ホットチョコレートに沈む橙
また今日も、一日が終わった。
誰かのために走り回ることもなく、誰かに強く求められることもなく、淡々と、粛々と、私は「自分」をこなした。
都心のオフィスで定時まで働き、無難に愛想笑いを浮かべて仕事を片付け、目立つことなくタイムカードを押す。
同僚の輪のなかで、私はちょうどいい温度の空気を選び取るのが得意だった。
誰からも嫌われず、特別好かれることもなく、「良い人」であることが当たり前のようになっていた。
帰り道、ふと自分が「透明な人間」になった気がした。
駅ビルの明かり、改札のアナウンス、コンビニの自動ドアの開閉音――。
どこを切り取っても、自分はただの“その他大勢”で、代わりはいくらでもいるような気がする。
買い物かごの中には、夕飯用のサラダと冷凍パスタ、明日のおにぎり。
レジ袋を持ってエスカレーターを下りると、足元の影だけが自分の存在を証明していた。
家路を急ぐ理由もない。
賑やかなカフェや居酒屋の声を避けて、少し遠回りする。
人通りの少ない裏道は、どこか別の世界に続いているようだった。
ふと、通り過ぎかけた路地の奥に、小さな看板が灯っているのに気づいた。
丸い月の絵が描かれた板に、「Bar 月灯」と金色の細い文字。
なぜだろう。ほんの少し勇気を出せば、今夜はこのままどこかへ消えてしまえそうな気がした。
吸い寄せられるように、その灯りの下へ歩いていく。
ドアを開けると、やさしい木の香りと静かな音楽、思いがけないほど暖かい空気に包まれた。
「いらっしゃいませ。お仕事帰りですか?」
カウンターの奥に、落ち着いた雰囲気のマスターが立っていた。
私は小さくうなずきながら、バッグを膝に置く。
「……はい。今日はお酒じゃなくて、甘いものが飲みたい気分なんです」
「かしこまりました。カカオとオレンジのホットチョコレート、いかがでしょう?」
「お願いします」
マスターが丁寧に鍋を火にかけ、ミルクとカカオを混ぜる手つきをぼんやりと眺める。
時折、オレンジの皮を削るナイフの音。カウンターの向こう側では、静かな時間がゆっくりと流れていた。
やがてグラスに注がれたチョコレートは、深い茶色の中にオレンジピールが浮かび、蒸気がほのかに柑橘の香りを運ぶ。
ひとくち飲むと、甘さの奥に小さな苦味があった。
「……今日、自分が“普通”すぎることが、急に苦しくなってしまって」
私はカウンター越しに、ぽつりと言葉をこぼす。
「大きな失敗をしたわけでも、誰かにひどく傷つけられたわけでもなくて。ただ、毎日が同じ繰り返しのなかで、“これが本当に自分の人生なのかな”って、ふと立ち止まってしまうんです」
マスターはグラスを磨きながら、ゆっくりとうなずいた。
「“普通”であることは、実はとても大変なことかもしれませんね」
「……大変ですか?」
「ええ。物語になるような出来事がなくても、毎日を淡々と積み重ねること。それ自体が、とても力のいることです。
でも、人はつい、“何者か”にならなければいけない、と自分を急かしてしまうものです」
「そうなんです。
SNSを見れば、同い年の人が大きな仕事をしたり、結婚したり、子どもを産んだり、夢をかなえたり――。
その横で、私はずっと、ただの会社員を続けているだけ。
誰からも特別に見られず、誰かを特別に思うこともなく……。
時々、どうしようもなく空しくなって、“こんな人生でよかったのかな”って思うんです」
ホットチョコレートをもうひとくち飲む。
カカオの甘さと、オレンジのさわやかさが、胸の奥にじんわりと広がる。
「けれど、毎日同じような日々を繰り返すなかで、ほんの小さな幸せを見つけている自分もいるんです。
たとえば、帰り道に見上げた月がきれいだったとか、駅で見知らぬ子どもが私に笑いかけてくれたとか。
……そういう瞬間だけが、自分が“生きている”って実感できるんです」
「“特別”と“普通”は、いつだって隣り合わせです」
マスターが静かに言う。
「たとえば今夜、あなたがふと立ち寄ったこのお店のことも。きっと、何年か後には、誰かに語りたくなる“特別な夜”になっているかもしれません」
「……そうでしょうか」
「ええ。大きな出来事がなくても、人の心が少し動く夜には、ちゃんと物語が生まれるものです。
自分が何者かになることだけが、生きる意味ではありませんよ」
私は、カウンターの端に置かれたオレンジの皮をじっと見つめる。
その鮮やかな色と香りに、子どもの頃の記憶がふっとよみがえる。
母が風邪をひいた夜、ホットミルクにオレンジピールを入れてくれたことがあった。
それがどんなに小さな出来事でも、私のなかでは大切な思い出として残っている。
「……母も、昔“普通の人生”だったと思ってたのかな」
「きっと、どんな人にも“普通”の中にだけある宝物があるのでしょう」
私は少しだけ笑った。
「なんだか今夜は、昨日よりも自分を許せそうな気がします」
「それが何よりです。
ホットチョコレートには、心をやわらかくする力がありますから」
グラスの底に、オレンジの香りがほのかに残る。
私は、明日もきっと同じような一日を過ごすだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
帰り道、夜の街は相変わらず静かで、私はもう一度だけ空を見上げた。
雲の切れ間から、丸い月が静かにこちらを見下ろしていた。
“普通”のなかに、小さな特別を見つける。
そんな夜も、きっと誰かの物語になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます