ベルガモットの香り

 会社のキーボードを叩く指先が、かつてギターの弦を押さえていた手だということを、今の同僚は誰も知らない。

 カタカタと響くタイピング音も、資料に走る赤ペンの音も、会議室のドアが閉まる音も、すべてがどこか遠い世界のリズムに思える。

 音楽に夢中だったあの頃、僕はどこにでも音を見つけていた。

 雨粒が窓を叩くリズム、コンビニの自動ドアが開く音、友人の笑い声――。

 すべてが無限のメロディに思えた。


 いまはもう、何も聴こえなくなった。


 夜九時過ぎ、残業を終えて事務所を出る。

 外は小雨。アスファルトが濡れて街灯をぼんやり映し出す。

 ふいに、イヤホンを耳に差す気にもなれず、ただ自分の足音だけを頼りに歩いた。

 地下鉄の入り口まで行って帰ろうか、どこかでビールでも飲んで帰ろうか――

 そんなことを考えながら、まっすぐ家に帰りたくない夜の空気に身を委ねる。


 気づくと、狭い路地裏に足を踏み入れていた。

 ビルとビルの隙間に、丸い月の絵がゆれる小さな看板が見える。

 不思議と迷いもなく、その灯りに引き寄せられていった。


 Bar 月灯


 古びた木の扉を押すと、やわらかなジャズと微かな木の香りが胸に広がる。

 カウンターの向こう、年齢不詳のマスターが穏やかに目を上げた。


「いらっしゃいませ。夜も更けてきましたね」


 ネクタイを緩め、カウンター席に腰を下ろす。

 コートを脱いだ肩が、じんわりと温もりを思い出していく。


「何をお作りしましょう?」


 私は、ほんの少し迷ったあとで答える。


「アールグレイのホットミルクティーをお願いします。

 ……子どもの頃、母が夜更かししているときだけ作ってくれたんです。あの香りが今夜は恋しくて」


「承知しました」


 マスターの手つきは、ゆっくりと優しい。

 ミルクパンで牛乳を温め、ポットに紅茶の葉を入れる。

 カップに注がれると、ベルガモットの清々しい香りがふわりと漂った。


 両手で包むようにカップを持つ。

 温かさが指先からじんわりと伝わる。


 ――なぜ、音楽から遠ざかったのか。

 就職して、忙しさを理由にギターを弾かなくなった。

 「趣味は?」と訊かれるたび、「昔は音楽をやっていました」と、過去形でしか語れなくなった。


 そのくせ、ギターケースは捨てられない。

 夜中にふと目が覚めて、押し入れの奥からギターを取り出し、弦の埃を指でなぞることもある。

 弦が鳴らなくても、触れた手の感触だけが妙に現実的だった。


「……昔は、音楽がすべてだったんです」

 私はぽつりと言う。


 マスターは何も言わず、私の言葉が落ち着くまでただそこにいてくれる。


「今は仕事が忙しくて、もう何年もギターに触れてません。

 毎日が、何か大事なものを少しずつ失くしていくみたいで……。

 でも、それでも“これが現実”なんだって、自分に言い聞かせてます」


「“音楽”が、あなたのなかから消えてしまったと感じるのですね」


「はい……でも、本当は、心のどこかにまだ音が残っている気がします。

 何をやっても、あの頃の自分には戻れない気がして、怖いんです」


 紅茶の表面に立ちのぼる湯気を見つめる。

 カップを置く音、マスターが氷を割る音、遠くでグラスが触れ合う音――

 ここには、やわらかな“音”がたしかにある。


「音楽は、“いまここ”にしかないものです」

 マスターが静かに言った。


「過去にあった音も、未来に聴きたい音も、すべて“いま”のあなたの中に息づいています。

 もしまたギターを弾きたくなったら、そのとき奏でる音こそが、今のあなた自身の音楽なんですよ」


 私は、胸の奥にふと小さな灯りがともるのを感じた。


「……子どもの頃、母が眠れない夜に作ってくれたミルクティーを飲みながら、窓の外で雨が降る音を聴いていました。

 母の寝息と、自分の指が窓ガラスを叩く音。

 どんな音も、全部“今しかない音”だったんですよね」


「その記憶が、いまもあなたを支えているのだと思います。

 たとえギターを手にしなくても、音楽はあなたの心の奥で静かに鳴り続けています」


 私は、カップの底に残ったアールグレイの香りを嗅ぎながら、そっと目を閉じた。


 思い出すのは、ライブハウスの熱気、アンプからこぼれる歪んだ音、仲間と深夜まで語り合った帰り道。

 あの夜に確かに聴こえていた“自分だけの音”は、消えたわけではなかった。


 静かなバーの空気のなかで、私は少しずつ自分の“音”を取り戻していく。


「……今夜は、帰ったら久しぶりにギターを触ってみます」


「うまく弾けなくても、その手の中に音楽が戻るはずです。

 そして、また新しい“余韻”が生まれるでしょう」


 グラスを置く音が静かに響く。

 立ち上がると、外はまだ静かな雨。

 街のノイズのなかにも、小さなリズムが確かに混じっていた。


 駅まで歩く道すがら、傘の先で水たまりを跳ねる音、

 遠ざかる車のタイヤが水を切る音――

 それらすべてが、どこか懐かしく、どこか新しい“自分だけの音楽”になっていた。


 この夜の余韻が、また明日を少しだけやわらかくしてくれる。

 そんな気がした。

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