出・勤

「いらっしゃいませ!」




エイジは天使を見た。ややこしいのだが、この場合の天使は、本物の天使ではなく、比喩としての天使である。目からはすっかり毒気が抜け、背筋はピンと伸び、清潔な身なりで丁寧な言葉遣い。心なしか店長も鼻が高そうである。




「あの、エイジさん…。私、あなたにどうしてもお礼がしたくて…。」




あれ?何だかおかしいぞ。何だか都合が良すぎる。こういう場合は、大概…




 *




8月5日、エイジは目が覚める。心地の良い眠りだったかどうかはわからない。それは見た夢のせいだった。枕の横にあるスマホを手探りで手に取る。寝ぼけながら時刻を確認すると現在は時刻10時過ぎ。店の営業はスタートしており、昨日の話の通りならばベガはもう働いているのだろう。見かけ通り全然仕事ができないタイプなのか、実はやはり天使なだけあって、割とそつなくこなすタイプなのか、彼は結果が少し楽しみになった。今日シフトが入っていないことが残念だ。


ふとカメラロールから撮影した紙のシフト表を確認する。あれ、今日は…。


エイジは不安半分、半分で今日の彼女の様子を想像した。




 *




「……っせー…。」




肝心の使はというと、目つきが悪く、猫背の不健康そうな姿で皿洗いをしながら、来店した客に挨拶をしていた。彼女は翼を隠すために、コサキから、真夏だがブカブカのパーカーを着させられていて、今は腕をまくっている。それがより一層彼女の不健康感を増幅させていた。




「ベガちゃん!だから、いらっしゃいませ、ね!あと背筋!ほら!」




ホールから厨房へ来てそうアドバイスするのは中山ヒトミ。ダイニングこでらアルバイト三人衆の紅一点である。エイジやトオルと同い年で現在大学3年生。身長が高く姉御肌で、コサキとはよく言い争いになっている。


エイジの中で面白さと不安が入り混じっていたのは、彼女は店長より圧倒的に仕切りたがりな性格委員長タイプなので、彼は何となくベガとは最悪の相性だと予想していたからだ。その予想は当たっていた。




「ベガちゃん、このお皿はこっちだからね、あっ今行きます!お会計の方、少々お待ちください!」




ヒトミはせかせか動くたび、後ろで一つ結びにした髪の毛が揺れて、どうしたって人の目を惹く。その活発な様子とは対照的に、ベガはいつにも増して猫背になる。


思いっきりため息を吐こうとするのを耐えて調理中のコサキに話しかける。




「店長…。お腹減りました。…休憩はまだですか?」




「まだ一時間ちょっとしか経ってないぞ。まだ先だ、頑張ろうな。」




店長は作り笑いを浮かべ、ベガの肩をポン、と叩く。すると会計を終えたヒトミが戻ってきて”ご指導”の続きをする。




「まあ初日だから仕事がわからないのはわかるんだけど、ちょっとお皿割りすぎかな。3枚は割ってるからね。」




真っ当な指摘に返す言葉もなく「はい…ごめんなさい…」と平謝りする。数日前までの態度とは大違いである。働くことは、残酷なくらい人を変える。さらに”ご指導”は続く。




「あとね、ベガちゃん。これは直せることかは分からないんだけど、ちょっとあの…目つきが、ね。」




その点に関してはコサキが申し訳程度のフォローを入れた。




「目つきが悪いのは威嚇とかではなく、純粋に視力が悪いからだそうだ。だからモノを見るために目と眉をしかめるのが癖になってるらしい。」




まあそれなら仕方ないか、という顔をしているヒトミを見て、ベガはふんっ、と少し勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


どうやらヒトミのご指導にストレスが溜まっており、少し自分が優勢になったタイミングでささやかな復讐を試みたようだった。まったくいい性格をした天使である。


コサキは、お前なあ、と呟きため息をつき、ヒトミは天使の態度に少々困惑した。


ベガによる店舗全体への大幅デバフにも関わらず店が回るのは今日が平日だからだ。コサキは平日のうちに彼女を少しでも教育しようと考えた。




「よし、ベガ。今日は皿洗い特訓だよ。頑張って頂戴。」




ベガはもうすでに逃げ出したかった。




 *




「ありがとうございましたー!」




ヒトミは弾ける笑顔で最後の客を見送る。ベガはというと、洗い物をこなしきれずに半分白目を剥きながら皿を洗っている。魂が半分抜けたような状態で彼女は言う。




「も、もうさすがに終わりですよね…?」




ベガの渾身の問いかけに、コサキは笑いながら答える。




「まあ本当はこっから一時間くらい締め作業があるんだけど、今日は良いよ、お疲れ様。あとは私とヒトミでパパッと終わらせるから、お客さんの席に座って休憩してていいよ。」




満身創痍の様子でベガは息が漏れたような返事をする。




「は、はひ〜。」




ベガはフラフラと魂が完全に抜けたような歩き方をし、席にドスンと勢いよく座る。そして肩と首をガクンと落とし、『あしたのジョー』のような姿勢になった。わずか1日の労働で彼女は完全に燃え尽きてしまったようだ。




厨房から彼女の様子を見ていたヒトミがコサキに問いかける。




「コサキさん、彼女が天使って本当なんですか?正気です?」




ベガとは違い、恐ろしい速度で皿を洗いながらコサキは答えた。




「ああ、私も最初はそう思ったよ、正気かって。だけどなんか彼女、嘘とか全然つけないんだよ、話せばわかると思うけど。でも頑なに天使なんです、っていうからさ。なんか…本当にいるのかもって思ったって言うか。」




ヒトミはしかめ面で、何か文句があるような様子でこう返す。




「なんかエイジもコサキさんも変ですよ。まるで彼女にされてるみたい。…まあでも、私も信じてみようかな。だってそっちの方が面白そうだし。」




若い子の考えていることはわからない、10歳そこらの差なのに。男子二人よりヒトミは一層わからない。でも、だからこそ、面白い子たちなんだよな。柄にも無くそんなことを思うと、ふふっ、とコサキは大人びた笑い方をした。それを見たヒトミが、なんで笑ったんですか!と突っかかる。


そんなやりとりをしながらコサキはふと、昨日の夜、ベガと話したことを思い出し始めた。




 *




「私はもともと、この空の上で暮らしてました。とはいっても、飛行機とかで行ける場所じゃなくて、この、私たちの背中にあるモノでしか行けない場所。」




「ある日、私はうまく飛べなくなって、ここに落ちてきました。すぐに戻れると思ったんだけど、なかなか上手くいかなくて。」




ベガはゆっくりと言葉を紡いだ。コサキは缶ビールを煽りながらうんうん、と相槌を打つ。つい先月までは妹のハルと二人で住んでいた1LDKのマンション。ベガが妹のように感じられ、コサキはなんだか悪い気がしなかった。久々の二人の晩酌に、彼女はふと気になったことを聞いた。




「ベガちゃん…ベガでいい?ベガは向こうでは家族とかはいたの?」




ベガはええと、とを考えた後、少し俯いて答える。




「それは…。言えません。」




「そっか。」




コサキはそれ以上何も聞かない。その優しさを感じたのかどうかは定かでは無いが、ベガは言葉を続けた。




「でも!でも、今結構…いや凄くかも。楽しいんです。正確には今が、ってより、楽しくなるような予感がしてる…みたいな。」




少し飲みすぎたのだろうか、コサキの瞳が少し潤む。指で目の端をぬぐうと優しく答える。




「それはよかったね。…明日からバリバリ働いてもらうよ!じゃあほら、今日はシャワーを浴びて、早く寝るよ!」




本日付で始まった奇妙な同棲生活は、なかなか好調なスタートを切ったようだった。コサキがベガの、底なしの食欲を知るのはまだちょっと先の話である。

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