第27話
元は江戸幕府の直轄地であり、「小石川御殿」と呼ばれる屋敷地だった小石川区には、東京帝国大学をはじめとする教育機関やその附属病院が設置されており、教育・医療、また行政の中心地にもなっていた。
多くの財閥や政治家が邸宅を構える地域でもあり、車から見る景色にも洋館が目立つ。「子どもの失踪が多い」という情報のみが頼りであるため、特に場所の目星はついていない。
まずは歩いて情報を得ようと、志乃たちは小石川に到着するとすぐに車を降りた。
「あれは何? 煙が出ているわ」
少し先に見える工場のような建物を見て、志乃は咲夜にたずねた。
「あれは陸軍の砲兵工廠だ。小銃などを作っているらしい」
「まあ……」
戦争に使われる武器を作っている場所。それを知るとつい糸の方に視線が向いてしまう。惣弥ともう一台の車から降りてきた糸は、狼煙の上がる工廠を見て、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
——見ていてあまり気分のいいものではないでしょうね。
「糸ちゃん、少し歩きましょう。素敵なお家がいっぱいあるわね」
「……ここに住んでいるのは、父ちゃんや母ちゃんの命を犠牲にして『豊かになった人たち』なんだろね。羨ましいや」
少しでも気持ちを盛り上げようとかけた言葉が、仇になってしまった。
困った顔で糸を見ていれば、惣弥が糸の脳天に手刀をくらわせる。
「いてっ!」
「こら、世話んなってる家の人を困らせるんやない」
「何するんだよ!」
「教育的指導や」
ギャアギャアと喚く糸に対し、惣弥は毅然とした態度で接している。意外にもまともな説教をするものだと志乃は関心する。なんだか、妹を嗜める兄のようで、とても微笑ましい。
「さあ、いくぞ。ここには遊びに来たんじゃない。用事があってきたんだ」
涼しい顔で惣弥に言う咲夜だったが。
「あのう、咲夜さん……お願いがあるのだけど」
「なんだ、志乃」
「手を離していただけませんか。そのう、人前でこういうことをするのは、世間的にはあまりよろしくないものですから……」
「なぜだ」
仏頂面でそういった咲夜は、ずっと志乃の手を握っていた。車に乗っている時に手を重ねられ、それ以降手を解いてくれない。
「ですから、そういうものなんですっ」
無理に引っ張って手を抜けば、つまらなそうな顔をして彼は、自分の右手を見る。
彼が志乃に触れるのは、決まって取り戻した方の自分の手。触れる志乃の肌を楽しんでいるようなそぶりが、また気恥ずかしさを加速させている。
「あんなぁ。俺らのこと忘れんといて」
惣弥のひと言で、ようやく咲夜が歩を進めた。
整備された街並み、真新しい立派な建物は、糸の言う通り「豊かになった側」の生活をいやでも感じさせる。
——とても近代的で綺麗な通りだけど。使われて消費されて、全てを失った側から見たら、やるせない風景なのかもしれないわね……。
惣弥と先をゆく小さな糸の背中を見ながら、志乃はため息をついた。
「ところで、その『赤い靴の女の子』が現れたのは、この通りなの?」
惣弥は気だるそうに歩きながら、首だけで志乃を振り返る。
「黒丸の情報によるとそうやな。尋常小学校帰りの子どもたちの列から、いつの間にか一人消えるらしいで。歳は必ず十二歳の子ぉや。死体は路上で見つかったそうや。でもなぁ、不思議なんは赤い靴の女の子の怪談自体は、昔からあってん」
「どういうこと?」
話の筋が理解できず、志乃は首を傾げた。
「子どもが失踪したり殺されるようになったんは、最近のことや。人死にに至ってはごく最近。どうや、ご当主様。なんかおる?」
「……気配は感じる、が、薄いな」
「やっぱりそうか。俺もあんまり感じへんねん。仕事で何度か小石川は来とるけど、微かな気配を感じることはあっても、そんなに凶悪な悪霊って感じはせんかったんや」
彼らには志乃たちには見えぬ何かが見えているらしい。
おそるおそる周囲を見渡してみる。
立派な老松が聳える屋敷の門。その近くには目白文化村開発地という立て看板とともに、宅地の開発が進んでいる様が見て取れる。
ちょうど下校時刻に当たったのか人通りは多く、袴姿の女学生や小学生たちが、家路を急いでいた。
「俺の左腕を得て、人を攫うほどの力を得たか」
「その線が濃いと思うねん。俺は」
「だがそれにしては気配が薄い。厄介だな。黒曜村の時のように、何か気配を遮断するようなものがあるのか、あるいは……」
志乃と糸は思わず視線を交差させる。これが日の暮れた時刻での街歩きであれば、咲夜と惣弥のやり取りは、さぞ背筋を寒くするものなっただろう。
「糸? 糸じゃない!」
突然大きな声がして、志乃は悲鳴をあげそうになる。
だが、子どものキンキンとした元気な声は、幽霊とは程遠いものだった。
「マサ……あんた、なんで?」
「わあ、よかった。殺されちゃったのかと思ってたよ。っていうか、あんた女の子の格好をするようになったのね。とっても似合ってるわ」
糸が、「マサ」と呼んだ子は、大きなリボンで髪を飾り、銘仙に袴を合わせた女の子だった。ひどく細身の子どもだったが、身なりは綺麗で清潔感もある。歳は糸と同じくらいのようだが、貧民窟の浮浪児という感じではない。
「糸もいいとこのお家にもらわれたんだ! ってああ! 刺青男!」
「なんやこのガキ」
睨みをきかせる惣弥を制し、志乃は前に進み出る。
「糸ちゃんのお友達?」
「おやマサ。おかえり。どうしたんだい、お客様かい?」
「お父さま! おかえりなさいませ」
老松の屋敷に止まった一台の自動車の中から、丸眼鏡をかけた男が顔を出していた。歳は三十の半ばといったところか。実業家風のスーツを着ていて、ハイカラな印象を受ける。
「糸よ。お話ししたでしょう? 私のお友達の糸が生きていたの!」
「ああ、その子が。それはよかった。では彼女も我が家に……って……あ、あなたは……!」
「久しぶりだな藤堂侯爵」
藤堂侯爵と呼ばれた丸眼鏡の御仁は、咲夜の姿を見た瞬間、顔から一切の色を失っていた。
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