序章:魔獣、瘴気、大魔
場所は村の外れ。森の中。うっそうとした雰囲気が漂っている。どこか空気が淀んでいるように感じた。そこは村の大人から立ち入りを禁じられた森。正式名称『シノノメの森』。魔獣が生息している場所だ。
前述の通り。
ここは危険だと言われて立ち入りを禁じられている。
夜更かしをした時には「夜更かしをするとシノノメの森に住む怪物がおまえを攫う」と言い聞かされてきた。なので俺にとってここはとても恐ろしい場所なのだ。
ついて来い。と言われてここまで来た。けど今はずっと後悔している。さっきから身体が震えっぱなしだ。微かな物音ひとつにびくっとしてしまう。
そんな場所で俺とロウは向かい合っていた。
こいつは腰に一振りの剣を携えている。無骨ながらも使い込まれているのが見て取れる。
先に口を開いたのは向こうから。
「悪ぃな。こんなところまで着いてきてもらってよ」
「いいっすよ別に」
「とか言って。ホントは全然そんなことないんだろ? 震えてるぜェ。怖いんだろ」
「んなことないっすよ。別に怖くねーし」
「ほォ……まあいい。今日ここまで来てもらったのにはワケがあんだよ」
「なんです? それ」
実際なぜ呼び出されたのかは謎だ。
いつものようにイリスと勝負をしていた時。いきなり声をかけられた。あまりにも急な出来事に気が動転していたのか。シノノメの森に来るまでの記憶が曖昧だった。
「見せたいものがある。知って欲しいものがある。伝えたいことがある。って感じだわな。まあついて来いよ。いいもん見せてやらァ」
「はぁ」
俺は間の抜けた返事を返す。
その後また森の中を進み始めた。
ロウは灰銀色の髪を揺らして堂々と歩く。対する俺はおっかなびっくりと歩いている。
本当に謎だ。
こいつ俺に何を――。
「おっ、来たぞ」
ロウが突然そう言った。
のと同時に草むらから異様な姿をした獣が現れる。
体高は人間の大人ほどもあり、犬や狼に似た四足歩行。しかし、体は細長く、骨ばっていて不気味に痩せこけている。その皮膚は墨のように黒く、ところどころ裂けたように割れており、そこからは薄い紫色の燐光が漏れ出していた。
顔は異様に長く伸び、まるで笑っているかのように口が裂けている。だがその裂けた口の奥には、無数の細い歯がぎっしりと生え揃っていた。目は左右非対称に配置され、白目のない真っ黒な瞳がじっとこちらを見ている。
背中には羽根のような骨が突き出しており、風もないのに微かに震えている。それが虫の羽音のような異音を森に響かせていた。
鼻先をくんくんと動かすと、獣は一歩、こちらに近づいた。
「うっ」
俺がまず感じたのは気持ち悪さ。
恐怖でも何でもない。
吐き気が込み上げてくる。視界がぼやける。思わず口元を抑えてうずくまってしまう。視線は足元へ。魔獣の姿を直視できない。
なんだこれ。
どうしちゃったんだ。
急に。
立ち上がれなく。
「これが魔獣だァ」
ロウの声が聞こえる。
だが俺は、まだ顔を上げられない。頭がぐらぐらする。喉の奥が焼けるように熱い。立ち上がろうにも、膝に力が入らない。
「動けねェのも無理はねえな。これは《淀み》のせいだ。瘴気ってヤツよ」
ロウは剣を抜く。鈍く光るその刃が、森の紫がかった闇の中にちらついた。
「淀みってのは、世界を腐らせる毒みてェなもんだ。目に見えるが、微量ならすぐに死ぬことはねえ。ただ……テメェみたいな新人にはきっついよな。耐性がねェ」
魔獣が動いた。音もなく。ぬるりと地面を滑るように。
ロウは構えをとると、一歩、前へ出る。
「魔獣ってのは、こいつらのことだ。魔力と瘴気を喰らって生きてる化けモン。下級は獣と変わらねェが、中級以上になると……」
その時だった。
魔獣が飛びかかる。闇を切り裂いて一直線に――
刹那。
ロウの剣が閃いた。
金属の風切り音とともに、魔獣の前脚が宙を舞う。だが奴は止まらない。片脚を失ってなお、勢いそのままに迫る。
「中級魔獣は、考える。仲間と連携し、時に引き、時に誘う。こいつはどうかな――少しは学習してんのか?」
再び剣が唸る。
ロウの身のこなしは重たくも鋭く、魔獣の牙を紙一重で避け、その腹を斬り上げた。
どろり。
紫黒の液体が地面に滴る。落ちたところから黒いモヤが薄らと出ていた。気持ち悪い。
ロウは後ろに飛んで距離をとる。
「魔獣は群れを作る。下っ端は小さくても群れることで厄介な連中になるし、上位個体は単独で動くことが多い。……こいつは群れの斥候か、それとも縄張りを荒らした俺らに興味を持っただけか」
魔獣は低く唸る。もう片脚も引きずっている。それでも、まだ動く。
「怖えか? これが現実だ。……ここは《シノノメの森》。淀みが濃い。魔獣が巣を作るには絶好の場所だ」
ロウが構え直す。
「そして、時に魔獣の中には知恵を持った個体が現れる。リーダー格だ。人の言葉を喋ることもある。そいつを狩れば、群れは一時的に散る。だが……一時的、だ」
魔獣が最後の力を振り絞って突っ込んでくる。
「来いやァ!」
ロウが吼え、剣を横薙ぎに振るった。
魔獣の体が、裂けた。
肉が裂け、骨が砕け、紫の煙を撒き散らしながら魔獣は倒れる。
やがて、それはじくじくと溶けるようにして地面に染み込んでいった。
「……おい、立てるか」
ロウの声に、俺はようやく顔を上げる。
視界はまだ揺れているが、少しずつ、吐き気は治まってきていた。
「……なんすか今の……なんで……気持ち悪く……」
「それが魔獣ってもんだ。淀みとともに生きる、異形の存在。見ただけで正気を削られる。……それでも、知る必要がある。テメェがこれから先、戦っていくつもりならな」
魔獣が消えたことで、森の空気は少しだけ軽くなったように感じられた。
瘴気がすべて消えたわけじゃない。気持ち悪さもまだ残っている。でも――
「……やっぱ、すげぇっすね。ロウさん」
俺はふらふらしながらもようやく立ち上がり、そう口にした。
ロウは振り返らなかった。
ただ森の奥をじっと見つめたまま、呟くように言った。
「……三年前だ。王都の占い師に会ったのは」
「占い師?」
「ああ。たまにいるんだよ、未来が見えるって言う変な連中がな」
ロウはようやくこちらを振り返る。その表情は、笑っていた。だがその笑みは、どこか力の抜けたような、乾いたものだった。
「言われたよ。『勇者ロウはいつか、大勢の人々を守って死ぬ。未来へのわずかな希望を残して』……ってな」
「……そ、それって……」
「まるで英雄譚だろ。立派なもんだ」
ロウは肩をすくめ、剣を鞘に納めた。
「だけどよ、面白いのはここからだ」
ロウは指を三本、目の前に突き立てた。
「その日が、三日後だとよ」
「……は?」
「未来は確定してるわけじゃねえ。変えられるもんだ、とは言ってた。けど、三日後に死ぬ可能性が、極端に高い……ってさ」
意味が、すぐには理解できなかった。
三日後に死ぬ。
ロウが?
あの、無敵みたいに見えたロウが?
「なにが起きるのかは分からねェ。けど、なんとなく察しはつく」
ロウは森の中を見回す。
「ここ数日、明らかに瘴気の濃度が上がってる。俺みてェなヤツじゃなくても、感じるレベルだ。おそらく――大型の魔獣が出てきてる」
俺は息を飲んだ。
「それも……複数、だろうな。シノノメの森の奥に、やべェ奴らが巣を作ってる。そう考えるのが自然だ。群れを率いるリーダー格かもしれねェ」
森の風がざわついた気がした。
まるで、何かがこちらを監視しているかのような、嫌な感覚。
「村は、確実に狙われる。奴らにとってここは邪魔なだけだ。人間の営みは、淀みを薄めるからな。巣を守るには、村を潰すのが一番手っ取り早い」
ロウは続けた。
「そしてその時、俺は村を守るために戦って――死ぬ。……って未来が、頭に浮かぶんだよ」
「そんな……そんなの、まだ決まったわけじゃないっすよね?」
「さっき言っただろ。未来は変えられるって。……でもな、分かるんだ。直感ってヤツよ。身体のどこかが、そういう風にできてんだよ」
ロウは笑った。今度は、少しだけ優しい笑みだった。
「だからお前にも、見せたかったんだ。これが魔獣ってやつだ、って。これが“現実”だって。怖がっても構わねェ。でも、知っとけ。――お前がこれから、生きていく場所なんだ、ここは」
俺は返す言葉がなかった。
ロウが本気で、自分の死を語っていたからだ。冗談でも、はったりでもない。心の奥底で、それを受け入れている目をしていた。
「三日だ。……三日後、何が起きるかはわからねェ。けど……その時が来たら、俺は俺のやるべきことをやるだけさ」
風が吹いた。
森の木々がざわめき、闇が少しだけ深くなった気がした。
「……お前には、可能性がある」
ロウがぽつりとつぶやく。
「え?」
「バカみてェにな。何度負けても立ち上がる。勝てねェって分かってんのに、イリスに挑み続ける。その姿見て、思ったんだ。こいつは、諦めを知らねェ奴なんだなって」
ロウは懐から小石を一つ取り出すと、軽く放り投げて、それが地面に落ちる音を聞いた。
「そういう奴には、何かを変える力がある。……それがすぐじゃなくても、何年か先でも。誰かの言葉とか、選択とか、そういう小さなことに火をつけるような――そんな力がな」
俺は思わずロウの顔を見た。
ロウは笑っていた。けど、どこか寂しげだった。
「だからさ。お前には生きてて欲しいんだ」
「……っ」
「村の大人たちには、もうそれとなく話してある。三日後の夜、決して外に出るなって。意味は教えてねェ。無駄に恐怖を煽るだけだしな。でも、何事もなけりゃそれでいい。……何かあったら――そのときは、お前が、後を託される番だ」
ロウの視線が、真っ直ぐ俺に突き刺さる。
「お前だけでも、生き延びろ。分かったか。ザクロ」
俺は、返事ができなかった。
いや――できなかったんじゃない。
したくなかったのだ。
分かったなんて言いたくなかった。そんなことを口にしたら、本当にロウがいなくなってしまう気がして。
でも、ロウはそれ以上何も言わなかった。ただ、俺の肩を軽く叩いて、森の奥へと歩き出した。
彼の背中が、森の闇に溶けていく。
それが、俺の見た最後のロウの姿だった。
そして――三日後の夜。
空が赤黒く染まっていた。
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