第5話 少年と鏡

 父は優しい人だった。母が亡くなった後も翳りを見せず、明るく振る舞っていた。幼い自分はそれに随分安心して甘えていた。


 だから、気づかなかった。育児に追われ、友人とも会えず、貯金も減っていく父が、静かに精神を蝕まれていくのを。


 その時は、実にあっけなくやってきた。


 学校のテストで満点を取った吾妻が父の部屋に入った時、父はすでに父ではなくなっていた。部屋の中には鏡がたくさんあって、その全てが割れていた。思わず後ずさると鏡の破片が足に突き刺さっていた。


 あずま、と呼ぶ父の声は今朝までのそれとは圧倒的に異なった。恐る恐る顔を挙げると、鏡に映る父は怪物の姿をしていた。ひび割れた鏡の化け物に底知れない恐怖を覚えた。


 それからのことはよく覚えていない。部屋が暗かったこと、ごり、ごり、と奇妙な音が聞こえたこと、鏡が恐ろしかったことなどはぼんやりと蘇る。朝も昼もないようなところで、ずっと怯え続けていたことも。


 永遠に続くように思えた日々は、ある日突然終わった。知らない人が入ってきて、怖がる自分を宥めた。いつの間にか父は死体となって自室に転がっていたらしい。凄惨な状態だったらしく、吾妻は父の亡骸を見ることは出来なかった。


 これは後から聞いたことだが、吾妻と父の家から異臭と異音がすること、最近父子を見かけないことを不審に思った近所の人が警察に通報したらしい。


 細かい事情は今でもわからないが、吾妻は保護され、父は火葬された。


 身寄りをなくした吾妻は児童養護施設に入ったが、馴染めなかった。一月あまり怪物と共にいた吾妻の目には、人ならざる化け物が映るようになっていた。


 何もないところを見つめ、怯え、いつも暗い顔をしている吾妻を子供たちは容赦なくのけものにした。大人も吾妻が気味悪かったらしく、吾妻はいつも一人だった。


 大人になった姿を思い描けず、此方を虎視眈々と見つめてくるもののけが怖くて、自分は長生きしないだろうな、と思っていた。


 状況が変わったのは、真影が現れてからだ。いきなり吾妻の身元引受人になると言ってきたあの胡散臭い笑みの男は、吾妻の視界に映るものの正体と、それを退治する退魔師という存在を教えた。


 その後色々あって真影に引き取られた吾妻は、退魔師として忙しい真影にさまざまな雑務を押し付けられながら吾妻は退魔師ともののけの世界を見聞きし、結論を下した。


 退魔師の世界は明るくない。もののけと命を奪い合う殺伐とした世界だ。そんな世界とずぶすぶになるのは御免だが、視界に異形が映る吾妻が普通に就職して普通に働くことは無理だった。ならば退魔局には属さず、フリーの退魔師になろうと決めた。


 真影は特に何も言わず、かくして十八歳で吾妻は退魔師になり、家を出た。


 とは言え吾妻は全くの無名だったので、収入を安定させるのは困難だった。真影は情けで依頼などくれなかったので、様々なバイトで食い繋ぐしかなかった。


 トラブルを起こし短期間でクビになりながらも、なんとか二十歳になったころ、真影が見せたいものがあると言って目隠しした上で吾妻を車に乗せた。


 よくあることなので大人しく車に揺られていると、とある山奥の洞窟に辿り着いた。その先で、吾妻は龍に出会った。


          *


「あずま!あずま!」


 黒い靄を引っ掻いても、吾妻の姿は見えない。龍華は必死に叫びながら吾妻の気配を探す。


「どうされましたか、龍華さん」


 避難していた荷葉が尋常ならざる龍華の気配に気づいて姿を現した。


「あずまが!このなかに!」

「これは……雪鬼の力ですか?」

「たぶん!しんでかくりよにちかずいたんだとおもう!したいもやしたけどこれきえない!」


 雪鬼は死体が消えきる前に龍華の火に燃やされて消えていた。


「あずまがいるかもしれないからへたにもやせないし、どうしたらいいとおもう!」


 幼いとはいえ狛犬の荷葉より圧倒的に強い龍の少女に荷葉は気圧された。


「……山神様に聞いてみましょう」

「呼んだかしら?」


 いつの間にか黒い靄の側にこの山の主が降り立っていた。ぴりついた空気の中でも冷静に佇んでいる。


「やまがみさま!どうすればいいかしってる?!」


「落ち着きなさい。……今、人の子は幽世に囚われかけている。助け出せるとしたら、龍の子である貴方のみよ」

「りゅーか、あずまをたすけられるの?」

「ええ。その為には貴方がこの中に入る必要がある。わたしが手助けするわ。行けるかしら、龍の子」

「もちろん、あずまをたすけられるなら。ひのなかみずのなか、どこだっていけるよ」


 龍華は決めたのだ。吾妻と契約を交わしたその日、自由をくれたこの人のために尽くそうと。

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