第6話 アイス
――休み時間
チャイムが鳴って、最初の授業が終わる。
教室に軽いざわめきが広がった。
席を立つ者、教科書を閉じる音、ペットボトルのキャップを開ける音……それらの隙間に、蝉の声がどこか間の抜けたように入り込んでいた。
「いやー、朝からこれはきっついって~」
真っ先に立ち上がったのは澪だった。腕をぐいと伸ばしながら、こちらを振り返る。
「ね、ね、結月、慣れそう?」
「うーん、どうだろ……まだちょっと掴めてない」
「まあね。最初はみんなそんなもんよ。うちのクラス変なやつ多いし」
あっけらかんと言い放ち、周囲を指さす。
「ほら、あそこにいるのが柊人。めちゃくちゃ明るいやつでさ、誰とでもすぐ仲良くなれちゃう。あとで話しかけられると思うよー」
紹介された男子は、教卓の近くで誰かと笑っていた。中嶋柊人。明るい髪色に軽い身のこなし、まるで昔からの友達みたいなノリで、どの生徒とも自然に距離を詰めている。
「……ま、人気者って感じ」
少し詰まったその言葉に引っかかりを覚えながら、視線を教室の前方に移す。
昨日すれ違った深町天音は、誰にも話しかけられることなく、自席で静かにノートを閉じていた。筆箱をきっちり揃えて机に置き、何かを考え込むように目を伏せている。誰かが近づくと一瞬ピリついた空気が漂うような、そんな雰囲気をまとっていた。
「んで、そっちが小谷詩織。火傷、見えちゃうかもだけど……そういうの、言わない方がいいからね。結構、気にしてるっぽい」
小声の澪が顎で示した方向には、窓際で本を開いている少女がいた。
少しだけ顔を隠すように前髪を垂らしていて、その手元にある本は厚く、装丁も古びている。
目が合いかけたが、すぐに逸らされた。
「あ、そうだそうだ。ねえ、結月――“失様(ぬかりさま)”って知ってる?」
「え、なにそれ?」
問い返すと、澪が「あ~」と声を漏らして困ったように笑う。
「えー、マジで知らないの? ……御貫郷の子ならみんな知ってると思ってた」
「いや、僕、こっち来たばっかだから」
「そっか、じゃあ話すのは今度にしとこっかな。ねえ、詩織~、教室移動ってどこだっけ?」
話が途切れる。
小谷詩織が軽く指差して、廊下を示す。
「あ、そっちか! じゃ、移動移動~!」
流れるように空気が切り替わる。
クラスのざわめきが、次の授業へと向けて再び動き出した。
――“失様(ぬかりさま)”。
聞いたことのない言葉。
どこか、背中に冷たいものが流れるような、そんな感覚が残っていた。
放課後を知らせるチャイムが鳴る。最後の授業が終わったことを告げる音が、どこか開放感を帯びて教室に響いた。
椅子を引く音、立ち上がる気配、鞄のジッパーを閉める音。耳を塞いでも届くような蝉時雨が、その隙間を縫うように入り込んでくる。
「やっっっと終わったー!」
大きく伸びをしながら、澪が僕の方に振り返る。
「結月、アイス行こう、アイス! このまま干からびちゃう!」
「……うん、いいよ」
初日からフル授業。予想以上に体力を使ったらしい。
僕は窓際の席に目をやる。
「高瀬も行く?」
声をかけると、彼は腕を組んだままぼんやりと黒板を見ていたが、ゆっくりとこちらに視線を移した。
「ああ、行く。……マジで暑すぎだろ、今日」
その言葉に、澪がにんまり笑って僕の腕を引く。
「よし、じゃあ決定ー! ほら、早くいこ!」
教室を出て、昇降口に向かう。外に出ると、熱気が一気に身体にまとわりついた。むっとするような空気だ。
しかし、風が抜ける分校内よりましだろうか。
照り返すアスファルトの向こうに、遠く山並みが揺らいで見える。田舎で迎える夏は静かで、でもどこか焦げるような匂いがする。
そんな印象を受けた。
砂利交じりの舗装道を三人で歩く。焼き殺すような日差しが頭の上から降ってくる中、ふと澪がスマホを取り出して僕の顔に向けた。
「ほら結月、こっち向いて〜」
「えっ」
次の瞬間、ピースをして自分もフレームに入りながら、シャッター音。
「よし、いい感じ〜。これは……アップっと」
澪は画面を覗き込みながら、満足げに頷いた。
「やばすぎ、めっちゃ盛れてる……」
呟いたその横顔が、ほんの少し嬉しそうにほころんだ。
その様子を見て、高瀬がふっと笑った。
「……早くって言ってたのお前だろ」
高瀬は以前よりずっと痩せた気がした。萎んだという表現の方が正しいかもしれない。
腕には細いブレスレット、耳たぶにはピアスの痕が残っている。
伸びた髪の根元は黒く、色落ちの境目が目立っていた。
……もう、本当に野球はやってないんだなと、感じた。
そうしてたどり着いたのは、駄菓子屋兼雑貨屋の小さな店。
カラカラと音を立てて引き戸を開けると、店内には古い扇風機の回る音と、冷蔵ケースの唸り声。
駄菓子の匂いと、線香の香りが混じり合ってどこか懐かしい気がした。
「ね、どれ選ぶかって性格出ない?」
澪が冷蔵ケースを覗き込みながら言った。
「結月は絶対そっち系でしょ。無難そうなやつ」
「偏見じゃん」
「違うもん、なんか分かるの。そういう感じ」
言いながら、澪は細長いアイスを手に取り、僕の選んだものを見て「ほら〜」と嬉しそうに笑った。
その笑顔の奥に、ほんの少し、何かを試すような光が見えた気がした。
「……じゃあ、それ僕が出すよ、案内代」
とっさに口をついて出た言葉は、自分でも意外だった。
澪はきょとんとして、すぐに口角を上げる。
「え、奢ってくれるの? なにそれ、かっこいいじゃん〜」
軽く流すような口調。
でも、財布を引っ込める仕草がどこか嬉しそうにも見えた。
僕は特に返さず、そのままレジに向かった。
店のおばあさんが、無言でアイスを受け取り、レジを打つ。
扇風機の音だけが、店内にくぐもって響いている。
「……俺は自分で出す」
高瀬が後ろから声をかけてきた。
僕の隣に並んで、ちらりと澪の方を見る。
「澪、お前ほんと図々しいよな」
「えー、何それ。せっかく奢ってくれるって言ってるのに、ひど〜い」
澪が笑いながら肩をすくめ、高瀬は小さく鼻を鳴らした。
軽口の応酬。それ以上でも、それ以下でもないやりとり。
店を出ると、陽射しが少しだけ柔らかくなっていた。
とはいえ、アスファルトの照り返しはまだ強く、開けたばかりのアイスがじわりと溶けていく。
「わー! これ当たったらもう一本もらえるやつだよ! ……当たれ当たれ〜」
澪がアイスの棒を覗き込みながら、わざとらしく声を上げる。
そのテンションにつられて、僕と高瀬もなんとなく顔を見合わせ、少しだけ笑った。
「アイツ、あんま甘やかさないほうがいいぞ」
高瀬が、アイスを齧りながらどこからか取り出した扇子で自分を仰いでいた。
「……そうかもね。まぁ、お近づきの印って感じで」
そう呟きつつ、先ほどの自分の行動を考えた。
どこか子どもみたいな澪の姿に、ふと懐かしさがよぎる。
……いや、懐かしいというより、そういう“空気”を思い出しただけかもしれない。
そのせいだろうか、まるで――――。
夏の熱気とは別の冷たさが、首筋を這い上がってくる。
それと同時に、喉がひどく乾いていた。
……落ち着け、ただの錯覚だ。
少しだけ呼吸が荒くなるのを、周りに感づかれないように必死に抑えた。
「……なぁ」
高瀬が何かを言いかけたその時。
絡みつくような視線を感じて振り返った、
「……やっぱ当たったー! やばっ神引きなんだけど!」
視線の先では澪が手にしたアイスの棒を見せながら、声を響かせていた。
その姿は無邪気そのもので、アイスの棒と一緒にまた自撮りをしている。
何気なく僕の方を見た視線に、一瞬だけ目が合う。
それがどんな意味なのかは、分からない。
――もう関係ない、忘れろ。
自分にそう言い聞かせる。
暑さにまとわりつく風のなかで、夏の匂いが鼻をかすめた。
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