序章:終わり、そして――
焼け落ちた屋根の隙間から、黒煙が空に昇っていた。
秋の風が吹いた。いつもなら黄金色の稲を揺らすだけの風が、今日は死の匂いを運んできていた。
「……なんで……」
自分の足音だけが世界に響いているような気がした。
背後で、誰かが泣いていた。誰かが、悲鳴をあげていた。誰かが、燃えていた。
イリスの声がした。
「ザクロ! 右、来る!」
反射的に身を屈めた。背後から飛びかかってきた魔獣が、イリスの剣によって弾き飛ばされる。
少女の呼吸が荒い。血と煤で顔が汚れている。だけど、その眼だけは、炎よりも強く燃えていた。
「こっち!」
イリスは、カゲリの手を握って先頭を走る。カゲリは泣いていた。何も見えず、何も分からず、ただ怯えていた。
俺はその背中を、必死に追いかけていた。
――何もできない。
拳を握った。けれど震えるばかりで、力が入らなかった。
魔獣が村を蹂躙している。衛兵たちは太刀打ちできない。もう何人が殺されたのか、分からない。
それでも。
一人だけ、違う人間がいた。
ロウだった。
あの元・勇者の男。
炎の中、剣を振るい、魔獣をなぎ倒し、叫び、血に塗れて、それでもまだ立っていた。
俺は、願うように呟いた。
「ロウ……!」
けれどその願いは、ほんの数秒後に裏切られる。
爆音。風圧。地が揺れる。
倒壊した家屋の瓦礫の中から、ロウが転がり出てきた。
「――っ!」
その姿に、息を呑んだ。
全身が裂かれ、片足を引きずっている。手には何もなかった。あの、最強のロウが。あの、誰にも負けなかったロウが――。
信じられなかった。
そして。
森の向こうから、闇がやってきた。
空すら塗り潰すような巨影。あらゆる命が立ち尽くすような。絶望的な気配。
それは、黒い霧のように現れた。
焼け落ちた森の木々を踏みしだき、村の大地を震わせながら、それは現れた。
まず見えたのは、足だった。
まるで獣のそれ――だが、爪は大地に根を張るように太く、四肢ではなく六肢を持つ異形。一歩ごとに地面がひび割れ、土が呻いた。
その体躯は――城のように巨大だった。
普通の魔獣の十倍、いや、二十倍はあろうか。大木のような四肢を持ち、全身を漆黒の鱗で覆われていた。それは鱗でありながらも、ところどころに目玉のような器官が埋め込まれており、瞬きすらせずに周囲を見渡している。
顔は、“顔”と呼んでいいものかすら分からない。
人のような形状をしていたのは、唯一、口だけだった。無数の牙が縦に並ぶ異形の口が、胸のあたりに開き、そこから瘴気が漏れ出ていた。
頭部には角があった。まるで枝のように幾重にも分かれた、白骨のような角が左右に広がり、まるで死神の冠のように見えた。
背中からは、羽とも触手ともつかぬ何かが伸びていた。風もないのに、空を泳ぐように蠢いている。一本一本が意思を持つようにゆっくりと波打ち、時おり地面に触れては黒い煙を撒き散らしていた。
全身のいたるところから、声が漏れていた。
呻き声、泣き声、呪いのような言葉。無数の“声”が、鱗の隙間から滲み出るように聞こえてくる。それらは決して叫ばない。ただ、ひたすら耳の奥にまとわりつくような囁きで、逃げ場を塞いでくる。
眼は――一対だけ、頭部にあった。
その瞳は、炎でも氷でもなかった。何も映さず、何も感じず、ただそこにあるというだけで、すべてを否定するような色。
それは。
「我が名は――リヴァイス。絶淵の主にして、万魔の王。大魔なり。名乗れ。勇者よ」
その声は、耳ではなく、魂を貫いた。血が凍った。
誰も動けなかった。ただ、ロウだけが前に出た。
「逃げろッ!!!」
怒号とともに、ロウはイリスを振り返る。
イリスは立ち尽くしていた。ただ迷っているようにも見えた。ロウと共に戦うべきか。それとも――そんなイリスの様子を見たロウはものすごい形相で叫ぶ。
「おまえは……ずっとできの悪い娘だった!」
その言葉は、刃だった。イリスの瞳が、揺れた。
「強がって、勝手で、言うことも聞かねぇ。俺の背中を見てるつもりで、何も見ちゃいねぇ……!」
イリスは唇を噛んだ。目に涙が浮かぶ。
「ザクロ、カゲリ、行くよ」
「え……」
「森の南。王都へ抜ける道がある……お父さんがそう教えてくれた」
ザクロは何も言えなかった。ただ、必死にその背中についていくことしかできなかった。
振り返れば、ロウの背中が見えた。
巨躯の魔獣に対し、傷だらけの男が、最後の一歩を踏み出していた。
「勇者ロウ・アッシュボーン」
「大魔リヴァイス」
最後に見たのは。
勇敢に名乗りを上げるロウと。
堂々と名乗る『大魔』。
そんな両雄の。
強者同士の名乗り合い。
俺は何もできなかった。ただ震えてイリスについていくこちしかできなかった。俺は無力だ。何もできない。それがたまらなく悔しくて。
「俺は――」
〇
森は静かだった。
さっきまでの悲鳴も、燃える音も、ここまでは届いてこない。
だからこそ、その静けさが不気味で、恐ろしかった。
イリスがふいに足を止めた。暗い森の中、彼女の背中が浮かび上がる。
「……この道をまっすぐ行けば町に出る。王都の前の、駐屯地があるはず。そこまで逃げて」
唐突だった。何の前触れもなく。けれど、それは確かに“別れ”の言葉だった。
「え、ちょっと待ってよ、何言ってんだよ。……イリス?」
「私は、戻る」
その声は、ひどく静かで、怖いくらいに迷いがなかった。
「他の人たちがまだ逃げきれてない。……このままじゃ、誰かが、また……」
「無理だよ! あんなのがいるんだぞ!? おまえ一人で何が――!」
「私じゃない。私だけじゃない……でも、誰かが、行かなきゃいけない」
俺は必死に言葉を探した。言いたいことが喉に詰まって、何も出てこなかった。
「……やめろよ、そんなの……」
イリスは振り返らなかった。風に揺れた髪の向こうから、かすかに言葉が漏れた。
「……ずっと、うっとうしかったよ。あんたのこと」
「――は?」
「私の後ろをうろちょろして。怖いときだけ寄ってきて。何もできないくせに、変な意地だけはある」
言葉が、鋭く刺さった。
でも、どこか違和感があった。
それは本心なのか? 本当に俺を――
けれど、イリスの声は続いた。
「だから、来ないで。お願いだから。あんたまでいたら、私、本当に……立てなくなるから」
「イリス……」
「行って。お願い」
「俺も……! 俺も行くって、言ったら……!」
「足手まといだよ」
その一言が、胸の奥を抉った。
「――あんたは、私の背中なんか見ないで、前だけ見て逃げなさい。せめてカゲリの手を離さないでいて」
「でもっ……!」
「お願い……!」
今度はカゲリが泣きながら叫んだ。俺の腕をぎゅっと握って、離そうとしない。
「一緒に……逃げようよ……! みんなで一緒じゃなきゃ、いやだよ……!」
心が引き裂かれそうだった。
戻りたい。イリスを助けたい。
でも怖い。あの魔獣が。あのリヴァイスが。
足が動かない。勇気が出ない。
頭の中がぐちゃぐちゃで、涙が滲んで、視界がぼやける。
――イリスが、俺のことを嫌いでも。
それでも、行かせたくなかった。
でも。
それでも。
俺は――
「……くそっ……!」
走った。逃げた。カゲリの手を引いて、振り返らずに。
顔を上げるのが怖かった。
背中を向けた自分を、直視するのが、なにより怖かった。
けれど、森の出口が見えかけたとき、どうしても振り返らずにはいられなかった。
「――イリス!!」
声が枯れそうだった。けれど、叫ばずにはいられなかった。
「まだ……! まだ決着はついてねぇんだ!! だから……!」
――死ぬなよ!!
最後の言葉は、喉の奥で引っかかって、うまく出なかった。
けれど、それでもイリスは立ち止まった。
ほんの一瞬だけ。
彼女は、振り返らなかったけれど――それでも何かを噛みしめるように、ゆっくりと前を向いて、歩き出した。
燃える村の方へと。
父が、まだ戦っているその場所へと。
それが、彼女の答えだった。
この時の選択を。
俺は。
一生後悔し続けるのだろうと。
そう思った。
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