第25話

「あれ。ご当主様は?」


「あの人の話は今しないでください」


「なんや、この短い間に痴話喧嘩か?」


「というか。何やってるんですか、惣弥さん」


「何って、握り飯作ってんねん」


 惣弥は、手に握り飯と言い切るには不恰好な物体を持って、台所に立っていた。起きてしまった糸のために、おひつから残っていたご飯を取り出したらしい。どう見てもヤカラの男が、小さく縮こまって握り飯を握っていると妙な可愛らしさがある。


 本当にちゃんと世話をする気があるらしい。それが意外で、そして微笑ましかった。


「朝顔さんは? ご飯なら朝顔さんが用意してくださるでしょう」


「それがな、でてこうへんねん。まあ朝顔は基本、ご当主様が操ってるからな。ご当主様が不調やと姿を消してまうねん。十中八九痴話喧嘩が原因やろうなあ〜」


「あ……」


 部屋に置いてきた咲夜のことが頭を掠める。糸のことを考えれば呼びにいってやりたいところだが。今は顔を見たくない。


 人様の家の中を漁るなんて、という葛藤もあったが。契約が有効である以上、志乃も一応は嫁である。戸棚を物色すると、朝顔が仕入れたらしき塩漬けのわかめと自家製味噌、鰹節を発見した。


「お味噌汁なら作れそう。おにぎりだけじゃあ寂しいものね。私が作るわ」


「え、志乃、料理できるんか?」


「うちは没落華族だったから。家のことはなんでも自分でやっていたんです」


「助かるわあ。間に合わせみたいな飯しかつくられへんねん俺。こいつも料理はできへんいうし」


 小上がりにちょこんと座っていた糸が、むすりとした顔をする。


「別に、教えてもらえればできるようになるし」


「じゃあ糸ちゃん、明日から一緒にご飯を作りましょうか」


「え」


 咲夜があの調子であることを考えると、朝顔の働きは期待できない。明日も現れない可能性だって考えられる。


「私もいたれりつくせりで世話をされているよりも、体を動かしていた方が気分がいいし。ね、そうしましょ」


「おー、おー。ええなあ、若妻が朝から美味しい朝食作ってくれはるなんて。ご当主様は幸せやんなあ」


「……やる」


 むくれたままの顔で、糸は返事をする。ただ一言だけだったが。前向きな反応をくれたことが嬉しい。


 結局、朝顔は糸が食事を済ませたあと、「お風呂のお湯を温め直しました」と夕方になってようやく現れたのだった。


 ◇◇◇


「はぁ、スッキリした」


 髪を束ね、清めた体を湯船の中へと沈めていく。

 志乃が風呂場に入った時には、すでに使われた形跡があった。糸が入ってからは時間が経っているので、咲夜がいつの間にか風呂に入っていたようだ。村であれだけ暴れ回り、相当土汚れがついていたはずなので、普段無頓着な彼も気になったのかもしれない。


 心地よさに湯の中でぼうっとしていると、咲夜が村人に浴びせかけられた言葉を思い出す。傷ついた顔一つ見せなかったが、志乃が「幸せにする」と言った時、今までになく彼の感情が動いた感覚があった。


 ——ちょっと怒りすぎちゃったかしら。いえでも、あれを怒らないわけには。


 お湯から上がり、汗ばむ肌で浴衣に腕を通す。

 もう少し考える時間が欲しいと思っている時ほど、あっという間に時間は過ぎるものだ。身支度の時間はすぐに過ぎ去り、志乃は夫婦の寝室の前で、佇んでいた。


 ——契約花嫁である間は、手は握ってあげないといけないのよね。うーん、困ったわ。どうやって話をしよう。


「志乃」


 消え入るような声で、襖の向こうから声がする。

 どう答えたら良いかわからなくて、そのまま黙っていれば。


「申し訳なかった。お前が嫌がることをした」


 襖越し、真摯な謝罪の言葉に、志乃は驚く。てっきりもっと揉めると思ったのに。

 そっと襖を開ければ、正座をし、深々と頭を下げる咲夜の姿があった。


「ええっ、ちょっと、頭を上げてください」


 慌てて体を起こさせれば、いつもの空洞のような双眸とかちあった。だが黒と黄金の瞳は、志乃を映した途端、焦がれるような熱を帯びる。


「俺には、愛しいと思う人をどう扱うべきなのかがわからない。湧き上がるような感情を、どう抑えるべきなのかも、わからない」


「咲夜さん……」


「志乃に嫌われることはしたくない。だから、嫌だと思うことは言ってくれ」


 志乃はきゅうと、心の奥が狭くなるのを感じた。

 殺戮人形と呼ばれるほどに、無心で人を殺してきた彼。

 親からは愛されず、疎まれ、ただ尽くすことを求められてきた。

 そんな彼が、愛情のやり取りにおいて欠陥があることなど、分かりきっていたことではないか。


「嫌いになる」そう口走ってしまったことを後悔した。

 初めて自分を「幸せにする」と約束してくれた人が、再び自分を邪険に扱うと思ったら。それはどれほどの絶望だろう。


「私もごめんなさい、咲夜さん。あなたがしたことがひどいのは変わらないけど。でも私も、あなたを傷つける言葉を口にしたわ」


 志乃は部屋に入ると、襖を閉めて「夫」と向き合った。


「お外をお散歩したり、お茶をしたり、一緒に料理を作ったりしながら、お話ししましょう」


「……寝室ではなく?」


「寝室は眠るところです。話す場所ではありません。私たちに必要なのは、お互いを理解することよ。いろいろなことを一緒に体験しながら話すのがいいわ」


「そうか……わかった」


 萎れた犬のようになった咲夜を見て、少しだけ可愛いと思ってしまう。

 いつものように手を握れば、彼が体をびくりと震わせる。


「痛みは?」


「志乃が触ってくれれば感じない。少し、痛みはじめたところだった」


「痛い時は早めに言ってくださいよ」


「わかった」


「寝ましょうか」


 二つ並べられた敷布団の上に、体を横たえれば、じっとこちらを見つめる彼の姿が目に入る。

 目の下のクマはもうほとんど見られない。代わりに浮き出てきたのは、妖しさを纏う、彼の元来の美しさだ。


 ——わあ、どうしよう。この顔に見つめられると落ち着かない。


 この美しい人に、私は求められ、口付けをされたのか。

 そう思ったら恥ずかしさに頭が爆発しそうになる。目を逸らそうとすると、彼は志乃の顎を指先で捕まえ、自分の方へと向け直す。


「あ……」


 胸の音が早鐘のようになる。腕を引かれ、抱き寄せられ、咲夜の唇が耳元に寄せられた。


「志乃」


「は、はい」


「悪いが、俺を縛ってくれ」


「……んん?」


 思いもがけなかった言葉に、志乃は驚愕の表情を浮かべる。


「どうしてですか?」


「お前が嫌なことはしたくない。だが、どうしてもお前を抱きしめると、気持ちが抑えられなくなる」


 恥ずかしさに俯かせていた顔を、咲夜の方に向けた。彼の頬は上気して、甘さを含んだ視線をしている。


「またさきほどと同じことをしてしまう気がするんだ」


「し、縛りましょう! 今すぐに」


 結局この晩、志乃は夫を後ろ手に縛り、彼の背後から手を握って眠ることとなった。

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