カフェ『カーメロ』

 人気のない砕けたレンガ道の上を、叩きつけるような雨が流れ落ちていく。シン……と静まり返った夜の闇と相まって、打ち付ける雫が余計に冷たく感じた。

 細く入り組んだ道は街灯もなく真っ暗だが、その迷路のような小道を下っていくと三角屋根の小さな小屋が見えてくる。ぼんやりと中から漏れる薄明りに浮かび上がったドア前には『カフェ カーメロ』とだけ書かれた木の板が下げられていた。


 黒のコートを頭から羽織った男が人目を避けるように、辺りの気配を探りながらそのドアの前に立った。

 トントンと軽く木の扉を叩けば、ドアから漏れるロウソクの明かりが人影と共に揺れるのが分かる。


「……すみません、今日はもう店仕舞いで」

「珈琲一杯でも貰えないですか。雨が酷くて」

「――!」


 外から聞こえてきた良く知った声に、店主はすぐ錠を外しドアを開けた。頬を伝う雨を手で拭う男の姿を確認すると、親しい笑みをその目元に浮かべる。


「セヴェーロ、貴方ならいつでも歓迎しますよ。すぐにタオルと熱い珈琲をお持ちしましょう」

「ベイド、遅くに済まない」

「いいえ、先ほどオスカーも来たところです。さぁ、早く暖炉の側へ」


 まるで隠れ家のようなカフェの中には、小さなテーブルが二席とカウンターに無骨な木の椅子が三席だけ並べられていた。

 奥には暖炉があり、くべられた薪がパチパチと心地いい音を立てている。ぼんやりとあたりを照らしている火の明かりが、店内の温かな雰囲気を醸し出していた。


「ボス、お疲れ様です。雨、急に酷くなりましたね」


 暖炉の前で一足先に椅子へ腰かけていたオスカーが、セヴェーロに気付いて立ち上がる。オスカーが着ていた紺色のスーツも随分と雨に打たれて濡れていた。


「ああ……おかげで煙草が全部ダメになった」

「ははっ、これを機に止めてみますか。付き合いますよ」

「冗談だろう。止められた頃には寿命がきてる」


 「まぁ、そう言わずに……」と苦い笑みを浮かべながらこちらへ来ると、羽織っていた濡れたコートを受け取り暖炉近くの椅子の背に掛ける。


「ボスが死んだら、街も死にますよ」


 ただの冗談にしては荷が重い。何か言い返そうとしたところ、カウンターの奥からパタパタと小さな足音が聞こえてきた。そちらに顔を向ければ、見た目は3歳ほどの男の子が顔の前にタオルを持って小走りに近づいてくる。


「ニコ、まだ起きてたのか」


 しゃがんで差し出されたタオルを受け取ると、幼い顔にパッと花が咲いたような笑顔が浮かんだ。

 適当に切りそろえられた真っ黒な髪に、オレンジ色の夕焼け空を映したみたいな奇麗な瞳。その色は焚火の明かりに照らされて赤色にも見える。


 一年ほど前に国境付近の通りで倒れているところを見つけ、息があったので助けた子だった。体が弱く、見た目も小さいが今年で恐らく5歳になる。――恐らく、と言うのもテナイドにいる子どもの大多数が捨て子なので正確な年齢は分からなかった。本人に聞いて指で立てられた本数を信じるぐらいしかない。

 元気になった今ではこのカフェで、店主であるベイドの手伝いをしている。


「ありがとう」


 軽く頭を撫でると、サラサラとした短い髪が手のひらをくすぐった。子どもらしいふっくらとした頬が、走ったせいか徐々に赤みを帯びていく。


「ニコ、俺の分のタオルは……?」

「……」


 隣に膝をついたオスカーが笑いながら話しかけるも、ニコはふいっと顔を背けるとセヴェーロの首に腕を回して抱きついた。

 雨で冷たくなっている服を気にして「濡れるぞ」と声を掛けても離す気配がない。……何となしに甘えたいのだろうと、その小さな背に左手を回してそっと抱き上げた。


 オスカーは膝をついたまま大げさに肩を落として、腹を刺された時のようにうずくまっている。


「相変わらずだな」

「はい……子どもには好かれる質だと思ってたんですけど、ニコは懐いてくれませんね」


「おや……ニコ、お客さんを困らせてはいけないよ」


 カウンターの向こうから珈琲二つをトレーに乗せて、タオルを脇に抱えたベイドが落ち着いた足取りで歩いてくる。

 セヴェーロの腕で嬉しそうに笑っているニコを、やれやれといった表情で見つめていた。


「いつもこの時間はとっくに眠っているんですが……昼間オスカーが店に来て話をしていきましたから、夜にはボスが来ると踏んで待っていたのでしょう」


 「賢い子ですよ」と笑いながらトレーをテーブルの上に置くと、大きめのタオルをオスカーに渡した。


「……あとは早く、声が出せるようになればいいんですが」


 ニコを見るベイドの瞳に不安な色が差す。

 一年前助けた時から、今まで誰もニコの声を聞いたことがなかった。喉が潰されても、舌が切られているわけでもない。一度王都の医者にも診てもらったが、原因は不明……恐らく精神的な障害という診断がされた。


 腕の中でシャツを掴んでいた小さな手に少し力が入る。笑っていたニコの表情が陰り、そのままセヴェーロの肩へと顔を埋めた。


「……喉が使えない訳じゃない。そのうち声も出せるさ」


 丸くなった背を撫でる。

 ニコは文字の読み書きも覚えるのが早かった。だが、この寂れた街では字を読める人の方が少ない……他人と関われない現状も、声を出すタイミングを奪っているように感じた。


 テーブルの上に差し出されたカップから、柔らかいミルクとほろ苦い香りが湯気と共に漂う。

 ベイドはトレーを小脇に抱えると「さて、」と暖炉の灯りに目を細めた。


「ニコ、下りないとボスが淹れたての珈琲を飲めないだろう。これから仕事の話しをするから、お前は眠くなる前に早くベッドへ入りなさい」

「……」


 何か言いたげに口を結んだまま、床へ下ろしてもニコの手はシャツの肩を握っている。その黒髪を撫でながら軽く柔い頬に口づけた。


「おやすみ。……また明日も来る」

「――!!」


 顔を上げたニコのオレンジ色の瞳が、キラキラと星が散ったみたいに輝く。ふわっと色付いた顔が近づき、セヴェーロの頬へ勢い任せにキスを返すと、すぐに体ごと離れて耳まで赤く染めながらバタバタとカウンター向こうに走り去っていった。


 助けた直後は、人目を避けてよくじっと座っていたが、最近は表情が増え甘えてくることも多くなった。

 親代わりとまでいかなくても、ニコが安心して居られる場所になれているのならよかったと、セヴェーロの口元に穏やかな笑みが浮かぶ。


「ニコは良いソルジャーになるでしょうね」

「……ソルジャーに、ですか」


 ベイドの優しいが肯定的な声に思わず聞き返した。考えてもいなかったという気持ちがありありと出てしまう。


「ええ……おや、てっきりファミリーに入れてあげるものだと。覚えも早いし、気も利いていい子だ。何より貴方によく懐いてる」


 嬉しいような、困ったような表情をニコが走っていったカウンター先へ向ける。生き方を決めるにはあまりにも早い気がした。


「いや、彼奴は……俺の手には余りますよ。きっともう少ししたら、街の外に興味を持つでしょう。ここに置くのはもったいない」

「……そうかねぇ」


 立ち上がり、テーブル上の珈琲を手に取るとそっとカップへ口付ける。ふわっと舌を転がるミルクの香りにほっと目を細めた。

 ベイドが淹れる珈琲はいつも美味しい。


「君のボスは相変わらず絵になるね」


 ベイドの不意な耳打ちに、オスカーは啜っていた珈琲から口を放して微笑んだ。


「ええ、部下冥利に尽きますよ。……そういえば、エンツァは先に返したのですか」


 いつもなら、ボスが褒められていの一番に喜ぶのはエンツァだろう。普段から側にいる姿が見えないのは違和感があった。


「ああ、『ロウト』の知り合いが発情期らしい。しばらく泊まり込みになるだろうな」

「そうか……彼女がいれば安心ですね」


 『ロウト』とはテナイドに古くからある娼館のことだ。フェクダの縄張りにあり、前ボスのエディ・ゼネッタが買収してから現在もフェクダの管理下にある。


「そろそろ、本題に入りましょう」


 テーブルに置かれたセヴェーロの珈琲がカタッと音を立てた。暖炉の灯りも徐々に弱まり、黒く焼けた薪が終わりを数え始めている。


「昼間、ルッソが誰に会っていたか分かったか?」

「はい。調べを入れて正解でした。……あまり良くない相手かもしれません」


 眉をひそめたオスカーの表情が少し険しくなる。ベイドがトレーの裏から写真を一枚捲り取ると、テーブルの中央に滑らせた。

 高そうな毛皮のコートを身に着けた恰幅かっぷくのいい男が写っている。金の装飾が入ったパイプ煙草を咥え、金の指輪にネックレスと随分と派手な身なりの男だった。


「マルコ・リメーニ。王都で高級娼館を経営している男です」

「王都の……『クレマチス』か」

「ええ、ご存じでしたか。高級娼館『クレマチス』。α専用の『質の良いΩ』を取り揃えた娼館……が売りでしたが、戦争があってから商品Ωの数が激減して、揃えるにも苦労しているのでしょう」


 ベイドの口からため息が漏れる。いつもは笑っているように見える細い糸目が、静かに写真の男を睨んでいた。


「元は王族や貴族から生まれた『貰い手がなかったΩの子』を多額で買い取り、客を宛がっていたみたいでね。だが、売り手が減るにしたがって違う商売にも手を出し始めた……Ωの人身売買、オークション、違法強制発情剤の取引……他も上げたらきりがない」

「問題は、このリメーニがルッソと何かしらの繋がりがあることです。あの薬物中毒は金さえ手に入ればなんだってするでしょう」


 オスカーが憎々しくルッソの名を吐き捨てる。

 テナイドには王都で差別され、居場所をなくし逃れてきたΩが多くいた。


「狙いは街のΩか……」

「はい、恐らく。軍も法も存在しないこの街だったら、人を攫っても罪にはならない。リメーニには宝の山にでも見えているのでしょうね」

「罪にならない代わりに、死んでもらうがな……俺の縄張りで好き勝手はさせない」


 王族や貴族、金持ちのαが欲しがるせいか、Ωの価値は上がり続けている。αの子どもを産んでくれるのなら、もはや生まれなどどうでもいいのだろう。


「セヴェーロ。君も気を付けなさい」


 ベイドの忠告が耳に刺さった。暖炉で真っ黒に染まった薪が割れ、パキッと火花が舞い上がる。


「エディを殺して発情期が来なくなったとはいえ、体がΩであることに違いはない……αは身勝手な奴らばかりだ、Ωを人とすら思って、」

「ベイド。俺の部下に、そんな勝手な奴はいませんよ」


 おっと……というようにベイドの目がオスカーを見上げた。片手で口を覆うと申し訳なさそうに眉を下げる。


「すまない、オスカー。もちろん君のことを言ったつもりはないんだ」

「いえ……王国のαが、Ωを子を生すための道具にしか思っていないのも……俺がそんな王国に尽くしていた、αなのも事実です。まぁ、βの家系に生まれた出来損ないですが」


 オスカーの垂れた目元が、困ったように微笑んだ。

 腕時計で隠されている右手首の下には、軍へ入るときに彫ったのであろうアルフェラッツ王国のペガサスの紋章が刻まれている。


「もし、ボスに何かあったら……俺が死ぬ気で守りますよ」


 敬愛を含んだ眼差しがテーブルを挟んだ向かい側から向けられる。バース性関係なく、その偽りない眼差しは心強かった。


「街のΩを優先してくれ。傷物に金払ってまで手に入れようとするバカはそういないだろ」


 そう言いながら、セヴェーロの左手が無意識に自身の細い首を撫でる。何回も噛まれたのであろう歯型の痕が、痣のように赤黒い傷になってうなじから肩にかけて未だに残っていた。Ω特有の色白い肌が、余計にその痕を痛々しく目立たせる。


「明日、ロウトに行ってリメーニの話を伝えてくる。Ωが一番多く集まるのはあそこだろう。オスカーはルッソと部下の動きを見張ってくれるか」

「はい、任せてください」


「ベイド、手間かけたな」

「いいえ、また何かあったら頼ってください。と言っても、調べ物ぐらいしかこんなジジイには出来ませんが……君たちの為なら何でも揃えましょう」


 いつもの朗らかな笑みを浮かべると、壁に掛けてある振り子時計に目を向けた。時刻はもうすでに二十三時を回っている。

 雨は相変わらず降り続いており、吹き抜ける風が大粒の雫を窓ガラスへと打ち付けていた。


「……良かったら今日は泊まっていってください。こんな雨の中、お二人を外に出すのは忍びない。ニコも喜びますよ」


 ベイドの視線がカウンター下へと向けられる。その目線の先を追って見れば、そこにはニコが着ていたシャツの端が覗いていた。カウンター裏でやっぱり離れがたくて座っていたのだろう。


「ああ、助かる。……もしニコがまだ起きていたら、一緒に寝たかったな」


 セヴェーロのその声に慌てて立ち上がったニコが、カウンターの縁に軽く頭をぶつけながらも恥ずかしそうにひょこりと顔を出した。


 名前を呼べば、あどけない顔が嬉しそうにほころぶ。トタトタと子犬のように駆け寄ると、幼い手で少し冷えたセヴェーロの細い指を握りしめた。

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