第4話 入寮

 神原先生に案内され、僕と高瀬は校舎の中を歩いていた。


「ここが今使ってる教室。他の教室は基本的に使ってないから」


 廊下の両側に並ぶ教室の扉は、どれも古びていた。コンクリート壁にはところどころ塗装の剥げも見える。だが、それが逆にこの学園の空気に妙な落ち着きを与えていた。


「……人の気配、あんまりしませんね」


「ま、クラスも一つだし。部活も特に無いからな」


 窓の外では蝉が鳴いていた。

 それだけが、校舎に響いている音のすべてのようだった。


 階段を上り、二階の渡り廊下に出る。


「向こうが図書室。まあ、最近は誰も使っちゃいないけど……」


 先生が何かを言いかけたときだった。


 曲がり角の先、廊下の端に一人の生徒が立っていた。


 白いカーディガンに、夏用の制服スカート。長い前髪とマスクでその表情はほとんど伺えなかった。

 彼女は、こちらに気づいたわけでもなく、ただ静かに廊下の奥を見つめていた。


「……あれ、小谷だな」


 神原先生が言った。


「小谷、って……?」


「小谷詩織(こたに しおり)。真面目でな、頭もいい。……ちょっと、人と距離をとるタイプだけど、悪い子じゃないよ」


 そう言った先生は、それ以上何も言わなかった。

 高瀬もまた、何かを言いかけて飲み込んだように見える。


 僕が彼女に視線を向けると、ちょうどそのタイミングで、小谷詩織はゆっくりと振り返った。

 一瞬、目が合った気がして——そのまま彼女は、音もなくその場を離れ、廊下の奥へと消えていった。


 不思議な感覚だけが、胸の奥に残った。


「……あの子……」


 思わず口にしかけた言葉を、神原先生が制するように静かに遮った。


「無理に詮索しなくていい。みんなそれぞれ、抱えてるものがある」


 その声音がやけに優しく、けれどどこか遠かった。

 蝉の鳴き声と、床をこするスリッパの音だけが静かな校舎に響いている。


「こっちは家庭科室と、理科室。昔は選択授業とかで使ってたんだけど、今はもうほとんど物置に近いかな」


 神原先生が何気なく扉を指さす。確かに、ガラス越しに見える教室の中には、椅子が積まれたままになっていた。


「寮生って、ここから通ってるんですか?」


「ああ、基本的に生徒は全員寮暮らしだ。君も今日から同じだな。荷物は一緒に運ぼう。奏汰、手伝ってやってくれ」


「……了解っす」


 どこか気恥ずかしそうな表情の高瀬が、小さく頷いた。

 階段を降りて昇降口に戻る。外に出ると、相変わらず蒸し暑い空気が肌を刺した。

 叔父さんが車の前で待っていた。


「お、来たか。荷物、これだけだな。寮まで持ってくの手伝うよ」


「ありがと。じゃあ、ちょっと手伝って……——あいたた……っ」


「おい、大丈夫か!?」


 高瀬が思わず駆け寄ってくる。

 僕は膝を押さえながら、うめくふりをする。

 少ししてから、ふっと笑い、顔を上げた。


「……冗談だよ。平気って言ったろ」


 高瀬は一瞬きょとんとしたあと、ぷいと顔を背けた。


「……笑えねぇから」


 小さくぼそっと呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。


「じゃ、出発するか!」


 神原先生が明るく声をかけ、全員で荷物を抱えて歩き出す。

 坂を少し下った先に、寮の建物が見えてきた。


 グラウンドの裏手に位置するその建物は、鉄骨三階建てで、校舎よりやや新しい印象だった。

 外壁の白は陽に焼けて少し黄ばんでいるが、手入れはきちんとされているようで、雑草もほとんど見当たらない。


「ここが男子寮。女子寮は裏手にもうひとつ建物がある。教師の部屋も敷地内にあるから、何かあればすぐ来ていい」


 玄関を抜けると、ひんやりとした空気が出迎えてくれた。


「……涼しい」


「空調だけは一丁前なんだよな。ほら、階段上がって二階。君の部屋は201号室」


 塗装の剥げた階段を上り、案内された部屋の前に立つ。

 鉄製の扉にはやや古びたルームナンバーと、小さな郵便受けがついていた。


「鍵は、これ。戸締りはしっかりな」


 神原先生が手渡してくれた鍵を受け取り、僕は扉を開けた。


 中は思ったよりも広かった。

 ベッド、机、本棚、小さなクローゼット、そしてカーテン付きの窓がひとつ。

 簡素だが清潔感があり、最低限の家具は揃っていた。


「おお、割と快適かも」


「風通しは悪くないけど、蚊が入るから夜は網戸だけにしとけよ」


 高瀬と叔父さんが荷物を中へ運び入れてくれる。

 段ボール箱がひとつ、またひとつと床に置かれていく音が響く。


 ふと、高瀬が段ボールを床に置いたまま、僕の机の端に腰を掛けて言った。


「……まぁ、分からないことあれば聞けよ」


「あぁ、頼りにするよ」


 僕はベッドの縁に腰を下ろし、高瀬と向かい合うような形になった。


「変な感じだな、こうして同じとこにいるの」


 その口調が思ったより真剣で、少しだけ戸惑う。


「そう?」


 そんな空気を茶化すように僕は返事をした。

 真面目な空気は苦手だ。


「……調子狂うぜ」


 ふっと笑うと、高瀬は何か言いかけて、やめた。


 その空白を埋めるように、神原先生が声を上げる。


「じゃ、俺はそろそろ戻るけど……今日は無理せず休めよ。明日から授業だから遅れるなよー」


「ありがとうございます」


「じゃあ、俺もそろそろ行くよ。何かあったら遠慮しないで電話しろよ結月」


 叔父さんがにこりと笑い、軽く手を振る。


 扉が閉まると、寮の部屋には静けさが戻ってきた。

 蝉の鳴き声だけが、遠くでずっと響いている。

 どこか懐かしく、そして新しい夏の音だった。


 日が落ち始める。

 荷ほどきは半分が終わらないまま、僕はベッドに寝転がっていた。


 日中よりも少しだけ涼しくなってきただろうか。

 街灯はあるが、光は弱く、窓の外はほとんど闇だった。


 ここにはコンビニも、駅前の喧騒も、聞き慣れた人混みもない。

 けれど、不思議とそれが嫌じゃなかった。


 部屋の明かりは消して、ベッドの脇に置いた小さなスタンドだけが光を灯していた。

 天井をぼんやりと見つめながら、さっきの高瀬の言葉を思い出す。


 ——野球……もう、やってねーから


 野球を奪ったのは、僕の方なのかもしれない。


 少しだけ、胸が締めつけられる。

 でも、もう過去のことだ。過ぎたことを振り返るより、これからを考えるべきなんだろう。

 僕は伸びをして、ゆっくりと目を閉じた。

 涼しさすら感じる山の夜風が、網戸越しにカーテンを揺らしている。


 ……不思議な感覚だ。

 明日からまた、新しい日々が始まる。


——この場所で。

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