだ。
「て、てめぇら『フェクダ』のクソ野郎共だな。俺を誰だと思っていやがる!『ファイ・ヘルクリス』のビン・メルゼだぞ!ボスのルッソにこのことが知れりゃあ、てめぇら全員お終いだ!」
「へぇー!先に仕掛けてきたのそっちなのにね!ボスのルッソにソルジャーの躾がなってないって言っといてくれない?ブタ野郎!」
「ぶ、ぶたっ……だとっ!この女ぁ‼︎」
まるで子供の喧嘩を止めるように、後ろで立っていた男はその女の怒り上がった肩へ手を置いた。
「エンツァ、騒ぎすぎだ。もしかしたら仲間を呼んでるかもしれない。早く済ませよう」
「オスカー……だってこいつ、ボスに対して舐めたことを!」
エンツァはまだ幼さの残る瞳で、キッと地面に這いつくばる男を睨みつける。
何が面白かったのか、その途端男は口元に笑みを浮かべると、耐えられないといった感じで体を震わせながら大声で笑い出した。
「ボスっ!ボスだって⁉︎家畜以下のΩがマフィアのボスだなんて笑えるぜ!ポリアンカがどうやってボスになったか知ってるか?てめぇの番だった男を、エディ・ゼネッタを殺してボスに成りやがったんだ、あのクソビッチは!」
「ッテメェ……!二度とその足で立てると思うなよッ!」
エンツァは腰元のホルスターへ手を伸ばした。だが銃を手に取った時には、すでにオスカーの巨体が前に立ち男の姿が見えなくなる。
オスカーは体を斜めに構えると、その大きく硬い革靴で思いっきり男の顔を蹴り上げた。
「がぁあっ!」
男の口から情けない声とともに、血と歯が2本ほど飛んでいくのが見えた。
顎下を押さえながら、鼻か口かどちらから流れているか分からない血がドロドロと瓦礫の上を汚していく。
「黙れっ……」
吐き捨てたその言葉には怒りが溢れていた。
感情を抑えようと震える大きな背中に、エンツァはどうしようもない悔しさを覚え強く下唇を噛みつける。
戦争が長らく続いた王国では、Ωはいつしか「家畜」と呼ばれ、差別の対象となった。
力も弱く使い物にならないだけでなく、発情期になれば優秀なαを巻き込み周りを混乱させる。まだαの子を生せば人として扱われたが、「子」を生さないΩなどまさに「家畜以下」の存在でしかなかった。
Ωだって、こんな呪われた体になりたかったわけないのに。
銃のクリップを握る手に力が入る。戦争が落ち着いた今でも、王国に残ったこの差別は色濃く重なり、まるで汚れみたいにこびり付いていた。
きっともう、誰にも落とし方は分からない。
「遅い」
カツ、カツと規則正しい足音と共に響いたその声に、そこにいた全員がハッとして顔を向けた。
ダークブラウンの短い髪に、黒い瞳をした細身の男。ズボンのポケットに添えられた右手には黒の革手袋が見えた。左腰に付けられたホルスターから愛用のベレッタが覗いている。
高すぎず低すぎない、指示者向きのよく通る声は人を引き付ける魅力があった。
エンツァが嬉しそうに顔をほころばせると、オスカーは自然と姿勢を正した。
「ボスっ!」
へぇ……あれが。
地面で項垂れていたメルゼは、痛みよりも好奇心に駆られ顔を上げていた。話や噂は聞いていたが、実際見るのは初めてだった。
あれが殺人狂と呼ばれたエディ・ゼネッタが番にしたΩ……セヴェーロ・ポリアンカ。
セヴェーロは地面で這いつくばる男の前で足を止めた。
隣にいるオスカーが、まるで番犬のように鋭い目付きで男を睨みつけている。
「薬はどうした」
「く、薬だぁ?」
第一声、突然向けられた質問に、思わず声が裏返った。セヴェーロの細い指が、胸元のポケットから透明な袋に入った白い粉を取り出すと男の前に差し出す。
「お前が、うちで雇っている女を殺して奪った薬だ」
「……あぁ、あのΩの女が持っていたドラックか」
煽るような笑みを浮かべる。
一昨日だったか。確かに女を一人、この近くの通りで殺した。恐怖に見開かれた青色の瞳が、宝石のように綺麗ないい女だった。
「売っちまったなぁ。なかなか高く売れたぜ」
「誰に売った」
「ふへへっ王都の奴らさ、確か軍人だった」
「……それはルッソの指示か」
冷たい黒色の瞳が男を睨みつける。
メルゼは楽しそうに口をニヤつかせながら、引きつったような笑い声を上げた。
「ひっひっ!さぁ、どうだろうなぁ。ルッソは王国も、軍も、Ωも大っ嫌いだからなぁ」
「……」
もう、話す気がなくなったのか。
持っていた薬をしまうとセヴェーロは男に背を向けた。振り向き様、その細い首のうなじあたりに赤黒く痣となった噛み跡の一部が覗いたのを、メルゼは見逃さなかった。
あれはゼネッタのものか。
αはΩを番にする際、発情期中のΩの
まるで首輪を付けられたペットみたいだと、目を細めてせせら笑った。
「ゼネッタは、テメェみてぇな顔が好みだったんだなぁ。ふへへっ意外だぜ、もっと派手な野郎かと思ってたが……それとも、下の具合が相当いいのか?それで気に入られたんだろ?なぁ、ゼネッタはどんなふうにてめぇを抱いていたんだ?」
「貴様ッ……!黙っていれば!」
隣にいたオスカーがホルスターから銃を引き抜くと、男に向かい銃口を突き付けた。怒りに震えるその手には青筋が浮かんでいる。
「……教えてやろうか。なんでエディを殺したか」
まるで世間話でもするみたいに、セヴェーロはいつの間にか取り出した煙草を口にくわえると、慣れた手つきで火を付けた。
この街では一般的なルーティドと呼ばれる紙巻の煙草。優しい甘い匂いと共に、樹木のような冷たい香りが白い煙となって空気に薄く溶けていく。
「彼奴のセックスが殺したいほど下手くそだったからだ。……エディに会ったら伝えておいてくれ」
「は――」
カチャッ……と、向けられた銃から死を握り直す音が聞こえた。
そちらに目を向ける隙もなく、叩きつけるような爆発音が耳を
硝煙の匂いと短い静寂の後、エンツァが男を蔑むように睨みつける。
「……いい気味だ。弱いΩの女ばかり狙いやがって」
右手に銃を下げたまま、オスカーは自身のボスに向き直った。
「死体はどうしますか」
「ほっとけ、この辺りは子連れの野犬が多い。骨しか残らない」
軽く煙草をふかすと、コンクリートの上に転がった男から踵を返した。
エンツァは子犬のようにボスの隣に駆け寄ると、頭一つ背の高いオスカーは辺りを警戒するように後ろへと付く。
「ボス、『シレーナ』が王都に流されています。王国軍に介入でもされたら……」
「面倒だな。……出所が割れるのも時間の問題だろう」
ため息交じりの煙が宙を舞っては、風も吹かない狭い路地裏でゆるゆると地面に沈んでいく。
『シレーナ』は、発情期に苦しむΩのために作られた抑制剤だ。
Ωは三ヶ月に一度、発情と呼ばれる症状を起こし周囲にいる人を無差別に誘惑する香りを発してしまう。
αはその香りに特に敏感で、理性を保つことが難しくなり本能のままΩを番にしようとする。
都市部にも抑制剤は売られているが、あまりにも高価なので貴族や国を支配する王族ぐらいしか満足に仕入れることはできなかった。
平民に生まれてしまったΩは、今日生きるだけの稼ぎもままならず、そのうち都市を追われてこの街『テナイド』へと流れてくる。
その掃き溜めの街で作られたのが『シレーナ』だった。
都市で売られている抑制剤よりも非常に安く手に入り、効果も強い。人によっては副作用が現れるが、それでも安価には変えられなかった。
ただ一つ、大きな問題があるとすれば……この『
Ωが飲めば抑制剤、だがαが服用すれば理性を失いΩの発情に強く充てられたような興奮状態へ陥る。αからすれば、シレーナは簡単にハイになれる強力なドラックでしかなかった。
「ルッソの考えが分かりません。王都でα相手に薬を売っているのが軍に知れれば、自分たちもただでは済まないはずです」
「……俺が気に食わないだけだろう。あれはそういう奴だ」
『ファイ・ヘルクリス』はテナイドに存在するマフィアの一つ。ボスのルッソは弱者を食い物としか思っていない非道な男だった。
Ωでありながらボスの座にいるセヴェーロを疎ましく思っているのか、何かと因縁を付けては争いを仕掛けてくる。
エンツァは苛立ちを露わに舌を打つと、グッと奥歯を噛み締めた。
「もう、我慢の限界です。ルッソなんて、さっさと殺せば!」
「ヘルクリスと抗争になったら分が悪いのはこっちだろう。そう簡単に殺せるなら、とっくに殺してる」
路地裏から出る前に、セヴェーロは再び胸ポケットからシレーナを取り出した。真っ白な粉末状の薬がさらさらと中で揺れている。
「エンツァ」
「はい!」
隣で元気よく答える彼女にその薬を手渡した。エンツァは両手で受け取りながら、伏し目がちに手のひらを見つめる。
「昨日、ロベルタに渡す約束だった。……代わりに使ってくれ」
ロベルタは、さっきの男に殺されたΩの名前だ。
大人しくて、控えめで……時々話すぐらいだったけど、笑った時の声が鈴の音みたいに奇麗な女の人だった。
「……はい」
軽く右手で握りしめる。
決して珍しい事でもない。この国にいれば、Ωへの無残な扱いをもう何度も見てきた。
「シレーナを持ってる従業員に、薬を渡すよう強要されたらすぐに手放せと伝えておいてくれ。取られた分はこちらで保証する」
「了解しました、俺とエンツァで回ります」
エンツァはポンッと肩に重みを感じ、後ろを見上げればオスカーと目が合った。
人の好さそうなたれ目を優し気に細める。あまり気負うなとでも言いたいんだろう。
「ボス、あと……南商店街の、カービンの件ですが――」
仕事の話を進めながら入り組んだ街並みを歩いていると、四つ叉の路地で不意に前から見覚えのない男が顔を出した。
道を塞ぐようにふら付きながら立ち止まった男に、エンツァが素早く銃を取りボスの前に立つ。
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