アップルシナモンの手紙
冬が春に変わる頃、空気が少し柔らかくなった。
けれど私のなかには、まだ深く、冷たい水底のような静けさがあった。
朝はいつも通りに目を覚まし、身支度をして家を出る。
職場では笑顔も作れるし、同僚と何気ない話もできる。
でも、ふとした瞬間に、世界の輪郭がぼやけることがある。
「今、あなたがいたらどう思うだろう」――そんなことばかりを考えてしまう。
彼を亡くしてから、もう一年になる。
悲しみは、涙が枯れたあとも、形を変えて心の底に澱のように残っていた。
彼がいなくなってからも、季節は巡り、街の花が咲き、いつも通りの日々が流れていく。
周りの人も、もう「普通」に戻った。
だけど私は、戻る場所をどこかに置き忘れてきたみたいだった。
その夜も眠れずに、部屋のなかをぐるぐる歩いていた。
彼の湯呑み、読みかけの本、好んでいた音楽……部屋の片隅に、今も彼の気配が微かに残っている。
窓の外を見ると、夜風が木々を揺らしていた。
無性に外の空気が吸いたくなって、上着を羽織り、人気のない通りへと出た。
歩くあいだ、何も考えないようにしていた。
だけど歩けば歩くほど、かえって心の奥のほうから、彼の笑い声や、ふとした癖、別れ際の言葉が浮かび上がる。
「忘れなければ」と「忘れたくない」が、波のように胸の内でぶつかりあう。
ふと、静かな路地の先に、やわらかな灯りが見えた。
月の絵が揺れる小さな看板。《Bar 月灯》。
こんな時間に、こんな場所で――でも、ためらいもなく扉を開けていた。
木の香りと、やさしい音楽。カウンターには、寡黙なマスターがひとり。
私はカウンターに腰かけて、深く息を吐いた。
「いらっしゃいませ。お好きなお飲み物をお作りします」
「……温かいものを。できれば、少しだけお酒も入れてください」
「ホットアップルジュースに、少しだけラムを。よろしいですか?」
「はい、お願いします」
鍋でゆっくり温められるりんごジュース。
シナモンとラム酒の香りがふわりと漂う。
マスターは静かにカップを差し出す。
両手で包むと、指先がじんわりとほどけていく。
そっと口をつけると、リンゴの甘さに微かな苦みが混じっていた。
それは、今の自分の心そのもののようだった。
「……大切な人を亡くして、一年になります。
周りの人は、みんな“もう大丈夫でしょう”って顔をしています。
でも、私は毎日、何かが抜け落ちたまま生きているみたいで……。
前に進まなきゃいけないこともわかっています。
けど、本当はこのまま立ち止まっていたい自分もいるんです」
マスターは、ただ黙って、私の言葉を受け止めてくれる。
私はグラスのなかの泡をじっと見つめる。
「一緒にいた時間も、最後に言えなかった言葉も、全部、今も私のなかに残っています。
あの人がいなくなった世界で、私はどうやって生きていけばいいのか……今もわかりません」
「悲しみは、時が経てば消えるものではありません」
マスターの声は静かで、やさしい。
「それでも、その悲しみがあるからこそ、人は深く優しくなれるのだと思います。
大切な人を愛したぶんだけ、心に空白が生まれる。
でも、その空白を無理に埋めなくていいのです。
ただ、そっと手を添えてあげるだけで、少しずつ温もりが戻る日が来るかもしれません」
私はそっと涙をぬぐう。
カップの中で、ラムとリンゴの香りがやわらかく混じり合う。
「いつか、この悲しみと仲良くなれるでしょうか」
「ええ、きっと。
悲しみは、あなたの大切な人との時間を裏切るものではありません。
それは、あなたが今もその人を大切に思っている証です。
時が経てば、その思い出はあなたを支える力にもなりますよ」
私はゆっくり、グラスの残りを飲み干した。
胸の奥に、小さな温もりが灯った気がした。
店を出ると、夜風が少しだけ柔らかくなっていた。
ふと空を見上げると、雲のあいだから月が顔を出していた。
悲しみは消えなくても、こうして生きていくこともまた、きっと大切なことなのだと、少しだけ思えた。
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