第5話 ホームルーム

——翌朝

 朝の空気は、どこか肌寒かった。

 カーテン越しの光は柔らかく、遠くで鳥のさえずりが響いている。


 ここが、これからの日常になる。

 ……そう思ってはみても、まだ実感は湧かなかった。

 昨日までの出来事は、どこか現実感に欠けていて、まるで夢の続きのようだった。


 制服に袖を通し、鞄を持って部屋を出る。

 寮の廊下は静まりかえっていて、遠くでかすかに誰かの足音が響いていた。


 職員室の前で神原先生と合流し、一緒に教室へと向かう。


「緊張してる?」


 眠たげな目を擦りながら、神原先生が小声で聞いてきた。


「まぁ、少しだけ」


 ……本当は結構緊張している。


 そんな僕の様子を察したのか、神原先生は軽く背中を叩いてきた。


「なーに、大した人数じゃないし、すぐ慣れるよ」


 むしろ、その少なさが、かえってプレッシャーなのだ。


 そんな会話を交わしているうちに、教室の前へと辿り着いた。


「じゃあ、すぐ呼ぶから待っててくれ」


 神原先生はそう言い残し、教室の中に消えていった。


「ホームルーム始めるぞー……えーと」


 中から先生以外の声が何人か聞こえる。

 どんな人たちだろう。馴染めるだろうか。


 廊下に一人立っているだけで、不安と期待が入り混じった感情が胸をざわつかせた。


 ──その時だった。


トン……トン……


 控えめな足音が、静まり返った廊下に滲むように響いた。

 振り返ると、一人の女子生徒が息を弾ませてこちらに向かってきていた。


 肩まである黒髪が揺れている。


(遅刻か……)


 何気なく目を合わせてしまったが、次の瞬間、彼女は視線を逸らした。


ガラ……ガラ……


「お……遅れましたー」


「深町、最近遅刻多いぞー」


 神原先生の声。彼女の名前は深町──。

 印象としては、あまり良くはなかった。

 目が合った時、なぜか強く拒まれたような気がしたのだ。


 外では蝉が盛んに鳴いている。

 風通しの悪い廊下は蒸し暑く、ワイシャツの首元を扇ぐように叩く。


「えーじゃあ今日から転校生がくるから。おーい」


 神原先生に呼ばれて、扉を開ける。


 ──その瞬間、異質さを感じた。


 机と椅子が整然と並んだ教室。

 30席ほどはあるだろう。


 ……けれど、座っている生徒は、ほんの数人しかいない。



 空席の方が圧倒的に多い。座る位置もバラバラで、まるで“交わらないよう”に配置されているようだった。


「朝倉結月です。よろしくお願いします」


 手短に挨拶を済ませると、神原先生が促してくる。


「皆、今日から仲良くしてやってなー。席は好きなところ座っていいから」


「……はい」


 視線を教室に走らせると、後方の席で明るいボブヘアの女子が手を振っていた。


「ここ、空いてるよ!」


 屈託のない笑顔。反射的にその子の隣へと足が向いていた。


「ありがとう。……名前は?」


「よろしくー、結月! うちは矢口澪(やぐち みお)!」


 とにかく明るい。声がよく通る子だ。

 

「澪さん、よろしく」


「澪でいいよ! てか、敬語禁止ね~」


 ふわっとした笑顔に油断しそうになるが、袖のまくり方や小物の選び方、細部にまで気を配っていて、どこか大人っぽさを感じた。

 正確には大人っぽく見せようとしている。

 そんな気配を感じたのかもしれない。


 いろんな意味で、危うい子だ。


 ふと、教室内に視線を巡らせた。


 窓際の席には高瀬がいた。

 視線は窓の外、誰とも交わらず、ただ静かにそこにいる。まるで風景の一部だ。


 前方には、さっき遅れてきた深町。

 先ほどとは違い髪をひとつにまとめて、ノートを黙々と確認している。

 気のせいか、物理的な距離以上に、高瀬との間に線を引いているようにも見えた。


 そしてもう一人──昨日、学校の廊下で見かけた女子、小谷詩織。

 昨日と同じように長めの前髪で表情は見えず、背中を丸めるように座っていた。

 この気温にもかかわらず、長袖の白いカーディガンを羽織っている。


 僕の視線の先に気づいたのか、澪がふいに口を開いた。

 

「ま、うちの学校ちょっと変な子多いけど……結月は普通そうでよかった~!」


 そう言って笑う澪の肩が、こちらに軽くぶつかる。


 ──無理に詮索しなくていい。みんなそれぞれ、抱えているものがある。


 昨日の神原先生の言葉を思い返した。

 詮索する気はない、僕にだって隠し事の一つや二つはある。


 そのまま、何事もなかったかのように1限目の授業が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る