序章:挑戦の日々
その日から俺はイリスに勝負を挑み続けた。
ある時は。
「よし今日はかけっこで勝負だ!」
「いいよ」
「――ぜぇ……! はぁ……! ちょ、は、早くない……?」
「ふふん。お父さんに鍛えられてるからね。体力には自信がある」
「くっそ……!」
またある時は。
「今日は腕相撲で勝負だ!」
「いいよ」
「――俺が、負けた……?」
「女の子に腕相撲で負けて恥ずかしくないの?」
「ぐぅぅ」
またまたある時は。
「ふっふっふ……今日はチェスで勝負だ!」
「私チェスなんかやったことない」
「まぁまぁ、いいからいいから。やろう」
「いいけど」
「――なんでだよ!? なんでそんな強いんだ! おまえ嘘ついたな! 実はめちゃくちゃチェスが得意とか……!」
「ほんとに初めてやったんだって」
「絶対嘘だ! この嘘つきめ!」
「……見苦しい」
「なにぃ!?」
俺はイリスと勝負をし続けた。そしてその全てに敗北した。
意味が分からない。あいつは完璧超人だ。強く優しく気高い女性。将来はきっととんでもない美人になるんだろう。
自分でもよく分からなかった。なぜイリスにここまで執着しているのか? 初めて出会ったあの時。あれから俺はおかしくなっている。
イリスを負かしたい。けれど負けている姿は見たくない。
矛盾した二つの想いが胸中を占めている。
俺はどうすればいいのだろうか?
気づいたらイリスのことで頭がいっぱいになっている毎日。親父にはよく怒られているし。母さんには心配そうな目で見つめられているし。
それでもあいつへの挑戦を諦める気にはなれなくて。
気づけば俺は十五歳になっていた。身体の方はそこそこ成長した。が中身は全く成長していない。
かくいうイリスはといえば。三年前とほとんど変わっていなかった。初めの方はお互い同じくらいの身長だったのにな。気づけば背丈があいつよりも高くなっていた。
いや唯一勝ってるのが身長って……。
悲しくなる。
ちなみに十五歳になった今でもイリスには一度も勝てていない。
けれどまあ。
これでいいだろうとも思う。
何事もなく日常が過ぎればいい。いつもみたいに家の畑仕事を手伝ってさ。いつもみたいにイリスと勝負して。それでいいじゃないか。
俺は今とても楽しい。
このまま何も起きなければいいのだが。
〇
ある日の夕方。イリスがロウに木剣で殴り飛ばされている場面を目撃してしまった。用事があってあいつの家に向かった際に起きた出来事である。
その時の光景は目に焼き付いていた。
夕陽が森の端を朱く染めていた。
木々の合間から差し込む橙の光は、まるで森そのものが炎に包まれているかのようだった。
森の奥、長い山道を抜けた先にある空間。ぽっかりと口を開けたその場所だけ、奇妙に草が生えていなかった。硬く乾いた地面に、血のように滲む赤い光が落ちている。
そこに――イリスが倒れていた。
長袖の服は破れ、肘や膝には泥と擦り傷。漆黒の髪は地面に広がり、その頬には小さな切り傷が一筋。息をしているのかどうかも分からないほど静かで、まるで壊れた人形のように、彼女はうつ伏せに横たわっていた。
その傍らに、ロウがいた。
片手に木剣を握りしめ、イリスを見下ろしていた。
表情は読めない。ただ、どこか冷えた目をしていた。感情を殺す訓練でも受けているかのような、そんな無機質な目だった。
木剣の先から、ぽたり、と血が落ちた。イリスのものか、それとも別の何かか――それすら、分からなかった。
風が木々を揺らす。葉擦れの音が、微かに震える心臓の鼓動をかき消した。
何か言葉を発しようとして、喉が張りついた。叫ぶことも、駆け寄ることもできず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
〇
「ねぇ。見たの? 私が修行してるところ」
翌日の昼。イリスに何気なく問われる。
俺は何も言わなかった。無言で目を逸らす。するとこいつはため息をついて。
「酷いよねぇお父さん。容赦ナシ。もうほんっとうに厳しくて! 毎日大変」
「嘘だろ。あんなのを、毎日?」
「うん」
ありえないだろ!
あんなボロボロにされて。打ちのめされて。真っ当な父と子の関係ではない。
「お父さんね。私を強くしたいんだって。『勇者選定大祭』で優勝できるくらい。私期待されてるの。勇者の娘。才能に満ち溢れている。なんでもできちゃう。完全無欠の存在。私、お父さんの期待に応えなきゃいけない。だから、そんな顔しないで。大丈夫だから。気にしないで」
「なぁイリス」
「なに?」
「一つ聞きたい。おまえ、勇者になりたいって、本気で思ってるのか? 散々苦しんで。クソ親の言いなりになってんじゃないのかよ」
「強者は弱者を守らなければならない。なんて当たり前だよね。私は強い。ゆえに弱い人の味方にならないと。救わないといけない……ザクロのことも、私は守りたい」
俺は絶句した。
目の前のイリスは、ひどく明るく笑っていた。昨日あんなにも傷だらけだったのに、まるで何もなかったかのように。
それが余計に――腹が立った。
なぜ笑っていられる。
なぜ、そんなに我慢できる。
なぜ、そんな理屈を当然のように語れる。
おかしいだろう。
あれを見て、何も感じない奴なんていない。
強いから? 勇者の娘だから? 期待されているから?
そんな理由で、毎日あんな仕打ちを受けて、それでも「大丈夫」なんて言うのか。
胸の奥が焼けるように熱かった。
怒りと、悔しさと、焦燥と、なにより――無力感が押し寄せていた。
何一つ守れていない自分。何一つ変えられない自分。
いつも笑っているイリスに、勝ちたいだなんて言っていた自分。
滑稽だった。
情けなかった。
でも、今感じているこの感情だけは、確かに本物だった。
あんなの、絶対に許せない。
誰かの「理想」とか「大義」とかで、あいつが壊されるなんて、あっていいはずがない。
笑うことが、痛みに鈍くなることでしかできなくなるなんて――そんなの、絶対に間違っている。
拳が、震えていた。
力が入って、爪が掌に食い込む。
呼吸が浅くなって、視界がにじむ。
自分の中の何かが、軋む音を立てていた。
――何かを変えなければ。
その思いだけが、頭の中で何度も何度も反響していた。
「よし。決めたぞ」
俺は真っすぐイリスを見つめた。
もう目は逸らさない。
目の前の現実からも。イリスからも。
「おまえを勇者になんかさせない。俺が勇者になってやる」
「……無理だよ。ザクロになんて。私に一度だって勝てなかったくせに」
「関係ない。俺はもう決めたんだよ。何言ったって無駄だからな」
「はぁ――分かった。勝負ね。いつか一緒に『勇者選定大祭』に出場して、勝負する。私、絶対負けないからね」
「こっちのセリフだ。ボケ」
夕陽の名残がまだ空に滲んでいた。
風が吹くたび、どこか遠くで木の葉が揺れる音がした。
まるで、これから始まる物語の幕が、静かに上がっていくかのように。
この日を境に、俺とイリスの勝負は、遊びから本気へと変わった。
そしてきっと――。
これはただの勝ち負けじゃない。
俺たちは、互いのために戦うことになる。
いつか、誰にも負けない強さで。
その時、イリスが本当に笑えるように。
〇
数日後。
「おう。来たか」
「なんの用っすか」
俺はロウに呼び出されていた。
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